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2010/05/31

「けんもぎTV」オープン

ustream上のチャンネル、「けんもぎTV」(aka 「モギケンTV」)がオープンしました。

「直接性の原理」を実現しつつ、いろいろなところから中継していきたいと思います。

よろしくお願いいたします。

茂木健一郎

http://www.ustream.tv/channel/kenmogitv 

5月 31, 2010 at 07:30 午前 |

直接性の原理

最近、日本の地方を旅していて思うことは、「ここもまた、文明の中心であるはずだ」ということである。

都会と田舎、という時の見方が変わった。インターネットが登場することによって、日本のどこにいても、世界の文明の坩堝(crucible)の中に、身を投げ込むことが可能となった。

そのことに気付くということが、新時代に輝く上ではどうしても必要なことだと思う。

ハーバードのサンデル教授の「正義」に関する講義を、ネットで簡単に見ることができる。

http://www.justiceharvard.org/ 

インターネットの登場前だったら、ボストンに旅行して教室に潜るか、苦労して録画したビデオを手に入れなければならなかったろう。

しかし今は、直接つながることができる。そのことの重大な意味に、少しずつ多くの人が気付いていくだろう。

直接性(immediacy)が支配するということは、言い方を変えれば、媒介物や、翻訳者は必要ないということである。このことは、日本の大学の在り方に、長期的に見れば大きな影響を与えざるを得ないだろう。直接性の原理(principle of immediacy)の下、人々が直接文明の坩堝(crucible)に接し、直接球を打ち合い、ボールを蹴り、いきいきとしたやりとりをする時代が来るだろう。

そんな時、たとえば、緑の沃野を走るローカル線から見る美しい田園風景の見え方も、今とは違ったものになるはずだ。

もし、未来に何が起こるかを旧体制(ancient regime)の断末魔を通してではなく、今すでに進行しているダイナミクスの論理的延長の上にとらえるとすれば、私たちは大いなる希望を抱くことができるに違いない。

というか、実は未来には希望しかないのだ。

5月 31, 2010 at 07:13 午前 |

2010/05/30

諸君、今日もまた、その奇跡へのトライアルが始まったね。

絵画を見たり、映画を観たり、小説を読んだりした時の感動は、無意識から意識にわたる「共鳴」によって支えられている。

その「共鳴」の構造の中には、意識の中で把握される「クオリア」が含まれると同時に、意識化、言語化できない情動や志向性のダイナミクスも存在する。

すばらしい芸術を受動する時には、どれくらい共鳴できるかが勝負となる。石のように微動だにせずに作品に接しても、仕方がない。自分という「楽器」をどれくらい鳴らすことができるか、震撼することができるかということが大切な命題となる。

それは、別の言い方をすれば、脳に「傷をつける」ということでもある。すぐれた芸術作品に出会った人は、脳を傷つけられる。その傷が癒えていく過程において、人は、さまざまな変容を経験し、その間に何ものかを生み出しさえするのだ。

だから、諸君、大いに傷つけられたまえ!

一方、手を動かして、何かものをつくる時の経験は、よほど変わっている。そこにあるのは、どちらかと言えば価値中立的で、乾いた身体運動である。ただ、共鳴しているだけではものはつくれない。

とにかく、やってみること。試みること。経験値も、ロジックも、職人魂も必要になる。受容における共鳴の美とは異なる、実際的な配慮が必要になる。

麗しい共鳴の大海と、機能的運動の論理の間にいかにループをつくるか。諸君、今日もまた、その奇跡へのトライアルが始まったね。

5月 30, 2010 at 07:42 午前 |

(本日) 下関 講演会 

カナダ友好協会主催

講演会

2010年5月30日(日)14時〜15時30分
山口県下関市竹崎町4-8 シーモールホール


詳細 

5月 30, 2010 at 07:14 午前 |

2010/05/29

益川敏英先生との対談

本日の夕方、益川敏英先生と名古屋で対談いたします。 http://www.acc-n.com/

5月 29, 2010 at 10:12 午前 |

通年無差別採用のご提案

企業の経営というものは、徹底的な合理性を追求するべきものと考えます。

ここにおける合理性を、ある文脈に限定されたものととらえれば、その企業は文脈限定的な成功を収めることになるでしょう。一方、開放的にとらえれば、その企業はオープン・エンドな成長を遂げることができるかもしれません。

