日本語で表現している私たちは、いわば「ローカル・リーグ」の中で闘っているのであって
日本が「ガラパゴス化」したことの一つの要因は、日本が、それなりに住みやすい国だったということを意味する。国土は南北に長く、多様な自然を誇る。四季は変化に富み、国土はさまざまな産物に恵まれている。人口も多く、それなりに大きな市場がある。このような幸運な状況の下で、日本国内で、日本国内の文脈の下で努力を続けても、それなりに報われることができた。
「日本語」の恵みも大きい。もともとの「大和言葉」に加えて、中国からの外来文化である「漢語」をたくみに取り入れた、すぐれた言語。もともと文字を持たなかった日本人が、漢字を変形して「ひらがな」や「カタカナ」を作った。明治には、西洋の思想を取り入れて「自由」「哲学」「権利」「科学」などの「和製漢語」をつくった。その結果、自然科学や哲学、経済学、社会学といった近代的学問を、日本語で行うことが可能になった。近年では、英語を中心とする外来語を、カタカナ表記で取り入れることで、変化する時代に対応している。開かれた動的システムとしての日本語は、その中に豊かな表現への可能性を蓄積し、世界でも有数の力のある言語となってきたのである。
一方で、日本語の宇宙があまりにも強く、そして豊かな可能性を持っていることが、日本人の精神を閉ざすことにもつながった。真剣に外国語を学ばなくても、事足りる。自分たちの感じていること、考えていることを英語を中心とする世界共通語で表現しなくても、国内の市場に向けて書けば、それなりに報われる。このような状況は、日本人の表現を、日本語という宇宙の中にやさしく包み込んできてしまった。
日本語の表現の宇宙は、日本人、日本列島だけでほぼ閉じている。それでも、日本語の書き手たちがプロ、アマを問わずに継続して登場し、表現の洗練が見られてきたのは、日本語のマーケットがそれなりに大きかったからである。日本語での表現を追求しているだけでも、自分の精神世界を深め、高めることができたのである。
近年、村上春樹さんや吉本ばななさんを始めとするパイオニアたちの努力により、小説の一部は、英語や他の言語に翻訳されて読まれるようになってきている。また、言語に頼らずに伝達することも可能な漫画やアニメについては、すぐれた作り手による高いレベルの内容が評価されて、世界的な市場を獲得するに至っている。
しかし、日本文化全体から見ると、これらの動きは、今のところまだ例外的なものに留まっている。とりわけ、国の文化力を考える上で重要な意味を持つ学術、批評、思想系の書物については、日本語圏の中で閉じたマーケットができて、ほぼそれで完結している。韓国語や中国語、タイ語といったアジアの言語に翻訳されるケースはしばしば見られるものの、それ以上にはなかなか進まない。
日本語でものを書いたら、ほぼ自動的に、読み手は日本人に限られる。このような状況は、いわば、日本人にとって、暗黙の前提となってきた。また、そのことが、ある種の「モラル・ハザード」の原因にもなってきた。
たとえば、近隣諸国との関係についての評論がそうである。日本人が読むだろうという安心感、油断から、どうしても議論が内輪向きの、閉じたものになってしまう。そこには、国際関係を考える上で必要な、他者への緊張をはらんだ視点がない。結果として、日本の国際的地位を真の意味で向上させることに資することがなかなかできない。
一般に、言語は、私たちの世界観、感性に大きな影響を及ぼす。日本語が以上のように「閉じた」言語であることは、私たちが日本列島の中で生きていく上での世界観、生活実感を深いところで規定し、特徴付けてきた。
日本の国内で起こっていることは、あくまでも「ローカル」なことであり、世界の中の趨勢とは関係ない。私たちは、気付かないうちに、そのような感性の中で生きるようになってきた。日本語で表現する者は、もちろん、その内容に心を砕き、考えを深め、次第に高みへと上ろうとするだろう。日本語で表現された思想の中には、世界に誇るべきものももちろん多い。それでもなお、一般的な状況としては、日本語で表現している私たちは、いわば「ローカル・リーグ」の中で闘っているのであって、世界の最良、最先端が集う「グローバル・リーグ」での闘いとは、言語の壁で隔てられている。そんな風に思い込まされてきたのである。
7月 8, 2010 at 06:42 午前 | Permalink
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