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2010/07/01

ステレオタイプの学歴信仰は、根拠がない点において、「血液型人間学」と大して変わりがない。

 ある人が、ある組織に関わっていることが、その人が未踏の境地に挑戦する上での「安全基地」になることは、ある程度はあるかもしれない。しかし、それはあくまでもその人がその組織とつながる人と共同作業をしたり、資金、資源的な支援を受けたり、「のれん」や「ブランド」を用いることができたりといった、具体的な行動と結びつくプロセスを通してでなければならない。

 ある人が、ある組織と関わっていること自体が、その人のプライドになったり、あるいは劣等感につながったりするようなことがあると、それは一つの病理学へとつながる。何よりも、それは、科学的な態度とは言えない。何よりも、そのような態度は、その人の「安全基地」の構築にはつながらないのである。

 日本では、大学がその「偏差値」によって「輪切り」され、そのことによって「序列」があると思い込んでいる人が多い。このことが、いかに非科学的な態度であるかを認識することは、日本人が真の「安全基地」を構築する上で不可欠のことだろう。

 そもそも、試験の点数で人間の能力のすべてが測れるわけではない。仮に、試験の点数を能力の指標として採用したとしても、ある大学の合格者の平均値が、別の大学の合格者の平均値よりも高いということは、それらの二つの大学の間に絶対的な「序列」があることを意味しない。

 二つの大学合格者の点数の分布には、一般に重なりがある。このため、A大学の合格者の平均の点数がB大学よりも高いとしても、それは、任意のA大学の学生と、任意のB大学の学生をサンプリングしてその「点数」を比較した時、必ずA>Bとなるということを意味しない。場合によってはB>Aとなることもある。

 そもそも、入試の点数などは、18歳の周囲の年齢のある時点における「スナップショット」に過ぎない。その後、その人がどのような能力を構築していくかということは、そのスナップショットだけで把握できるわけでは決してない。

 日本の社会がしばしば陥る安易な「学歴信仰」は、その根拠が非科学的であるだけはない。「学歴」にこだわることが、実際に多くの弊害をもたらしている。

 しばしば起こっている現象は、「下位」と認識された大学に進学した学生が、「私はどうせこの程度の大学にしか進めなかった」と劣等感を持つことである。その結果、本来持っている可能性を十分に発揮できない。「どうせ私なんて」と投げやりになってしまう。そのような態度になってしまうことには、日本の社会の学歴信仰のあり方に基づいたそれなりの理由もある。なぜなら、どんなに努力して、実際には実力を付けていたとしても、相変わらず日本の社会がその人を「下位大学」に属する人と見なし続け、そのことによって評価し続けるならば、努力する甲斐がないからだ。

 一方、「上位」大学に合格した人にとっても、モラル・ハザードがある。たったそれだけのことで、自分の卓越性が保証されたと勘違いして、それ以上の努力をすることを本質的な意味で怠ってしまうからだ。

 入試の偏差値などという、限定された意味しかない数値で大学の価値や、そこに関わる人の価値を評価することは、科学的根拠がないということをはっきりと認識すべきだ。

 私は、かなり前から、ある人と会う時に、その人がどの大学を出ているとか、そもそも大学を出ているのかということをほとんど参照しない。言葉を交わし、一緒に仕事をし、お酒を飲む中で、その人の個性を測り、力を受け取り、一緒に何ができるかを探っている。

 ステレオタイプの学歴信仰は、根拠がない点において、「血液型人間学」と大して変わりがない。
 (もっとも、「血液型人間学」には、そもそも統計的な基盤すらないのであるが!)
 根拠のない偏見は、フレキシブルに未知の領域に挑戦することを、妨げている。日本人が、一刻も早く迷信から脱することを望まずにはいられない。

7月 1, 2010 at 08:27 午前 |