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2010/05/23

属人的であることをやめたアイデアの流通

 立場によって意見が異なる問題について、本当に問われるべきことは、それぞれの文化、社会セグメントの中でYESとNOがどれくらいの割合で存在するかということではない。

 より大切なのは、YES、NOと言っている人たちの背景になっている考え方が、どのようなものであるかということである。
 
 たとえば、捕鯨の問題について考えてみよう。この件に関する日本国内の意見は、私がいろいろな人と話した結果によれば、YESが多いようである。一方、イギリスやアメリカ、オーストラリアではNOが多い。

 このYESとNOの対立を、属人的、ないしは属グループ的なものにしてしまうと、もうそれ以上議論が進まない。そうして、偏見や切り捨ての原因になる。世界のさまざまな人たちが密接につながっていくグローバリズムの時代に、あまり有意義な事態には至らない。

 一方、YES、NOの意見の背後にある理由や、文化的背景を言葉にして表現することには、意義がある。そのようにして表現されたアイデアや感情は、属人性の縛りを離れて流通することができる。お互いの間で取り引きして、場合によっては自分の中に取り入れることができる。そのことによって、自分の意見を変えることさえできる。

 属人的であることをやめたアイデアの流通、取り引きこそが、私たち人間の知性を発達させてきた。私たちは、すべてが属人的であるかのような感覚の中で人生をスタートさせる。しかし、さまざまな人たちがつながっていくネットワークの中で自分を活かそうとすれば、むしろ、自分から発せられる概念をできるだけ非属人的なものとしなければならない。

 概念が属人的なものに留まっている限り、それはその個人の中で次第に発酵し、やがて腐りさえする。その人自身も活かすことができぬ。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という古の至言は、自分のpet theory (後生大事な考え)と自分の身体性の間にこそ成立する。

5月 23, 2010 at 09:38 午前 |