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2010/07/20

過干渉な日本社会。

 人間の脳の情動の回路には、「確実性」と「不確実性」のバランスをとる働きがある。「確実性」が存在するだけ、「不確実性」を積み増すことができる。いわば、「確実性」と「不確実性」を要素とする「ポルトフォリオ」を脳が組み、それを「運用」するのである。

 大人になれば、自分自身の経験や知識、文脈などが十分な「確実性」を提供してくれることになる。GHQによる占領という困難な時代に果敢に立ち向かった白洲次郎の事例で言えば、その生きる上での「プリンシプル」が、不確実性に向き合うための「確実性」となってくれたのである。 

 言い方を換えれば、「大人」とは、人生の不確実性に立ち向かうことができるだけの「確実性」を自らの中に蓄積している存在だということができる。

 一方、子どもの時には、知識も経験も不足しているし、自らのプリンシプルも足りないから、単独では不確実性に立ち向かうのが難しい。そこで、保護者が「安全基地」を提供して、子どもの「確実性」を補う。保護者が「安全基地」を提供してくれるからこそ、子どもは安心して不確実性に立ち向かい、学ぶことができる。

 ここで大切なのは、子どもが発達する上で欠かすことのできない「安全基地」は、あくまでも子どもの自主性、能動性を前提に、親がその「挑戦」を見守るというかたちで成立するということである。重要なのは、あくまでも子どもの「能動性」が基本となるということであって、それが奪われたかたちでの「安全基地」は、子どもの学習の質を損なう。

 たとえば、「過干渉」な保護者は、安全基地を提供しているとは言えない。子どもが何をやるべきか、「箸の上げ下ろし」まで指示し、干渉する。子どもを評価する文脈を、過剰に設定する。子どもが自主的に何かをしようとすると、「勝手にそんなことをしてはダメ」と怒る。そのような保護者は、子どもの自主性を伸ばしてあげることができない。

 過干渉な保護者の下で育った子どもは、その限りにおいて能力を発揮するに至る。保護者が設定した文脈の中で、「よい子」として力を発揮できる。その文脈は、それなりの社会性、利他性を持っているだろう。子どものことを思わない保護者はいない。保護者が理解した限りにおける世の中の仕組み、価値観を反映して、子どもの脳は育つ。しかし、その能力は、あくまでもある特定の文脈を前提にしたものに過ぎない。

 子どもの頃から「受験」に追い立てられ、「一流大学」から「一流企業」へと進む。そのような日本のシステムに乗った「良い子」は、結局、文脈限定の能力を身につけているに過ぎない。「組織」や「肩書き」を自らの存在意義とするということは、能動性を前提にした「安全基地」の思想からは最も遠いことである。「組織」や「肩書き」によって自らを支えるということは、すなわち、一生「過干渉」な保護者の下で過ごすようなものである。

 「組織」の一員として、自らの行動の自由、ダイナミック・レンジをあらかじめ縛ってしまう。「肩書き」に「ふさわしい」行動を取ろうとするあまり、自らの自由を縛ってしまう。「過干渉」な保護者の下で、子どもの自由がいわば「窒息」するのと同じように、文脈過多な日本の社会は、その構成員の能動性、自主性を奪う。

 子どもの頃から受験に追い立てられ、「履歴書に穴が開いてはいけない」とばかり「組織」という「過干渉」な鎖に縛り付けられる日本人は、一人で不確実性に向き合うために必要な「確実性」を自らの中に涵養する機会を奪われている。日本人は、自分の中に「安全基地」を培うことができていない。結論として、「大人」になることができていないのである。


過干渉な日本社会。

7月 20, 2010 at 07:39 午前 |