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2010/05/20

 自分の身体性の有限を引き受ける覚悟さえあれば、確率は私たちを解放してくれる。

 たとえば、あなたが、ガンの告知を受け、「五年後生存している確率は、10%です」と言われたとしよう。
 
 科学的に扱うことのできる「統計的真理」としては、それ以上のデータは得られないかもしれない。量子力学の「ダブル・スリット」の実験において、電子が二つのスリットのうちどちらを通過するか、確率的な記述が与えられることのすべてであるように、多くの場合、私たちは「統計的真理」以外の知識を得られない。

 しかし、患者本人にとっては、5年後に「10%生きていて、90%死んでいる」という状態はあり得ない。5年後には「生きている」か「死んでいる」かのどちらである。「10%生存している」というのは、たくさんの患者を集めてきた時の「アンサンブル」の性質に過ぎない。

 統計的手法には致命的な限界があるが、一方で、生の行く末が「確率」で表されるということの中には、私たちを救済する側面もある。

 早い話が、確率が100%でない限り、必ずそうなるという保証はない。逆に確率が0%でない限り、絶対に無理ということもない。

 人間がある行動に投企するということの中には、必ず、確率を超えた意味合いがある。

 ある企ての成功率が10%だと言われたとしても、その実現に向けて全力投球している人にとっては、その数字自体は意味がない。ただ、目の前のことを一生懸命やるだけである。「成功率10%」だからといって、「全力投球の10%」で手加減してやるということにはならない。

 英語には、against all oddsという表現がある。一般に、確率は、私たちが生きているこの世界についての知識を与え、私たちの企てに対する拘束条件を与えるけれども、私たちが自分を投企する時のエネルギーの噴出を制限するものではない。

 たとえ、確率が10%でも、1%でも、あるいは0.1%でも、ある企てに全力投球をすることは妨げられていない。その時、確率はアンサンブルの論理を通して個人を突き放す「冷たい論理」ではなく、むしろ存在の噴火を後押しする「熱い論理」となる。
 
 自分の身体性の有限を引き受ける覚悟さえあれば、確率は私たちを解放してくれるのだ。

5月 20, 2010 at 07:45 午前 |