自らの選択によるシーラカンスも、静かな海で安泰としているわけにはいかなくなって来た
人生には、偶有性が避けられないと言うと、「でも、静かに、一つの世界で生きるというやり方もあるのではないでしょうか」とおっしゃる方がいる。
それはそうである。生物の生きる戦略は、さまざま。たとえば、シーラカンスのように、何億年も前から同じような生態学的ニッチを占めてきたと思われる魚もいる。すべての生きものが、偶有性に向き合い、ダイナミックに変化しながら生きなければならないわけではない。
(正確に言えば、シーラカンスの生活の中にも、思わぬ出来事という意味での偶有性は存在するはずなのであるが。)
ところが、残念なことに、世界が「グローバル化」するに従って、私たちの生活には必然的に偶有性が伴うようになってきた。いくら、どこか小さな村でかつての老子の理想のように生活したいと思っても、なかなかそうはいかない状況になってきたのである。
たとえば、直近では、ギリシャの財政危機に端を発した金融不安。ギリシャは、重要な文化の発祥の地であり、とりわけヨーロッパにとっては大きな歴史的意味を持つ国である。
しかし、今日、ギリシャの人口は日本の約10分の1、経済規模は10分の1以下に過ぎない。本来ならば、ギリシャの財政危機が世界経済に影響を与えるとしても、限定されたものになるはずだった。
ところが、ギリシャはユーロ圏に組み込まれてしまっている。そのため、ギリシャの危機が、世界の主要通貨の一つであるユーロの危機へとつながった。このため、ドル、ユーロ、円、元などの世界主要通貨の間の相互依存関係にも影響を与えて、世界全体が不確実性の中に投げ込まれる結果となった。
今や、世界のさまざまな要素が、お互いに相互作用で結ばれてしまっている。それは、私たちに多くの恩恵をもたらした一方で、世界のダイナミクスを、本来的に偶有的なものへと変えてしまった。
自分の回りの「ローカル」な状況を自らコントロールしようとしても、そうはいかない。局所が、別の局所につながり、それがまた次の局所へとつながっていく。「ローカル」だけを見ていたのでは、二つ先、三つ先、四つ先のノードで何が起きているのか、把握できない。「遠く」で起こったことが、回り回って自分の生活に影響を与える。
グローバル化の世界では、グラフ構造から来る論理的必然として、偶有性が避けられない。つまりは、自らの選択によるシーラカンスも、静かな海で安泰としているわけにはいかなくなって来たのである。
5月 17, 2010 at 07:55 午前 | Permalink
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