ほんの小さなことの中に
ほんの小さなことの中に
(『風の旅人』第24号掲載。茂木健一郎『今、ここから全ての場所へ』所収)
英語圏に、「ハッピネス・イズ・・・」(幸福とは・・・)とそれぞれの定義を述べる遊びがある。
「幸福とは、仕事を終えて最初に口にするビール」
「幸福とは、待ち合わせの場所で恋人の姿を見つけた瞬間」
「幸福とは、家に帰って自分を迎えてくれる家族の笑顔」
「幸福とは、仕事がうまくいって顧客から感謝されること」
「幸福とは・・・」
百人いれば、百通りの「幸せ」の定義がある。サンゴの海の中で、色とりどりの魚たちが波の間や、
窪み、暗がりや砂地の中にそれぞれの「居場所」を見いだすように、人間の幸せのあり方も、またそれぞれである。
幸福とは何か。そのことについて一般的概念としてぼんやりと考えている間は、その実体が何とはなしにつかめているようにも思える。ところが、自分自身の一度しかない人生の中での「幸福」の姿を見極めようと目をこらしていくと、かえってその形がぼやけていってしまう。幸福の条件というものは、突きつめていくと何なのか、端的に答えを出すことが難しい、つまりは一つの「不良設定問題」に変貌していってしまうのである。
文学的な修辞や、一種の人生訓として「幸福とは何ぞや」という哲学的議論を振り回しているのではない。世界をありのままに見つめること。人間がどのように行動し、感じ、選択しているか、その基準をリアルにとらえようとすること。そのような態度の下に人生の本質をとらえようとする時に、「幸福」が一つの大きな命題として浮上してくるのである。
幸福というのは突きつめていくほど本当にその正体が茫洋として解けていってしまうものであるように思う。功成り名遂げた人が、昔の貧乏だった時代を思い起こして、あの頃の方が幸せだったと思う。そのようなことは逸話としてはしばしば聞くことであるが、手垢のついた話として通り過ぎてしまってはもったいない人間の心の機微が、そこには現れている。
私たちは、日々、幸福というものの多様なあり方をその繊細なニュアンスにおいて体験し続けているのではないか。たとえば、旅行に出かけた時、そのプロセスにおける「幸せ」はどのように生まれ、消えていくのか。何も経験していない時の、わくわくするような期待の気持ち。現地に着いたばかりの時の、まだまだ始まったばかりで、これから様々なことが起こるという楽しみの思い。風景に心を動かされ、出会う人々の感触に揺るがされ、おいしい食事を取っている時の、充実している感覚。旅が終わりに近づき、満たされると同時に一抹の寂しさにとらわれる、その何とも形容のしようのない感覚。
旅という時間的、空間的なアクションを構成している様々な現象学的な次元の中に分け入っていくと、そこには実に微妙なニュアンスがあり、豊かなダイナミクスがあり、そして未来と過去、現在の間の複雑な相互作用がある。
人間の幸福のあり方は、まさに熱帯の密林のように入り組んだ構造をしている。「マタイの福音書」には、「人はパンのみにて生きるにあらず」とある。孔子は、「学びて時にこれを習ふ、亦説ばしからずや。朋有り遠方より来る、亦楽しからずや」という言葉を残した。本居宣長の下に集った松阪の商人たちは、「今まで様々な道楽を尽くしてきましたが、学ぶということほど楽しいことはないですね」と感嘆した。世には、働くことが楽しくて仕方がない人たちがいる。梅田望夫さんによると、超一流のプログラマーは、飛行機に乗って水平飛行になるとプログラムをし、ホテルに着くとプログラムをし、食事を終えるとプログラムをし、ひたすらプログラムを続けるのだという。
「幸福」のあり方は人それぞれであり、ジャングルの中に住む生物層のように多彩である。いわゆる享楽的なことばかりが、人間の「幸福」を構成しているのではない。人間の進化の歴史は、「幸福」という宇宙の拡大の過程でもあった。人間の「幸福」のあり方を、その多様な全体性において追究することは、「幸福」という命題の単純なる理解が人類社会と地球にもたらしてきた様々な深刻で見方によっては滑稽な害を乗り越えることにつながる。
幸福の技術とは、つまりは掛け値なしの金剛石的な強靱さを秘めた知性のことである。人類は、従来の粗野なる幸福概念を捨て、より知的に洗練された幸福のイマージュに到達しなければならない。そのことは、人間にとっての幸福概念の内実を明らかにしようとしている「神経経済学」などの分野における大きな科学的課題であると同時に、一つの重大なる倫理問題でもある。
人間の幸福のあり方を考える上で最も重要な点の一つは、それが関係性において規定されるものであるということである。人間は、自分自身の幸福の量を、孤立したパラメータとして最大化しようとするのではない。