私は、新卒者、既卒者、あるいはそもそも大学を出ているかどうかを区別せず、一年のいつでも応募を受け付け、順次採用を決める「通年無差別採用」が今日の企業経営上もっとも合理的だと信じ、その採用を強くお薦めするものです。

ネットワーク化し、相互依存が高まり、偶有性が避けられない今日の世界においては、多様な人材がいることが、一つの組織の頑健さ(robustness)につながります。

人生のタイムラインは多様化しています。日本の大学を出る人だけをとろうと思えば、4月に一斉に入社すれば良いのでしょうか、世界にはさまざまな人たちがいます。6月に卒業する欧米の大学の卒業生もいるかもしれない。卒業した後、世界各地でボランティア活動をしたり、民間団体で働いたり、家庭で介護をしたり、さまざまなことをしてから、就業しようという人もいるでしょう。

これらの多様な人材を確保し、組織の頑健さを強めるためには、通年で採用することが二重の意味で合理的です。

まず第一に、大学3年の10月にエントリーを受け付け、説明会を開催し、一次、二次、三次と試験していく、という限定されたタイムラインに沿っては応募することが不可能なような、「アウトライヤー」(大勢から外れた人)を採用することができます。ネットワーク化した社会におけるイノベーションにおいては、組織の中にアウトライヤーがいることが不可欠だと言えるでしょう。

第二に、そして、これが本質的に重要と私は信じますが、企業の採用担当者のリソースをより有効に使うことができます。現状の新卒一括採用は、学生にとって大きなストレスになるだけでなく、企業の人事部の採用担当者の能力も有効に活用していないと私は考えます。

現状では、手続きがオンライン化されたこともあって、大量の申請書類が届き、それを裁くだけでも大変な労力を費やすと聞いています。本当は、人物本位で、じっくり見きわめて採用したいのに、限られたリソースしか候補者の選別に使えないため、「アウトライヤー」を採用することができない。そのようなジレンマに企業の採用担当者は陥っているのではないでしょうか。

一年中、いつでも応募を受け付け、順次審査するという政策にすれば、今までより多くの時間を使って、応募者の資質を見きわめることができます。場合によっては、一定期間試験的に採用して、その上で正式に採用するということもできるかもしれません。

iPadや、Amazon kindleのような革新的な商品、サービスを生み出すには、「横紙破り」の人材が不可欠です。大学3年の10月から、従順にエントリー、会社説明会をこなす人材だけでは、イノベーションを起こすことができません。

これからの企業経営に不可欠なユニークな人材を確保し、採用担当者の能力をより十全に活用するためにも、通年無差別採用を「明日から」実施することを、日本のすべての企業にお薦めする次第です。

5月 29, 2010 at 07:58 午前 |

2010/05/28

ネットワークに接続する機器が偶有性を持つためには

本日、iPadが発売された。
昨日は、ソニーの電子書籍リーダーについての発表があった。

インターネットに接続する機器の特徴は、「偶有性」、すなわち、予想ができることと、予想ができないことが適度に入り混じっているということである。

言い換えれば、自分が想定していたことに沿った「シグナル」と、自分が想定していなかった「ノイズ」が混在しているということになる。自分がどのようなアクションを起こした時に、どのような感覚フィードバックがあるか。この「偶有性の設計」こそが、ある機器が魅力的であるかどうかを決定する。

ところで、偶有性を設計すると言っても、設計者自体が、意図的にシグナルにノイズを混ぜる必要はない。

インターネットのようなネットワーク自体が、偶有性を運んでくる性質を持っている。ネットワーク上で、離れた場所で起こっていることは、ローカルには制御もできないし、予想もできない。従って、ネットワーク上で情報が流通するというアーキテクチャー自体が、偶有性を生み出すことになる。

ネットワークに接続する機器が偶有性を持つためには、ただ単に、ネットワークに内在している構造を可視化すれば良い。twitterなど、今人気を集めているサービスは、このような「可視化」をうまくやっているからこそ成功しているのである。

