才能に対する「リスペクト」を欠く阻害要因は、形を変えて存在する。
階級社会は、人々の間の関係に「安定」をもたらすというメリットがある。一方で、人々がそれぞれの個性や才覚を持って自由に創造し、社会を作っていくダイナミクスを奪ってしまう。
坂本龍馬は、土佐藩の下級武士である、郷士の家に生まれた。当時、土佐藩においては比較的厳しい階級制度があり、上級武士である上士との間には歴然たる区別があった。そのようなもろもろの「しがらみ」を断ち切らなければ、坂本龍馬の活躍はなかった。「脱藩」という行為はそんな「龍馬の自由」の象徴である。
それぞれの「分をわきまえる」という美意識は、すでに存在する秩序を安定させるためには有効に働く。しかし、才能を発揮させるという命題においては、「分をわきまえる」ことは阻害要因にしかならない。
人間の才能は、遺伝子だけで決まるわけではない。たとえ、遺伝的要素がある程度の提供を与えるとしても、ユニークな資質をもった人が生まれる確率は、社会階層のどのレベルにおいてもほぼ均等に存在する。生まれや地位で「できること」が限られてしまう社会は、つまりは才能に対する「リスペクト」を欠いているのである。
時が流れ、現代の日本では、「士農工商」といった身分制度も、「藩」のような人の動きを縛り付ける仕組みも存在しない。しかし、才能に対する「リスペクト」を欠く阻害要因は、形を変えて存在する。
たまたまた所属する組織によって、その人の価値が決まったり、できることが左右されたり。あるいは、たかだか18歳の時点での「試験」の結果を反映しているに過ぎない「出身大学」によって人の評価が決まる偽りの「印象批評」。日本人のマインドセットは、すべての制約を超えてギラギラ輝くのが本来の才能に対するリスペクトを、根本的に欠いている。
福澤諭吉の言う「独立自尊」の精神は、未だ日本に根付いていないのである。
7月 5, 2010 at 07:54 午前 | Permalink
最近のコメント