他人との関わり合いにおいて様々な複雑で豊かなやりとりを行い、その繊細な機微の中で、自分自身の、他人の、そして社会全体の「幸福」を育むべく心を砕く。そのような人間のあり方は、ともすれば孔子の描いた「聖人君子」の領域にのみ属することであり、現実の人間のあり方からかけ離れた理想論のようにも響く。しかし、関係性の上に展開する幸福の複雑なダイナミクスを直視し、その豊かな成長を図ることができることは、実際には「楕円関数」や「ブール代数」の計算を行うのと同じような意味で高度な知性の働きだということができるのである。
先に引用した聖書の言葉の精神を引き継いで言祝げば、人は自分のためだけに生きるに非ず。脳の中の「幸福の通貨」であるドーパミン放出のダイナミクスなどを巡る神経経済学の研究は、人間の行動様式の根本に他人のために判断し、行為するという「利他性」があることを疑問の余地なく明らかにしている。
むろん、利他性は純然たる善意として進化して来たのではない。チャールズ・ダーウィンの進化論は、それぞれの生物が時には他に犠牲を強いても自分たちの遺伝子の拡大を図るという冷酷きわまりないこの世の有り様を映し出す。同一種内においても同じこと。自分の遺伝子をできるだけ残そうという利己的な欲望が出発点となる。その利己性が他者との関係性において調整され、一見利他的に見える行動が生まれて来た。それが、進化生物学による道徳性の起源の説明である。
現時点における科学的知見の教えることを信じれば、利他性自体は、利己性が関係性の中に投げ込まれた結果生まれてきた一つのあだ花のようなものなのかもしれない。そのあだ花の咲き乱れる草原にこそ、私たち人間の一筋縄では行かない幸福のあり方がある。利己性の暴走も、利他性の強制も、どちらも私たち人間が投げ込まれているこの世界のリアリティの全体を反映していないのである。
「所有」、「拡大」、「贈与」、「受諾」、「交換」、「願望」、「至福」、「失望」・・・。
他者との関係性を記述するために援用される様々な概念が、果たして本当に私たちの人間の息づく生活空間の微細なニュアンスを反映しているかどうか、常に振り返り、チェックしてみる必要がある。そうでなければ、私たち自身の生が、その可能性を十全に享受できない。
人間の幸福の条件の複雑さをありのままに見つめること。そのような振り返りの作業が、「所有」と「利己性」に基づく資本主義という制度を硬直化させることなく、人間の内包している豊かな志向性さに見合ったものとして維持していく上で欠かせない。神話的なおもむきを漂わせてしまうほど固定化しているように感じられるものたちについて、その起源の現場にまで遡って生き生きと様々なことをよみがえらせてみるのが良い。起源に至り、流動性を探り当てることによって、血を通わせることができる。生命に息を吹き込むことができる。
小学校に上がってしばらくした頃、見渡す限りの土地という土地が、どれも個人、ないしは会社や地方公共団体、国家など、いずれにせよその持ち主がはっきりしているという事実にふと気付いて驚愕した。
日本は狭い島国だとは言っても、それなりに広大である。一つの国という世界は、子供心にはとりわけ気が遠くなるおど大きな場所のように思える。その場所の全てを、一つひとつどこが誰のものだときちんとブック・キーピングすることは、とても面倒なことのように思われる。
それなのに、実際には、街を歩けば、家の敷地はもちろん、道路や、歩道や、電信柱の立っている小さな土地まで、どれも所有者がはっきりしている。それどころか、滅多に人が訪れないような山の方まで、持ち主がはっきりしている。犬や猫、鹿や鴨は、どこが誰の持ち物などということは気にせずに闊歩しているが、「万物の霊長」たる人間はそういうわけにはいかない。どこが誰の土地なのか、とにかく白黒をはっきりさせなければ気が済まない。そのような社会の仕組みを作り上げた人間の性というものの凄まじさに当てられ、幼い私は今でも忘れられない衝撃を受けた。
ある日電車に乗り、窓の外を流れる風景を眺めながら考えた。平均すると、皆それなりに土地を持っている計算になるはずだ。してみると、自分の親はその割合で言うと大した土地を持っていない。半ば落胆し、同時に妙にほっとしたような気持ちになった。
「所有」するということの周囲には、なにやら禍々しい雰囲気が漂っている。人とのやりとりにおいてお互いに相手を思いやり、譲歩しあい、慈しみ合い、かばい合う。そのような現場に流れている生き生きとした「幸福」のダイナミズムは消え、苔むして、硬直化し、容易には動かし難い何ものかの気配が忍び寄ってくる。
