○○は脳に良いですか?
(以前にこのブログに二回に渡って書いた文章をまとめ、また若干の補足をしてあります。○○は脳に良いですか? という問いに興味がある方、そのような質問をされて答えを探している方は、ご参照ください。)
いろいろな方とお話していて、良く聞かれるのが、「○○は脳に良いですか?」という質問である。
○○を食べるのは脳に良いですか?
朝○○をするのは脳に良いですか?
メディアの中で、「○○は脳に良い」という言い方がしばしば見受けられるので、一つの思考の型として流布しているのだろうと思われる。しかし、科学的には、「○○は脳に良い」という言明には、あまり意味があるとは言えない。
だから、私は、このような質問をされると、一瞬絶句して、それからどのように答えようかと、一生懸命言葉を探す。
なぜ、科学的には、「○○は脳に良い」という言い方をしないのか。きちんと説明をする必要があるように思う。
「○○が脳に良い」という言い方の背景にある考え方は、科学的な言葉におきかえれば、脳の状態について、ある評価関数があって、○○によってその「数値」が上がるということを意味する。
たとえば、「朝チョコレートを食べるのが脳に良い」という言明が成り立つには、朝チョコレートを食べることによって、何らかの評価関数の数値が上がるということになる。
確かに、チョコレートを食べることによって、脳の状態の変化はあるだろう。だとえば、前頭葉に向って放出されるドーパミンの量は増えるだろう。しかし、そのことが「脳に良い」と単純化するには、脳は余りにも複雑過ぎる。
そもそも何が最終的に「脳に良い」のか、単一の評価関数で決められるわけではない。朝チョコレートを食べるかどうかということは、単なる趣味の問題である。チョコレートを食べれば、ある評価関数は上がるかもしれない。しかし、別の数値は下がるかもしれない。チョコレートを食べずに空腹に耐えてがんばることが、ある視点から見れば脳に良いのかもしれない。
取材などを受けていて、「朝チョコレートを食べて、コーヒーを飲む」と言うと、すかさず、「それは脳に良いですか?」と聞かれる。「そんなに単純ではありません」と言っても、なかなか納得してもらえない。
繰り返し言うが、単なる趣味の問題である。もし、本当に朝チョコレートを食べるのが脳に良いのならば、毎日欠かさず食べれば良かろう。私は、家にいる時はチョコを食べることが多いが、食べるのを忘れることもある。今日は旅先だが、そもそも部屋にチョコレートがないので、食べようと思っても食べられぬ。
むしろ、発想を変えて、「脳に悪い」ことは何かと考えるくらいでバランスがとれると思う。たとえば、すぐれた芸術作品に接することは、脳に傷がつくようなものである(拙著『脳と仮想』参照)。カフカの『審判』や『城』を読んだ時、私は「やられた」と思った。人間という存在の根源的なやっかいさ、怖ろしさを見せつけられたように思ったからである。
カフカなど読まずに、お花畑の中で生きている方が「脳に良い」と言えないこともない。ある評価関数を設定すればそうなるだろう。しかし、私は、やはりカフカを読んだ方が良かったと思う。ドストエフスキーの『罪と罰』を読んだことも良かったと思う。
さすがに、『罪と罰』を読むと脳に良いですか、というような質問をする人はいないだろう。朝チョコレートを食べると脳に良いですか、という質問をすることは、『罪と罰』は脳に良いですか、と聞くことと結局は同じようなものである。
脳のような非線型素子がたくさんつながった複雑なシステムについて、単純な評価関数など設定できない。設定できないからこそ、人生は時に「負」が「正」に転ずる、興味深い体験となる。オセロゲームにように、何か一つの要素が置かれることで、黒(負)が白(正)になることもある。
「○○は脳に良いですか」という質問には、あまり意味がないのである。
もちろん、チョコレートを食べると血糖値が上がり、脳にエネルギーが補給されるという限りにおいては、「チョコレートは脳に良い」し、コーヒーを飲むとカフェインで覚醒作用があるという意味においては、「コーヒーは脳に良い」。しかし、このような作用は、脳全体の非線型なネットワークの発展においては、「トリヴィアルな」(とるに足らない)問題である。
「○○は脳に良いですか」という問いは、脳の機能の本質に即したものになった時に、より興味深いものとなる。
ある程度の蓋然性を持って、脳がより高い働きを果たすことが期待されることが皆無だというわけではないのである。
たとえば「新しい」経験をすること。周知のように、人間には新奇選好(neophilia)があり、新しい体験を通して、さまざまなことを学ぶ。
あるいは、体験の「多様性」を増大させること。ある一つの体験が、たとえ脳にとってどれほど効果的であったとしても、それだけに偏るのは危険である。性質の異なる、さまざまな体験を蓄積することが、頑強(ロバスト)な脳をつくることに資する。
また、自分の中の確かな知識、経験の基盤を持って、不確実な状況に対すること。つまりは、確実性と不確実性の混ざった「偶有性」(contingency)に向き合うこと。偶有性に能動的にかかわることは、脳の学習を実質的な意味で進めることになる。
新しい体験をすること。多様性を増大させること。偶有性と向き合うこと。これらの処方箋に共通なのは、それが個々の具体的な事項を越えたいわば「メタ」な概念であるということであり、また、一人ひとりの現状に依存して、その実質が異なるということである。
「新しい」体験とは何かということは、人にとって異なる。ある人にとっては周知の出来事でも、別の人にとっては新しい体験かもしれない。何が新しいかは、本人にしかわからない。だから、新しい体験が脳に良いと言っても、それは、本人が能動的に探し求めなければならない。
「多様性」という観点から、今何が欠けているかという判断も、人によって異なる。英語を母国語とする人にとっては、日本語を勉強することが多様性に資するだろう。一方、日本語を母国語とする話者にとっては、英語の習得が多様性に資する。いつも対人コミュニケーションを仕事としている人は、一人静かに本を読むことが多様性に寄与する。一方、デスクワークの多い人は、誰かとおしゃべりすることが多様性を増大させる。
「偶有性」において、不確実な要素が何かといううことは、その人によって異なる。また、確実なことと不確実なことのバランスも、個人の資質と現在の状態に依存する。偶有性の処方箋は、各人に対して、それぞれの状況において書かれなければならない。
このように、かなりの蓋然性をもって「脳に良い」と考えられることは、個々の具体的な事例を越えた「メタ性」と、一人ひとりの状況に依存した「個別性」を兼ね備えており、だからこそ、脳についてさまざまな文脈において措定される「評価関数」においても、頑強(ロバスト)なふるまいが期待される。
世間で良く言われる「脳に良い」という言明は、上のようなメタな概念ではなく、個々の具体的な事例(たとえば、「朝チョコレートを食べると脳に良い」というように)に依存していて、だからこそ有効なものとはなっていない。
「脳に良い」という概念の捉えられ方をより「メタ」で「個別的」なものにすることができれば、脳科学から社会に対する発信は、より実質的に意味があるものになるだろう。
5月 27, 2010 at 08:22 午前 | Permalink
最近のコメント