自分自身からの脱藩
世の中には、他人に対して、「お前はこうだから」と決めつける論がある。また、そのような決めつけを商売をしている人たちがいる。
科学的な皆無である血液型人間学もそうである。あるいは、学歴で人を決めつけるという風潮もそうである。あるいは、日本人は日本の風土、日本の社会の中に生まれ、育って来たのだから、変わることなどできないという論もそうである。外国語や音楽の修得には、早期教育が不可欠であるという論もそうである。男女の脳差を強調し、固定化する風潮も然りである。
人をカテゴリー分けして、安心する。それは、「現状」を追認し、安定させるには資する。しかし、人間の脳の可塑性、「変化し得る」能力に注目し、引き出す上では阻害要因となる。
実際には、人間は、変わることができる。確かに、生きる上でさまざまな制約や、持って生まれた資
質はある。しかし、だからといって、人生がすべて決まってしまうわけではない。幼い時に外国語を学ばなかったからといって、その習得が不可能なわけではない。人間は、何歳になっても新しいことを始め、そして学ぶことができる。
フランシス・コッポラ監督が『地獄の黙示録』として映画化した小説『闇の奥』を書いたポーランド生まれのジョセフ・コンラッドは、二十歳を過ぎて初めて英語という言語に接して、三十半ばから英語で小説を書き出し、英国の文学史上に残る大作家となった。丸木スマさんは、七十を超えて初めて絵筆をとり、素晴らしい絵画作品を次々と発表して「院友」にまでなった。
人間は変わることなどできないという「運命論」を説くのはその人の勝手だが、経験的事実に反する。実際には、人間の脳は、何歳になっても新しいことを学ぶことができる。そして、そのような潜在的能力を引き出してくれるのは、新たな「文脈」である。
「脱藩」することの最大の意義は、自分を取り巻く「文脈」が変化することである。これまでの自分を育んでくれた文脈に感謝しつつ、新たな文脈の中へと身を投じる。「偶有性の海」の中に飛び込む。そのことによって、自分でも考えていなかったような力が、内側から湧いてくる。できるとは思っていなかったことが、できるようになる。
坂本龍馬は、脱藩前から坂本龍馬だったのではない。脱藩することによって、それまでの文脈から解き放たれ、偶有性の波にもまれることによって、一人の有為の若者の潜在能力が開花したのである。もし、坂本龍馬が土佐を脱藩していなければ、歴史上の人物として記憶されることもなかったろう。
脱藩してこそ、潜在能力は発揮される。「創造性は勇気に比例する」という一般原理の一事例を、ここに見ることができるのである。
変化とは、すなわち、古い自分が消えて、新しい自分が生まれること。それくらいの覚悟を持って、新しい文脈の中に飛び込んでいくことである。
脱藩する精神は、これからの日本において、どうしても必要なことである。脱藩精神は、時代を問わずに、常に不可欠のことであった。日本が国や社会の「オペレーティング・システム」を書きかえる必要が増大するこれからの時代においては、「脱藩精神」こそが変化を導く。その脱藩すべき真の相手は、組織でも、国でも、ある一つの文化でもない。本当に脱藩すべきなのは、これまでの自分、古い自分である。
自分自身から脱藩。今までのやり方を変え、自分を守ってくれた文脈から出ることは不安を覚えることだし、それなりの勇気がいることではある。しかし、自分自身から脱藩して初めて、人は偶有性のさわやかな風に身をさらすことができる。自分自身から脱藩してこそ初めて、私たちは潜在能力を遺憾なく発揮して成長することができるのである。
七十を過ぎてから絵筆をとった丸木スマさんの作品 『梅が咲く』
(丸木スマ 1952年 原爆の図丸木美術館蔵)。
原爆の図丸木美術館ホームページより。
7月 14, 2010 at 08:52 午前 | Permalink
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