「明治」からの脱藩
日本の中でも、ようやく、このままではいけない、新しい時代を切り開かなければならない。そのような機運が高まってきている。
その一方で、今までの「エスタブリッシュメント」の考え方も、根強く残っている。特に、インターネットに象徴される情報ネットワーク上の情報のように、世界規模で自由に流通することができない「人」に関わる分野では、改革は遅々として進まないことが多い。
ハーバード大学やイェール大学に進む日本人の数が少ない。この点についても、それが問題であるということは少しずつ認識されるようになってきた。もちろん、海外の「一流大学」に日本人が留学することで全てが解決するわけではない。むしろ、本来の課題は逆である。日本の中に、世界に開かれた高等学術機関を作る。そこを目指して、世界の学生や、研究者が集ってくる。そのような魅力のある「場」を作るのが、最終的な目的でなければならないだろう。優秀な頭脳がアメリカに流出することは、個人の資質の涵養、及びネットワーキングという意味においてはプラスかもしれないが、人的資源の囲い込みという意味においては、やはり、中長期的に日本の国益を損する。
ハーバードやイェールに留学することを、国際的に磨き上げられた学問、素養を身につけるという視点から捉えるのであれば、問題はない。一方で、単に「そっちの方が偉いから」とか、「ハクを付ける」というような意味合いで目指すのならば、何のことはない。自分の頭で考えることなく、権威を盲信する「古い日本」に逆戻りである。
問題は、日本の中に、世界に開かれた、真にすぐれた高等学術機関をつくる上で、日本人のマインドセットが邪魔になり、足かせになっていることだろう。
ある時、私はテレビ番組を収録するスタジオで、隣りのある女優の方と話していた。たまたま、その収録においては、ハーバードやイェールに行く日本人の数が少ないということがテーマだった。私は、日本の「今、ここにある危機」について話した。日本の大学が、学部学生がほとんど日本人しかいないという意味において、「ガラパゴス化」している。わが愛する母校のことをこんな風に言うのは忍びないが、もはや、東京大学に入るために小学校から塾に行き、「お受験」を重ねても、仕方がないではないか。
そんなことを話していたら、その女優の方がこう仰った。「いいなあ。私、子どもが東大に行く母親になりたいわあ。」
私は、そのささやきのような声に、その人の魂の真実を聞いたように思った。
また、こんなこともあった。私が、ブログで、「脱藩」について盛んに論じていた頃のことである。ツイッターで、ある人が、このような趣旨のことを私に向ってつぶやいてきた。「無名の東大生が、東大ブランドを利用しようと考えても、その考えを否定できるのか?」
そのつぶやきの後、「東大ブランド」に市場価値があるとか、利用できるものは利用したらいいとか、そのような考え方を擁護する「つぶやき」が続いた。
スタジオでご一緒した女優も、ツイッターでつぶやいた人も、特に突出した感性を持っていたとは思えない。日本の社会のいわば「一般常識」に従って、ごく素直に意見を表明しただけだとしか思えない。
このような事例に接すると、私はすっかり考え込まされてしまう。「東大ブランド」に象徴される日本人のマインドセット、すなわち、学問というものを、一生にわたって不断に積み上げていくものとして考えるのではなく、ある限られた「クラブ」に属するための「資格試験」のようなものとして考える。かつての中国の「科挙」に通じるメンタリティ。私は、そんなものに、価値があると思ったことはない。
私自身は、「東大ブランド」を利用しようとしたことなど、一度もなかった。むしろ、在学中から、ブランドとかそんなものはクソクラエだと思っていた。「基準」は、常に、アインシュタインや、ラッセル、ヴィトゲンシュタインなどの、知の巨人だけだった。彼らに比べて、今の自分が、あるいは「東京大学」というものが、どれほどの価値があるものか、そんなことをいつも考えていた。人類の知的資産として残ることを成し遂げる。「認識における革命」をやる。それ以外に意味のあることはない。そんなことばかり考え、友人と熱っぽく話している若者だった。そんな視点から見れば、東大の入試ごとき、とっとと済ませてしまうべき下らないものにしか思えなかった。今思えば、その下らない入試に18歳の春まで付き合わされたことが、まさに「プロクラステスのベッド」だったわけであるが。
マインドセットというものの本質は、深く掘り下げないとわからないのかもしれない。「東京大学」が日本の大学の中で特別な位置を占めているのは、その受験の「偏差値」の高さや、出身者中のノーベル賞受賞者の数、あるいは日本の中での社会的評価などとも関係があるのだろう。しかし、それだけではない。決定的に重要なのは、「東京大学」が設立された経緯の背後にあるもの、すなわち「明治」という時代精神そのものである。
「東京大学」のマインドセットを脱藩するということは、すなわち、同時に、「明治」に始まった日本人のマインドセットを脱藩するということを意味する。そのような必要性が高まっているからこそ、現代は、明治維新に続く日本の変革期なのである。
7月 17, 2010 at 07:11 午前 | Permalink
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