必然化する偶有性
日本という国が自らの過去の成功の残照の中で、将来への不安まどろんでいるうちに、世界は変わりつつある。
変化した一番の理由は、世界のさまざまな国、地域の相互依存関係が強まったためである。グローバル化された世界においては、局所的な様子を見ているだけでは、自らの将来を「設計」することができない。遠く離れた場所での出来事が、回り回って自分自身の生活に重大な影響を与える。逆に言えば、そのような事態を前提として、自らの生き方、社会のシステム、組織のあり方を「設計」しなければならない。
たとえば、直近では、ギリシャの財政危機に端を発した金融不安。ギリシャは、重要な文化の発祥の地であり、とりわけヨーロッパにとっては大きな歴史的意味を持つ国である。しかし、今日、ギリシャの人口は日本の約10分の1、経済規模は10分の1以下に過ぎない。本来ならば、ギリシャの財政危機が世界経済に影響を与えるとしても、限定されたものになるはずだった。
ところが、ギリシャはユーロ圏に組み込まれてしまっている。そのため、ギリシャの危機が、世界の主要通貨の一つであるユーロの危機へとつながった。ユーロ危機が、ドル、ユーロ、円、元などの世界主要通貨の間の相互依存関係にも影響を与えて、世界全体が不確実性の中に投げ込まれる結果となった。
今や、世界のさまざまな要素が、お互いに相互作用で結ばれてしまっている。それは、私たちに多くの恩恵をもたらした一方で、世界のダイナミクスを、本来的に偶有的なものへと変えてしまっている。
自分の回りの「ローカル」な状況を自らコントロールしようとしても、そうはいかない。局所が、別の局所につながり、それがまた次の局所へとつながっていく。「ローカル」だけを見ていたのでは、二つ先、三つ先、四つ先のノードで何が起きているのか、把握できない。「遠く」で起こったことが、回り回って自分の生活に影響を与える。偶有性が必然的となっているのである。
とりわけ、インターネットの発達は、物流の側面だけでなく、情報の面から見ても、世界各地の相互依存関係を強め、偶有性を増す結果となっている。大学などの教育機関は、もはやそれぞれの国や地域で孤立した存在であっては輝くことはできない。本や音楽、映画などの受容も、国境を越えて、予想もしないブームが起こったり、あるいは国の向こうから新しいトレンドが来たりなどという相互依存関係、偶有性が強まっている。
グローバル化の世界では、グラフ構造から来る論理的必然として、偶有性が避けられない。今までの古いやり方を継続しようとしても、それでは持続可能ではないし、何よりも生命のあり方として不満足である。偶有性は、狭い世界で今までのやり方を継続しようとする人にとっては脅威であり、「黒船」であるが、それを抱きしめ、自らを投企しようとする人にとっては、大いなる成長の機会となり得る。
偶有性に向き合うことは、人間の脳の本来の働きに適う。もともと、脳の中の神経ネットワークの性質は、数個のシナプスを通してすべてのニューロンどうしが結び合う「スモール・ワールド・ネットワーク」性を持っていると考えられている。「スモール・ワールド・ネットワーク」においては、局所的な計算に加えて、遠くの回路どうしを結ぶ情報伝達も重要な意味を持つ。局所的な計算に比べて、遠くの回路で行われている計算は予測可能性が低い。
脳は、もともと、容易には予想できない要素が本質的な役割を果たすという「偶有性」を前提にその動作が設計されている。そのことは、認識のメカニズムや、意識と無意識の関係、記憶の定着や想起などのプロセスに反映されている。偶有性に適応するからこそ、脳は創造的であり得る。グローバル化に伴う「偶有性」の増大に適応することは、脳本来の潜在的力を発揮することに、必ず資するはずなのである。
7月 29, 2010 at 07:52 午前 | Permalink
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