坂本龍馬は、26歳にして、もう一度この世に生まれ直したのである。
もともと、私たちは一人の「脱藩者」としてこの世に生まれてきた。母親の胎内という居心地の良い環境から、私たちは一人ひとりこの世に産み落とされてきた。母胎から離れて独立した呼吸をする者としてこの世を経験し始めることで、私たちの中に一つの潜在能力が開花し始めるのである。
生まれ落ちたばかりの子どもは、この世界について何も確実なことは知らない。知らないままに、探索を重ねていく。どんな環境に生まれたとしても、文句一つ言わず、自分を囲んでいるものに一生懸命適応しようとするのである。
私たちにとって、親は「絶対的な」存在である。世の中にはいろいろな人がいる。その中には、随分と個性的な人もいる。自分の友人を思い浮かべても、「こいつが親になれるのか」とか、「こんなやつが子育てできるのか」と心配になるケースも多いだろう。そんなユニークな人にでも、子どもはできる。そうして、その子どもにとっては、たまたま生まれ落ちてきたその両親の組み合わせが、自分にとっての絶対的な条件となる。
たまたま、ある個性を持った親の下に生まれてくる。これが、実に、私たちの出生に関する「真実」である。その親が、「保護者とはかくあるべし」という視点から見て、決して理想的なわけではない。また、一人の子どもがその親の下に生まれてこなければならなかった「必然性」があったわけでもない。
それでも、その親の下に生まれてきてしまった。もうこうなってしまっては、その「偶然」を「必然」として受け止めるしかない。「どうなることもできたのに」という「偶然」から、「こうなるしかなかった」という「必然」への命がけの跳躍。ここに、私たちの生命の本質である「偶有性」が立ち現れる。
脱藩者になるということの本質は、すなわち、「偶然」を「必然」として引き受ける「偶有性」の中にある。いざ脱藩してみても、「外の世界」がどのようなものか、予想はつかない。たとえ、そこが思いもしなかったような逆境であっても、文句を言うわけにはいかない。与えられた状況の下で、一生懸命力を尽くすしかない。そこは、もはや、自分が慣れ親しみ、自分を育んでくれた勝手知ったる環境ではないのだから。勝手知ったる環境を抜けてこその、脱藩である。
脱藩者は、自分が投げ込まれる環境について、文句を言うわけにはいかない。世界は、個人的な資質や感傷で動くにはあまりにも巨大である。たとえ不本意な扱いを受けたとしても、脱藩者は、文句を言ってはいけない。逆境でも、それを恵みとするくらいの勢いで、生き切ってみる。坂本龍馬が成し遂げたことの本質は、そこにある。坂本龍馬は、26歳にして、もう一度この世に生まれ直したのである。
7月 15, 2010 at 06:38 午前 | Permalink
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