ある出来事についてのすべての記述、評価は原理的に主観的なものだから、昨日こんなことが起こったという私のこれからの記述も、あくまでも私の眼から見て、そのようなことがあったように感じた、ということかもしれぬ。
年に一回の母校での授業。畏友にしてソウルメイト、池上高志がこのところずっと招いてくれている。
前日、池上がtwitter上でメッセージをくれた。
@kenichiromogi you know Japanese is strictly prohibited in the lecture. Use other languages.
それで、ぼくは、どうかなあ、と思ったけれども、池上に次のように返事した。
good. i will use maths, baby talk, general nonsense, and jabberwocky. @alltbl Japanese is strictly prohibited. Use other languages.
ぼくは、日本語での議論については、こんな風に思っている。もし、そこで用いられている概念について、常に、英語ではどのような概念であるかということが意識されているならば、実質上それほどの違いはないのではないか。
だから、日本語で授業をやっても良いと思っていたけれども、せっかく池上がこのように言うのだから、英語でやってみようと思った。
授業開始から、偶有性やネットワークのこと、そのインスタンスとしてのベイツ型擬態や、ミュラー型擬態、国境紛争のこと、バブル経済の発生と崩壊、脳内におけるone-shot learningなどの話を英語で話し続けた。
最初のつまづきの石は、質問を受けた時に、ぼくが「日本語でもいいよ」と言ったこともあって、学生が日本語で発言したことである。その質問の内容は的確で素晴らしいもので、それまでぼくが英語で話していたことを、完全に理解していたと推定されるものだった。
だから、そのこと自体は良かったのだけれども、ぼくも日本語で答える流れの中で、そのやりとりを通して、何だか「魔法」が解けてしまった。
ここは、イギリスでもアメリカでもなくて、日本の東京だという現実が、一気に押し寄せてきて、ぼくは覚めた。ぼくは英語で授業をすることをやめてしまったのである。
休み時間になって、ぼくは、駒場キャンパスの中を池上高志や、ありがたいことにぼくの授業を聴きに来て下さった早稲田大学の三輪敬之さんと歩いた。三輪さんは、来週、同じ認知オムニバス授業で話されるのである。三輪さんが最近やっていらっしゃることについてうかがい、「キャッチアップ」できたのは、うれしいことだった。
それから、池上高志の熱力学の授業があるというので、なつかしい7号館の726号教室で、外の廊下に立ってしばらく聞いた。ルジャンドル変換や、準静的過程について、池上が熱弁を振るうのをとてもうれしく思った。
自分の授業が始まるので、教室に戻ろうと思った。駒場キャンパスを歩きながら、このところ何回も脳裏をよぎっている疑問が、ぼくの心をとらえた。
なぜ、東大には、基本的に日本人しかいないのだろう。
駒場は一二年生が中心だから、とりわけそのように思ったのかもしれぬ。
とにかく、そのように疑問を抱きながら授業に入り、自己の社会的構築と、倫理的判断についての講義を始めようとした。その前に、軽い「ジャブ」のつもりで、東京大学に象徴される日本の問題点、というようなことを話し始めたら、それが導火線に火をつける結果になってしまった。
もっとも、後に明らかになるように、それは、あくまでも私の心の導火線に過ぎなかったのかもしれぬ。
学生諸君との真剣なる対話をしているうちに、いつの間にか池上が熱力学の授業を終えて帰ってきて、そうして、はっと気付いたら、もう90分間経っていた。
結局、一コマの授業のあいだずっと、東大と日本の未来について話し合う結果となってしまったのである。
それはそれで良かったのであるが、私は、心理的に大いなる挫折を経験したように思った。池上高志とファカルティ・クラブに歩きながら、ぼくは、「ああ、失敗した、ダメだった」と嘆息した。
これはあくまでのぼくの主観的な印象に過ぎないのかもしれない。とにかく、学生たちの心に火をつけることに失敗したように思った。
このままではいけない、というような沸き立つような感覚、そうだ、ここでないどこかに行こうといういてもたってもいられない気持ち。そのようなことに、学生たちを駆り立てることはできなかったように思った。
また、こうも思った。ある組織が現に存在し、その中で学び、その中で生きることに充足感を抱いている人たちに対して、外からあれこれ言うのは、所詮、心に届かない、余計な御世話だという意味で、無駄なことなのかもしれないと。
たとえば、日本企業による新卒一括採用が、いかに経済合理性を欠き、大学の教育を妨げ、多様な人材の集結によるロバストな組織運営という視点から見て阻害的であるかをいくら説いても、今の採用システムで「何の問題もなく」組織を運営している会社の人たちから見れば、余計な御世話なのかも知れぬ。
池上高志と、ファカルティ・クラブでビールを飲みながらいろいろなことを話した。他に、ぼくの学生たちと、池上の学生たちがいた。明るかった世界が、次第に暗くなって、やがてとっぷりと闇に包まれていった。
ぼくは、池上に言った。「今日の授業は、オレにとって、大きな転機になるかもしれぬ。」
池上は言った。「お前が、この前、山口のMTMの時に来てくれて、本当に助かったよ。」
ぼくはつぶやいた。「すべての問題は、個人的な問題である。」(Every problem is a personal problem)。
ぼくが、大学や企業などの日本の組織の在り方に問題を感じ、このままでは国が沈むと思い、オペレーティング・システムの書き換えが必要だと切迫感を抱いているのは、あくまでもぼく個人の問題であり、日本の問題ではないのかもしれぬ。
ぼくは、ぼく一人のパラメータで何とかなることについて、心を砕くべきなのかもしれぬ。心脳問題を考え、論文を書き、Richard DawkinsやCharles Darwinのような本を(むろん英語で)世に問い、ぼく自身の切実な問題について、真にグローバルな文脈で表現し、議論していくこと。それ以外にぼくがやるべきこと、というか、ぼくができることはないのかもしれない。
授業中、「怒っているのはわかったけれども、何も変わっていないじゃないか、それはあなたの責任ではないのか」という趣旨のことを学生言われて、ぼくは、「I am making some noise!」と答えた。
声を上げてはいるんだよ。
しかし、ノイズは所詮ノイズに過ぎないのかもしれぬ。
母校での授業で、思い切り噴火してみた。しかし、この噴火は、空振りに終わったという意味において、空噴火だった。
空噴火をした火山は、休火山になるしかないかもしれぬ。
すべての問題は、個人的な問題である。
きっと、そうなんだね。
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