神経経済学が明らかにしつつあるような人間の幸福の水成論的な流動性。そのような幸福をめぐる生物学に見合う世界観を獲得するためには、何よりも「所有」のようなともすれば固定化し、物象化しがちな概念に再び生き血を注ぎ、生命体としての運動をありありとよみがえらせる必要がある。人間の精神を高貴なものとし、人類の知的達成を支える原動力となる一方で、生命の躍動から離れて行く原因ともなる「結晶化」の論理。「所有」という「概念」が持つ強烈な毒からいったんは離れて、それを取り巻く様々な認知過程を自然化しなければならない。
むろん、強欲なのは人間だけというわけではない。少年の私が夢中になって追いかけていた蝶も、なわばりというものを意識して、同種のオスがテリトリーの中に入ってくると追い出そうとする性質を持っている。そこには自らの勢力を拡大し、遺伝子を増やそうと努めずにはいられない、そしてその過程で他者を犠牲にすることを厭わないという生命というものの「原罪」が現れている。
だがしかし、土地を「所有権」という名の下に囲い込んでしまう人間に比べれば、蝶々のやっていることはまだ微笑ましい。何しろ、そうやって一生懸命領土を主張していたとしても、秋がくれば羽が破れて死んでしまう。そして、土へと還っていくのだ。人間と来たら、自分の肉体が朽ち果てて腐敗し、ウジやシデ虫の餌になり、やがて土へと還っていくのがいやだと、わざわざ棺桶に入れたり、火葬をしたりさえすると言うのに。
所有することは、確かに人間の本能的な衝動に属している。おもちゃが誰のものか、大人からみれば他愛のない喧嘩でも子どもにとっては真剣そのものである。喧嘩して腹いせの余り「ぼくのだから壊していいんだ」とばかりおもちゃを投げつける子どももいる。民法二百六条は「所有者は、法令の制限内において、自由にその所有物の使用、収益及び処分をする権利を有する」と定める。所有するという人間の根源的情動の強さを否定するものではない。大切なのは、その周囲の様々を固定化せずに、人間の生の営みの豊かさに見合う形で流動化させることである。
小学校に上がる前の頃、そうめんの中に何本か色が着いているものがあって、とても好きだった。味は変わらないはずなのに、それが欲しくてたまらなくて、2歳違いの妹とよく喧嘩をした。
あの頃の私の脳裏に、くっきりと鮮やかな色がついたそうめんが一体どのように映っていたのか、今となってはわからない。水の中にたゆたって浮かぶそのたった二三本の赤や緑や青の線が、その時はこの世の何ものよりも望ましいもののように思えた。そして、その色つきのそうめんを私から奪おうとする妹が、にくたらしくてたまらなかった。
所有の主体を個人から国家にスケールアップすれば、領土の問題になる。近代の国民国家に領土紛争というものは付きものである。どの国も、自分たちの事情は特別だと思っているが、インターネット上の無料の百科事典、ウィキペディアで調べてみればわかるように、実際にはアジア太平洋地域だけで数十の領土紛争がある。もともと、人工衛星から見れば地球の上に線など引かれていない。その上に人為的な境界をつくろうというんだから、土台無理が生じる。領土紛争は、いわば、「所有」という概念に基づいて構築された近代の国家という制度時代に内在する脆弱性に属することである。自分たちだけじゃないと気付けば、つり上がった目も少しはゆるむのではないか。
所有ということを、静態においてではなく、動態においてとらえること。つかんで放す。吸って吐く。そのような変化の中にこそ、いかにも生物らしい「所有」の形態がある。国家どうしの境界における脆弱性は、近年までは紛争や戦争といった破壊のプロセスに帰結するのが常であったが、その流動性を、生命本来の慈しみ育み、いきいきと行き交うという領域に呼び戻してやるのが本当の知性というものである。
人間の幸福を支える諸条件の複雑さ、その流動性を再認識し、社会の中の階層、差別、傲慢、怠惰を固定化している様々な制度を脱構築すること。そのためには、むしろ、「幸福とは何でないか」という命題を並べ立てることが有効であるかもしれない。
「幸福とは単純なる強欲のことではない」
「幸福とは所有のことではない」
「幸福とは、他者を犠牲にして自分の利益を図ることではない」
「幸福とは、ある固定化した状態のことではない」
「幸福とは・・・」
近来の「脳ブーム」の中で、ともすれば単純に図式化した「ノウハウ」を振りまき、人間本来の複雑で豊かなありかたを忘れさせる機能を果たしてきた脳科学も、人間の幸福を成り立たせている多様で流動的な諸条件を明らかにすることができれば、知性の本懐に資することができるのではないか。私は、そこに賭けようと思う。
世界は私たちが考えている以上に複雑で、だからこそ豊かなのである。
(http://twitter.com/terustar さん思い出させてくれてありがとう!)
7月 13, 2010 at 10:30 午前 | Permalink
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