« 大学から「脱藩」する | トップページ | 「沈黙」(茂木健一郎『生きて死ぬ私』より) »

2010/07/13

坂本龍馬の人生の時々刻々を想像することで、ひんやりとした偶有性の風に自我をさらさなければならない。

 脱藩するということは、すなわち、これまで自分を守ってきてくれた有形無形の組織、システムから離れて、人生の偶有性に身をさらすということである。

 そこには、「成功」の保証など、どこにもない。最後は必ずハッピーエンドになるという必然もないのである。むしろ、あるのは、一寸先は暗闇であるという見通しの悪さ。そして、胸の中にうずく不安。今までいたぬくぬくと温かい場所から一転して、ひんやりとした風が直接自分に吹き付けるという環境の変化がある。

 もともと、私たちの人生に、絶対的な安全、確実など存在しない。「脱藩」することで、私たちは特別な冒険に出るのではない。むしろ、人生の最初から何も変わることがない、不変の条件に回帰するというだけのことなのである。

 坂本龍馬が満26歳で和霊神社に参拝し、水杯で武運長久を祈り、そして脱藩していった。「吉野の山に桜を見に行く」と言い残し、脱藩の道を歩いていった。脱藩を前にしての坂本龍馬は、誰でも知る維新の志士などではない。将来がどうなるかわからない、無名の若者である。根拠のない自信を持ち、生意気で、ちょっと不安げなまなざしをした青年。この時点での龍馬を見て、その後の大活躍を予想できた者がどれくらいいるだろうか?

 「坂本龍馬」の物語を味わい、感激し、自分の人生に活かそうとするのは良い。しかし、ただ単にそれを「消費」してしまうのではいけない。とりわけ、たとえば脱藩の物語を読むのに、その後の龍馬の大活躍をいわば「織り込んで」、すっかり安心しきって受け止めるのではいけない。

 本当は、リアルタイムの龍馬の人生を想像して読むのでなければならない。うまくいく保証など何もない、ひょっとしたら倒れてしまうし、へたをすれば死んでしまう、そんな偶有性に満ちた人生の時間を、自分もまた想像の中で生きて見るのでなければならない。

 「明日は今日と違った世界であり得る」、「今まで見たことがないようなものを、この世界にもたらすことができる」、「これまでの自分と異なる、新しい自分に変身することができる」。そのような「未来感覚」は、将来に対する不安と一体のものである。

 坂本龍馬のような偉人の物語を、「予定調和」で読んでしまってはいけない。それでは、文明の利器に囲まれてすっかり安心しきって生きている私たちの人生に、「異物」が持ちこまれることがない。私たちは、むしろ、坂本龍馬の人生の時々刻々を想像することで、ひんやりとした偶有性の風に自我をさらさなければならない。

 不確実な将来への不安を抱きしめてこそ、私たちは大いなる希望を抱く術を学びうるのである。

7月 13, 2010 at 07:01 午前 |