大学から「脱藩」する
日本においては、「大学」がブランド化している。また「偏差値輪切り」という根拠が薄弱な階層化によって、一方では怠惰を生み、一方では無気力を生んでいる。
このような実体を見る時、大学という「組織」を「脱藩」するためのノウハウを積み重ねること、社会の中に、大学という「組織」に頼らなくても学問ができるようなシステムを構築することは、重要な課題であると言えるだろう。
先に述べたように、今では、最先端の学術情報は、その多くが「無料」で手に入るようになってきている。以前ならば、大学の学科の図書館に行き、専門雑誌を参照しなければならなかった情報が、ネットで検索すればワンクリックで検索できるようになった。
私が大学生の頃は、物理学の専門雑誌である「フィジカル・レビュー」や、「フィジカル・レビュー・レターズ」を読もうと思ったら、物理学科の図書館に行って、最新の号だったら雑誌のページをめくり、以前のものだったら製本されたバックナンバーから検索して、いちいち探さなければならなかった。何らかの形で大学にかかわらなければ、研究に不可欠な学術情報そのものが得られないという時代だったのである。
今は違う。多くの論文が、インターネット上で無料で手に入るようになった。ネットに接続できるある分野について勉強しようと思ったら、材料には困らない。情報のアクセスという意味においては、学問をする上での障壁は、殆どゼロになりつつある。
問題は、学術情報を補う、総合的な視点をどのように培うかということである。自分一人で勉強しようとしても、何から始めていいのか、なかなかわからない。先生に質問したり、議論したり、友人と話し合ったり情報交換したりするということがなければ、学問をする上で一番危険なことである「変なクセ」がついてしまう可能性がある。一つの学問分野における「暗黙知」のようなものをいかに構築するか。その点さえクリアすれば、大学という「組織」に所属しなくても、独学で学問を修めることは可能である。
建築家の安藤忠雄さんは、独学で建築を学んだことで有名である。組織としての「学校」については、中学しか卒業していない安藤忠雄さんだが、彼の作品の素晴らしさを前にして、そのような本質的でないことを考える人はいない。
ここで肝心なのは、安藤忠雄さんが、京都大学の建築学科に進んだ友人から、どのような教科書を読んでいるのかなど、カリキュラムについて教えてもらったということである。安藤さんは、京都大学という「組織」に所属しこそしなかったが、そこで教えられている学問の体系という「ソフトウェア」にはアクセスすることができた。その結果、「変なクセ」に陥ってしまうこともなく、建築学の「王道」を、自分のものにすることができた。
安藤さんの勉強ぶりは、猛烈だった。一年間、眠っている間を除いて、一日十数時間勉強していたという。ボクシングで鍛えた体力と、その強靱な精神力を持って、建築という知の山の頂をすさまじい勢いで目指して行ったのである。
安藤忠雄さんは、建築においてだけでなく、いかに「大学」という「組織」から脱藩して、一流の学問を身につけるかという方法論におけるパイオニアだったということができる。「大学」が、実質的な意味における学問の府であることを止めて、単なる「ブランド」や、いわれなき「優越感」や、意味のない「劣等感」を植え付ける場所であるならば、そんなものは「脱藩」してしまえば良い。インターネット上に無尽蔵にある学術情報をもとに、自分自身で独学してしまえば良い。そのためには、個々の断片としての学術情報だけでなく、どのように何を勉強すれば良いかという体系的な「カリキュラム情報」が提供されなければならない。
現状でも、カリキュラム情報を収集することは可能であり、インターネット上で学問上の議論をする仲間を見いだすことはできる。若き日の安藤忠雄さんほどの情熱と実行力があれば、大学から「脱藩」して独学をすることは、より簡単になってきている。さらに進んで、カリキュラムを、たとえばウィキペディアのようなオープンな形式で皆で蓄積することができれば、独学者にとっての大きな支えとなることができる。ネット上では、技術的に可能なことはすべて起こる。大学からの脱藩者が学問をするためのリソースは、これからますますネット上に蓄積していくことになるだろう。
その時、大学は、どのような「組織」として機能することになるのだろうか。変身を遂げることができるのだろうか? 大学の最大の資源は、「人」である。「人」の能力は、開かれたダイナミックなシステムの中においてしか開花しない。日本の大学が現状から脱しないのであれば、私の親友がかつて吐いた名言のごとく、「大学の唯一の意義は、もったいぶることである」ということになりかねない。
7月 12, 2010 at 08:49 午前 | Permalink
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