語り合おうよ
週刊ポスト 2010年4月9日号
茂木健一郎 連載 脳のトリセツ 第36回
語り合おうよ
和歌山県太地町で行われているイルカ漁の様子を隠し撮りしたドキュメンタリー映画『ザ・コーヴ』が、第82回アカデミー賞ドキュメンタリー映画賞を受けた。
受賞まで、日本ではほとんど見聞きする機会もなかったが、海外では大きな話題になっていると、複数の友人が教えてくれた。年明けの時点では、日本では一般に向けた公開のメドが立っていなかった。ぜひ見るべき作品だと感じたので、イギリスから輸入した。
見終わって、とても、重苦しい感じになった。動物愛護など、ついつい感情が絡み、対立がエスカレートしがちな問題について、バックグランドの異なる人と人が関わりを持ち、理解し合うことの難しさが胸に迫ってきたのである。
『ザ・コーヴ』という映画を撮った側の理屈は、イルカは知能が高く、かわいい動物なのに、なぜ殺すのかというものだろう。そのような感情が由来するところは、ある程度理解することができる。
一方、太地町の人々にしてみれば、自分たちが長年伝統としてやってきたイルカ漁に、いきなりよそ者が土足で入ってきて一方的に文句を付けられたという思いだろう。映画の編集のやり方も、太地町の方々がまるで悪者のように扱われている。怒るのも無理はない。
イルカ漁の問題だけではない。周知のように、南洋における調査捕鯨をめぐっても、日本とオーストラリアをはじめとする反捕鯨国の間で、根深い対立がある。環境保護団体シーシェパードは、調査捕鯨船に対する妨害行為を繰り返す。もともと存在する見解の相違に加えて、「環境テロ」とでも言うべき過激な行為が、関係者の間の感情的対立をあおっているのは、本当に残念なことである。
イルカ漁や、捕鯨に対してどのような意見を持つかは別として、一つだけはっきりしていることがある。『ザ・コーヴ』の制作者にしても、シーシェパードの活動家にしても、相手と理を尽くして話し合うという態度に欠けているということである。
そもそも、人間が他の生命の犠牲の上に存在しているということについて、どのように考えるか? イルカや鯨と、牛や豚といった家畜はどのように違うのか? イルカや鯨が、家畜に比べて知性が高いというのは、本当か? 生命の尊重と、固有の文化の関係を、どう考えるか? そんなことについて、太地町の人たちと膝詰めで語り合うという姿勢が、『ザ・コーヴ』という映画からは感じられなかった。
イルカ漁が行われている入り江に至る道は、立ち入り禁止の札が立ち閉鎖されている。なぜそのような措置を取っているのか、地元の人に尋ねて、対話をする。それが、人間を相手にした場合にとるべき態度ではないか。まるで、地元の漁師さんたちが「敵」でもあるかのように、その意志を無視してかいくぐり、盗撮する。そこには、相手を人間として尊重し対話をする態度が認められない。
シーシェパードの人たちもそうである。捕鯨に反対するというのは良い。それならば、なぜ、理を尽くして語り、対論し、説得しようとしないのか。調査捕鯨船に向って物理的な妨害行動をとり続けるということは、すなわち、捕鯨船に乗っている人たちを、条理を尽くせばわかってもらえる人間として扱っていないということである。話が通じないと思うから、物理的に妨害しようとする。随分失礼な話ではないか。
『ザ・コーヴ』の制作者が、太地町の漁師さんたちと酒でも酌み交わして語り合えば、彼らがいかに気のいい、家族を愛するごく普通の人間であるかということがわかったはずである。人間同士の信頼感が築き上げられたはずである。その上で、イルカの命を奪うという漁の意味について、思う存分語り合えばよかったのではないか。
感情の対立というのは、自分自身の経験に基づいているからそれを客観視するのが難しい。私自身、学生の頃、ほんの2、3年上の先輩に、「鯨をとるのは贅沢だ」と議論してこっぴどく叱られたことがある。
「何を言うんだ、日本には、肉は鯨しかなかったんだぞ」というのである。今でこそ、牛や豚、鶏などの家畜で肉をまかなえるのだから、鯨を捕る必要はないという議論も成り立つかもしれないが、戦後の日本の食料難の中、肉といえば鯨しかなかった時代が長かったというのである。
同じ「鯨肉」と言っても、飽食の中で珍味、美味として消費されるものとして見るか、あるいは食料難の中で命をつないでくれる貴重なタンパク質源として見るかで全く評価は違ってくる。
それぞれの人が、経験に基づいてイメージを抱いている。根深い感情的相違を乗り越えるには、「スパイ大作戦」ばりの潜入劇や、環境テロをいくら繰り返しても無駄である。
「語り合おうよ」。
立場の違いを超えて、膝詰めで話すことの大切さを、今こそ関係者に訴えたいのである。
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6月 4, 2010 at 09:44 午後 | Permalink
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