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2010/07/10

「藩」の正体は、「脱藩」して初めてわかる。

 坂本龍馬は、満26歳の時に、和霊神社に参拝し、水杯で武運長久を祈り、そして、「脱藩」していった。土佐藩という「組織」から離れてひとりの人間として自由に活動したことが、その後の「海援隊」結成、「薩長同盟」締結、そして「大政奉還」の実現といった偉業を成し遂げる上での基盤となった。

 ここで興味深い事実は、龍馬の生きていた江戸時代には、「藩」という言葉はなかったということである。一部の用例を除いて、「藩」という呼称が使われることはほどんどなかった。明治に入り、いわば旧時代の体制を認識するための概念として「藩」という呼称が使われるようになったのである。

 その藩も、1869年に諸大名が天皇に領地、領民を返還した版籍奉還、さらには「藩」を廃して「府」や「県」とした1871年の「廃藩置県」によって解体され、消滅することとなった。1867年の「大政奉還」からわずか4年。「藩」という呼称が広く使われるようになってから、その実体が消滅するまでの期間は実に短かった。

 「藩」という組織の実体に、それが解体、消滅する間際になって初めて呼称が与えられ、明確に認識されたという事実は興味深い。

 ある制度が存続している間、人々はそれを余りにも「当たり前」のことだと思い、暗黙のうちの前提にしてしまう。それはいわば「空気」のようなもので、名前さえ与えられない。いちばんやっかいなのは、その正体が明確に把握されないままに、人々の行動を支配し、認識を方向付けてしまうような「制度」である。土佐で言えば、山内一豊に始まる代々の山内氏に仕えることがいわば暗黙の前提として、人々の思考をしばっていたのである。

 今日の視点から見れば、それがいかに不条理で、合理的な根拠に欠ける制度でも、存続している間には人々が空気のようにそれを吸い、当たり前の前提として行動、認識する。そのような目に見えない存在からの「脱藩」こそが、私たちには求められている。そうして、そのような「脱藩」をする対象は、実際に「脱藩」をして初めて見きわめられることができる。

 龍馬の生きた幕末の日本から時が流れた、この平成の日本においても、当時の「藩」のように名前が与えられず、空気のような特に意識されず当たり前の仕組みとして私たちの行動をしばってしまっている存在は、きっとある。まさにそれが、現代の日本の「マインドセット」を成している。江戸時代を生きた人間の精神を、当時は名前さえ与えられていなかった「藩」という存在が縛っていたように、平成の日本においても、私たちの認識、行動を、目に見えない「藩」の存在がしばってしまっているのだろう。

 グローバル化の中、すっかり行き詰まってしまっている日本の「オペレーティング・システム」を書きかえるためには、目に見えないままに私たちの認識、行動の自由を束縛しているさまざまな「藩」を同定し、そこから「脱藩」しなければならない。時には、そこから脱すべきものの正体がわからないままに、「偶有性の海」に飛び込まなければならない。坂本龍馬の事蹟から学ぶべきことは、実にその点にある。

 たとえば、「履歴書に穴が開く」ことを極端に恐れる、日本人のマインドセット。「履歴書に穴が開く」という発想そのものが、他の多くの国にはないことを考えれば、これは日本人にとって目に見えない「藩」のようなものを表しているに違いない。大学三年の秋から就職活動が始まり、卒業がまだずっと先なのに内定が出る。そうして、この「新卒一括採用」の機会を逃せば、事実上就職の機会がない。このような、何の経営上の合理性もなく、「人権侵害」の疑いさえもきわめて濃厚な日本の企業の愚かな採用慣行も、何らかの目に見えない「藩」の作用なのだろう。

 赤塚不二夫の名作マンガ『天才バカボン』の中に、こんなエピソードがある。飼い犬が、豪華なエサをもらって、野良犬がそれをうらやましそうに見ている。飼い主がやって来ると、飼い犬は一生懸命じゃれたりする。その様子を見ている野良犬の視線に気付くと、飼い犬は、「この首輪がついているから、飼い主のごきげんをとっているのさ。首輪がとれたら、オレだって、お前のように自由に生きるよ」と言う。

 ところが、何かの拍子に飼い犬の首輪がとれる。すると、飼い犬は、あわてて、自分の首に首輪を付け直すのである。

 日本人は、この飼い犬の姿を笑うことができるのだろうか。誰がどう考えたって、「履歴書に穴が開く」などという発想はばかげている。そのようなナンセンスに社会の多くの人が従い、その発想や行動の前提となり、そして社会に出ていく若い人たちがその不条理に付き合わされている。その間にも、日本という国全体はガラパゴス化していく。この誰も幸せにしない悪循環から逃れるためには、私たちを縛っている目に見えない「首輪」、その存在に気付かない「藩」の正体を、しっかりと見極めることが必要なのだろう。

7月 10, 2010 at 07:23 午前 |