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2010/06/15

すべての英語学習者に、言語のオープンエンド性に身をさらすことをお薦めする

言葉の組み合わせが実質上無限にあることを考慮すれば、日常会話において、話者が耳にする特定の文の単語は、生涯で初めて聞くものである可能性が高い。それでも、話者はその内容を理解することができる。

初めて耳にする単語でも、前後の文脈からその意味を推定できることも多い。脳の言葉の意味の認識の回路は、オープンエンドな言語の構造に最初から適応しているのである。

子どもが言語を獲得する時、その前で話をする両親及び他の親は、お互いの会話において、特に語彙数を制限することはない。もちろん、子どもに直接話しかける場合には、ある程度のボキャブラリの制約をかける場合もあるが、子どもは、基本的にオープン・エンドな言語の構造にさらされ続けることによって、言語を獲得していく。

文部科学省の中学校学習指導要領 第9節 外国語に書かれていることは、一つひとつの項目をとれば、それほど悪いことではない。
しかし、全体的な精神として、言語学習を「標準化」「内容のコントロール」という視点から構築している点において、根本的に言語のオープンエンド性に反している。

とりわけ、修得すべき単語数の目安として、900語程度を挙げているのは、中学校で実質的に取得される単語の目標として、控え目であり過ぎるだけでなく、もし、この指針が、中学生が接する英文テクストが900語程度の単語数で構成されるということを意味するのであれば(そして、実際中学生が読む英文はその程度のものである場合が多いが)、そのような教育方針は、言語の「オープンエンド性」 に対する脳の回路を育むという視点から見て、根本的に間違っている。

吉田秀和さんは、旧制高校時代の自分のドイツ語学習を振り返り、「いやあね、初日にABC(アーベーツェー)の文法をやって、二日目にはニーチェのショーペンハウエル論を読まされました。昔は野蛮でしたよ。」と言われる。

ニーチェのショーペンハウエル論が、900単語で構成されているはずもない。

言語はオープンエンドである。一方、学ぶべき内容を制約し、標準化しようとすることは、基本的に学習者の脳を「窒息」させる。

私は、すべての英語学習者に、言語のオープンエンド性に身をさらすことをお薦めするものである。

(詳しくは、外国語教育メディア学会(LET)50周年記念全国研究大会予稿、Ken Mogi Towards a more open-ended English educationをご参照下さい。)

6月 15, 2010 at 07:47 午前 |