時には、ネットの持っている偶有性が抑制的に設計されている場合もある。

たとえば、imodeは、メニューが設計者によってあらかじめ分類されており、その限りにおいての偶有性は少ない。偶有性は、各メニューの先に表れる。たとえば、ニュースサイトに接続した場合、その先にどのような情報が提示されているかということが偶有的になる。

一方、グーグルは、ある検索ワードを入れた結果そのものが、ネットの偶有性の表現になる。imodeが抑制的にしか偶有性を提示しないのに対して、グーグルは偶有性を全面的に提示する。

どのようなレベルの偶有性提示が好ましいかは、ユーザーの志向性、経験値、タスクの性質によって異なる。いずれにせよ本質的なのは、インターネット自体が持っている偶有性であり、恣意的なノイズの混入が入る余地はないのである。

5月 28, 2010 at 07:27 午前 |

脳のトリセツ 「記憶力の世界王者」を訪ねる

週刊ポスト 2010年6月4日号

脳のトリセツ 第43回 「記憶力の世界王者」を訪ねる

普通のオタク青年が「記憶のスーパーマン」へ変身—世界チャンピオンの座は独自の「発明」と「努力」で摑んだ。

抜粋

 世界記憶力選手権は、1991年から毎年一回開催されている。でたらめに並んだ数字を覚えたり、意味のない単語の羅列を記憶したり、架空の歴史の出来事とそれが起きた年号を覚えたりする。
 選手権のハイライトは、「スピード・カード」と呼ばれる種目。一パックの中にある52枚のカードの順番を、制限時間5分以内で、できるだけ早く記憶する。数字に加えて、ハートやスペードといった模様も会わせて覚えなければならないから、その分負担が増える。
 今までの世界記録は、ベンが打ち立てた24秒97。自分でやってみようとすればわかるが、とても信じられないスピードである。ベンは、カードを両手に持ち、一秒間に二枚以上、カードを指で送りながら記憶していく。実際に目の当たりにすると、凄まじい記憶力に、畏怖の念さえ覚える。
 ベン・プリドモアは、確かに偉大な記憶力のチャンピオンだが、一番のニュースは、彼が決して特別な人ではないということだろう。ごく普通の人が、たまたま「記憶世界選手権」について知り、記憶法を学び、それを自分なりに工夫して、改善することでチャンピオンになったのである。


全文は「週刊ポスト」でお読み下さい。

http://www.weeklypost.com/100604jp/index.html


イラスト ふなびきかずこ

5月 28, 2010 at 07:07 午前 |

『文明の星時間』 キャッチ22

サンデー毎日連載

茂木健一郎  
『文明の星時間』 第115回  キャッチ22

サンデー毎日 2010年6月6日号

http://mainichi.jp/enta/book/sunday/ 

抜粋

 『キャッチ22』は、アメリカの小説家ジョセフ・ヘラーが1961年に発表した作品。ヨーロッパ戦線で闘うアメリカ兵を主人公に、戦場の不条理を描いている。
 小説の中で、主人公のパイロットが置かれたジレンマとは、次のようなものだった。戦争の狂気から逃れ、命を存えるためには、「精神異常」だと認定されれば良い。そのためには、軍医に精神の不調を訴え出なければならない。しかし、自分の精神が不調だと申し出ることができる者は、まだ「理性」を失っていないと判断され、軍規により、精神異常とは認められない。結局、どのようにしても、戦場を逃れる術はない。
 第二次大戦の惨劇の記憶がまだ鮮明な頃に世に送り出された小説。やがて、「キャッチ22」というタイトルは、一般に、与えられた選択肢の中のどれを選んでも、必ずや困った状況に陥るという不条理な状況を表現する言葉となった。
 もともと、英語の「キャッチ」には、思いがけない躓きの原因や、隠された罠というような意味がある。たとえば、すばらしい機能を持った新製品が、驚くほど安い価格で売り出されるというニュースに対して、「何かキャッチがあるんじゃないか」というような表現が使われる。
 「キャッチ22」ほどの極限状況でなくても、私たちは、生きていく中で、さまざまな「キャッチ」に出会わざるを得ない。そのような状況にいったん出会ってしまえば、どれほどすぐれた資質の者でも、簡単な解決を見いだすのは難しくなる。
(中略)
 この問題について、鳩山首相の政権運営がベストだったとは思わない。その一方で、個人の無能力にすべてを帰すことができるとも考えない。誰がやっても、おそらくは解決が難しい。普天間基地問題は、鳩山政権にとっての「キャッチ22」となった。
 「キャッチ22」の状況において、人はどうするか。努力は放棄するべきではないが、簡単には解決策は見つからないことも確かである。そのような時は、結局は、自分自身に、そして基本となる世界観、考え方に立ち戻るしかない。


