東京大学は、「舶来」ものにおける「正統性」を担い、保証する装置となった。
東京大学の起源は、江戸時代に設置されていた天文方、神田お玉ヶ池種痘所、それに昌平坂学問所にあるとされる。明治政府により、開成学校、医学校、昌平学校が設置され、さらにいくつかの改組を経て、1877年4月12日、東京大学が誕生した。
東京大学では、最初は外国人によりヨーロッパの言語で教育が行われていた。それが、次第に日本人の教師による、日本語の教育へと変遷していった。1903年、パトリック・ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の後任に夏目漱石が就任したのが、その一つの事例である。
明治という時代の性格からしてやむを得ないことであるが、東京大学は、西洋の学問を翻訳し、日本人に伝える組織として出発した。「翻訳文化」こそ、その本質であった。ここにおける「翻訳」は、主に英語、ドイツ語、フランス語をはじめとするヨーロッパの言語の、日本語への翻訳のことであり、その逆方向の運動ではなかった。
「翻訳」自体は、きわめて創造的で、知的な行為である。未だにコンピュータによる機械翻訳のよいプログラムが存在しないことでもわかるように、人間の脳の高度な知性が関与しなければ、翻訳は難しい。明治の日本人が、「哲学」、「権利」、「自由」、「科学」などの和製漢語を次々と生み出していったのは、見事な創造的精神の発露であった。
司馬遼太郎の言葉を借りれば、「文明の配電盤」として機能した東京大学をはじめとする日本の大学は、日本の近代化に大きな貢献をした。まさに、「坂の上の雲」を目指して駆け上がっていった日本の近代。他に例を見ないほどの急速な発展は、日本人の誇りである。東京大学が、その発展において中心的な役割を果たしたことは疑いない。
東京大学の「威光」は、西洋文化の「翻訳」という行為に本質的につながるものであった。東京大学の背後には、巨大な西洋文化がある。当時、西洋の文化程度と東洋の文化程度の間には、圧倒的な差異があった。その差異は、ある一つのものさしで測ったものに過ぎなかったかもしれないが、とにかく格差はあった。その格差を背景に、東京大学の権威には「後光」が差すことになった。「舶来」のものをありがたがる日本人にとって、東京大学は、「舶来」ものにおける「正統性」を担い、保証する装置となったのである。
7月 18, 2010 at 08:15 午前 | Permalink
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