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2010/07/07

子どもの頃読んだファンタジーとしての「偉人伝」から離れて

 二十代、アメリカやイギリスの書店を訪れることが多くなってしばらくして、日本の本棚と比べて大きく異なる特徴に気付いた。

 それはすなわち、biography(伝記)のコーナーの存在感である。歴史上の有名人物から、現在生きている話題の人まで。実にさまざまな人物の伝記が出版され、大きな棚を占めている。

 一人ひとりの生き方に対する強烈な関心。それを、自らが生きる上での糧としようという志向性。日本の出版会とは異なる傾向がそこには顕れていると思った。

 さまざまな人物の「伝記」を読みたいという欲望は、すなわち、イギリス人やアメリカ人の「マインドセット」に由来しているに違いない。一体、彼らはどうしてこんなにまでして伝記を読みたがるのか。大いに興味を抱いた。しかし、なかなか、その意味を探求できないままでいた。

 この数年、日本の社会の問題点について自らのマインドセットを探る痛みとともに考える中で、「あ
あ、そうか」と気付いたことがある。どうやら、「偉人」というものの捉えられ方が、日本とあちらとでは大分違うらしい。そして、あちらの「偉人」のとらえ方に即してみると、一人ひとりの「偉人」の生き方に、猛烈な関心がかき立てられるものらしい。

 日本では、「伝記」そのものはあまり読まれない。特に、大人の読者はあまり伝記を読まない。日本人にとって、歴史上の有名人物の伝記を読む機会と言えば、子どもの時に読む「偉人伝」のお話や漫画だろう。

 私は1962年生まれ。私が子どもの頃には、図書館や書店にたくさんの偉人伝が並んでいた。「キュリー夫人」、「野口英世」、「エジソン」、「ナポレオン」、「豊臣秀吉」、「福澤諭吉」などの定番ものを、夢中になって読んだ気がする。最近では、そもそも、子ども向けの偉人伝自体の存在感すらも社会の中から低下しているようにも思うが、気のせいだろうか。

 いずれにせよ、子どもの頃夢中に読んだ偉人伝の記憶を、今ひとりの大人として考え感じる偉人たちの生涯の現実と照らし合わせてみると、気付くことがいろいろある。子どもにとっての「偉人伝」と、大人にとての「伝記」には、大いに異なる感触があるような気がする。何が起こるかわからないという人生の「偶有性」の感触が、両者では随分と異なるのだ。

 子どもの頃の「偉人伝」においては、「偉人」は最初から「偉人」としての価値保証されているという安心感がある。途中でどんなに苦労をしても、苦しいことがあっても、偉人には最初から「後光」が差している。ヒーローは最初からヒーローであり、ヒロインはヒロインなのであって、その価値自体は、絶対に揺るがない。子どもの心の発達において、ある種のファンタジー(おとぎ話)は不可欠である。子どもの頃読む「偉人伝」は、安心感のあるおとぎ話の構造をしている。その安心感が、子どもにとっての「安全基地」となる。いわば、「保護者つき」の「偉人伝」なのである。

 一方、大人としての私たちは、人生が思うに任せられないことを知っている。もはや、保護者はいない。「安全基地」は、自ら構築しなければならない。確実なことなど、何もない。努力が報われるという保証もない。「何が起きるかわからない」という人生の「偶有性」は、どんなに注意深く計画を立てたとしても必ずや私たちのもとにやってくる。そのひんやりとした人生のリアリティは、「偉人」たちにとっても同じはずだということを、私たちは知っている。

 偉人というのは、そもそも、カテゴリーとして新しいことをやる人たちのことである。偉人たちは、人類にとってのパイオニアである。今まで他の人がやったことのないことをやろうとしている人たちが、逆風にさらされたり、苦境に立たされたりしないわけがない。そして、まさに逆風の中にいる偉人にとっては、そもそもその人生が「成功」で終わる保証など、何もない。一寸先は闇。それでも、命がけの跳躍を続けなければならないのだ。

 大人になれば、さすがに「おとぎ話」では満足できないはずである。偉人の人生の物語を読む際にも、「未来がどうなるかわからない」というひんやりとしたリアリティなしでは、現実のこととは思えない。大人にとっての偉人の「伝記」は、そのような厳しい世界の感触によって支えられなければならない。

 そんな大人の伝記を読む習慣が日本人にはあまりないということは、つまり、「いかに生きるか」という人生モデルを、子どもの頃の「おとぎ話」から、大人にとってのリアリティのある「現実話」へと進化させることに失敗していることを意味する。別の言い方をすれば、人生論の「ダイナミック・レンジ」が狭すぎる。日本人は、大人になっても、小さなファンタジーの世界の中で生きているのだ。無意識のうちに、「保護者」を求めている。あるいは、いつまでも「保護者」がいると錯覚している。

 「一流大学」に合格しさえすれば、社会の中での評価が確立し、その後の人生も安泰だというのは一つのファンタジーである。大手の会社の「正社員」になれば、よい生活を送ることができるというのも一つのファンタジーである。ガラパゴス化した日本の世界的地位が低下する中で、徐々に「持続可能」ではなくなってきているファンタジー。それでも、そんな保証を与えてくれる「社会」という保護者があると、勘違いしている。

 「誰かが何かを保証してくれる」というバラ色の眼鏡を外して、「偉人」と呼ばれる人たちの人生の実際をじっくりと眺めてみたらどうか。大人の知識と、経験値と、そうして現実感覚をもって「偉人」たちの人生を再検討してみる。そこには、「人々が皆同じ価値観を持つ」という予定調和も、「所属している組織がその人の価値を決める」という封建主義も、「履歴書に穴が開いてはいけない」という偏狭も存在しない。 

 偉人たちは、暗闇の中に命がけの跳躍をしてきた。偶有性の海に飛びこんで、一生懸命泳いできた。偉人たちは、一人残らず、「脱藩」してきた。その生涯の真っ直中において、彼らが結果として「偉人」としての成功を収めるという保証は、何もなかった。

 「護送船団方式」で人生を渡ろうとするあまり、自分の可能性を摘み、人生のダイナミック・レンジを狭め、国をガラパゴス化してしまっている日本人。しかし、私たちにも教養がある。経験がある。何よりも、生きる力がある。子どもの頃読んだファンタジーとしての「偉人伝」から離れて、「偉人」と呼ばれる人たちが実際にどのように生きてきたか、そのひんやりとしたリアリティに接すれば、必ずや意気に感じ、心を動かされ、鼓舞される気概は、私たちの中にあるはずだ。


大人として読む、ダイナミック・レンジの広い「伝記」

7月 7, 2010 at 07:22 午前 |