「ぼくは入試の勉強で忙しいから、こういう時にこういう本を読まなければ、精神の平衡が保てないんだ」
本当の知性というものは、そもそも、点数で測ることができるものではない。
私の畏友、和仁陽のことを思い出してもそうである。和仁氏は、東京学芸大学附属高校における二年生、三年生の時の私の同級生だった。私たちの年の「共通一次試験」(当時の大学センター試験)の全国一位。1000点満点中、981点だった。
和仁氏の学科の成績がとてつもなく良かったことは事実だし、そのことは、和仁氏の知性の卓越と、正の相関を持つのだろう。しかし、そこのことは、私が二年間クラスメートとして和仁氏と接して感じた彼のとてつもない才能の、ごく一部分に過ぎない。
より和仁氏の本質を示すエピソードは、彼が高校の卒業文集で書いた随想のタイトルである。『ラテン民族における栄光の概念について』。他の人が、高校生活の思い出などの普通のテーマについて書いているのに対して、和仁氏が選択したこのテーマの中に、彼の世界観、哲学がいかんなく反映されている。
あるいは、高校三年の冬の11月、学芸大学の駅のプラットフォームで和仁氏を見いだした時のこと。何か本を読んでいるから、「何を読んでいるの?」と聞いたら、和仁氏は、「ぼくは入試の勉強で忙しいから、こういう時にこういう本を読まなければ、精神の平衡が保てないんだ」と言って、読んでいる本を見せてくれた。英語で書かれた、エリザベスI世の伝記。ずいぶんと分厚い本だった。
最近、一緒に飲んだ時に、そのことについて聞いたら、和仁氏は、「あれは名著なんだよ」と言って笑っていたが。
和仁氏のさまざまな分野における素養は凄まじく、高校の時から、カントやヘーゲルの哲学について独自の見解をもっていたことを覚えている。高校二年の時に、学園祭で上演したオペラ『魔弾の射手』の歌詞は、和仁氏がドイツ語から日本語に訳したものだった。しかも、その訳は、頭韻などを駆使して、リズムとして歌えるものでなければならない、と和仁氏は言うのだった。
人文系の素養だけではない。一度、和仁氏と雑談していて、ねじれの位置にある二つの直線の一方を回転させた時にどのような図形になるかについて、和仁氏が即座に洞察を示したことに驚いたことがある。
和仁氏の当時の言動を思い出すと、共通一次で981点などということは、本当に取るに足らないことであった。和仁氏は結果として東京大学文科一類に進学したが、そのこと自体も、本当に些細なことだった。そもそも、共通一次試験(センター試験)、あるいは、二次試験でテストできることなど、児戯に等しいと思えた。
人間の精神性の発展の方向は、無限である。18歳の知性を、大学入試などという「プロクラステスのベッド」で縛ってしまうのは、本当に愚かなことだ。
和仁氏ほどの知性を持ってしても、日本の大学入試は、それなりに準備をすることを強要する。だから、「ぼくは入試の勉強で忙しいから、こういう時にこういう本を読まなければ、精神の平衡が保てないんだ」というような言葉が出てくる。科挙じゃあるまいし、何と愚かな制度だろう。
入試の試験問題など標準的なものでとっとと済ませてしまって、あとは、エリザベスI世だろうが、リー代数だろうが、自分の好きな分野においてどんどん能力を伸ばしていけるようにすれば、どんなにか日本の高校生は助かるだろう。大学入試などというつまらないもので窒息させていることは、日本の国家的損失ではないか。
実際、私たちは、窒息していたと思う。和仁氏が、当時、口癖のように「早く大学に入って、ドイツ語の文献を思う存分読みたい」と言っていたことを覚えている。
和仁氏は、実際には、それほどまでに準備しなくても、大学入試くらいはやすやすと受かってしまっていたことだろう。しかし、目の前の試験があったら、ベストを尽くしてしまうというのが人間の性ではないか。その結果、もっと自由に、無限の精神の跳躍に使えたはずの時間が奪われてしまう。
高校までの「標準化された」カリキュラムの中で、人工的な競争をさせることで、若い知性を窒息させる。和仁氏ほどの才能をも、窒息させる。日本の大学入試は、一体何を目指しているのだろうか。
7月 2, 2010 at 07:58 午前 | Permalink
最近のコメント