全文は「サンデー毎日」でお読みください。


イラスト 谷山彩子

本連載をまとめた
『偉人たちの脳 文明の星時間』(毎日新聞社)
好評発売中です。

連載をまとめた本の第二弾『文明の星時間』が発売されました!

中也と秀雄/ルターからバッハへ/白洲次郎の眼光/ショルティへの手紙/松阪の一夜/ボーア・アインシュタイン論争/ヒギンズ教授の奇癖/鼻行類と先生/漱石と寅彦/孔子の矜恃/楊貴妃の光/西田学派/ハワイ・マレー沖海戦/「サスケ」の想像力/コジマの献身/八百屋お七/軽蔑されたワイルド/オバマ氏のノーベル平和賞/キャピタリズム

など、盛りだくさんの内容です。

amazon

5月 28, 2010 at 07:00 午前 |

2010/05/27

○○は脳に良いですか?

(以前にこのブログに二回に渡って書いた文章をまとめ、また若干の補足をしてあります。○○は脳に良いですか? という問いに興味がある方、そのような質問をされて答えを探している方は、ご参照ください。)


いろいろな方とお話していて、良く聞かれるのが、「○○は脳に良いですか?」という質問である。

○○を食べるのは脳に良いですか?

朝○○をするのは脳に良いですか?

 メディアの中で、「○○は脳に良い」という言い方がしばしば見受けられるので、一つの思考の型として流布しているのだろうと思われる。しかし、科学的には、「○○は脳に良い」という言明には、あまり意味があるとは言えない。

 だから、私は、このような質問をされると、一瞬絶句して、それからどのように答えようかと、一生懸命言葉を探す。

なぜ、科学的には、「○○は脳に良い」という言い方をしないのか。きちんと説明をする必要があるように思う。

 「○○が脳に良い」という言い方の背景にある考え方は、科学的な言葉におきかえれば、脳の状態について、ある評価関数があって、○○によってその「数値」が上がるということを意味する。

 たとえば、「朝チョコレートを食べるのが脳に良い」という言明が成り立つには、朝チョコレートを食べることによって、何らかの評価関数の数値が上がるということになる。
 確かに、チョコレートを食べることによって、脳の状態の変化はあるだろう。だとえば、前頭葉に向って放出されるドーパミンの量は増えるだろう。しかし、そのことが「脳に良い」と単純化するには、脳は余りにも複雑過ぎる。

 そもそも何が最終的に「脳に良い」のか、単一の評価関数で決められるわけではない。朝チョコレートを食べるかどうかということは、単なる趣味の問題である。チョコレートを食べれば、ある評価関数は上がるかもしれない。しかし、別の数値は下がるかもしれない。チョコレートを食べずに空腹に耐えてがんばることが、ある視点から見れば脳に良いのかもしれない。

 取材などを受けていて、「朝チョコレートを食べて、コーヒーを飲む」と言うと、すかさず、「それは脳に良いですか?」と聞かれる。「そんなに単純ではありません」と言っても、なかなか納得してもらえない。

 繰り返し言うが、単なる趣味の問題である。もし、本当に朝チョコレートを食べるのが脳に良いのならば、毎日欠かさず食べれば良かろう。私は、家にいる時はチョコを食べることが多いが、食べるのを忘れることもある。今日は旅先だが、そもそも部屋にチョコレートがないので、食べようと思っても食べられぬ。

 むしろ、発想を変えて、「脳に悪い」ことは何かと考えるくらいでバランスがとれると思う。たとえば、すぐれた芸術作品に接することは、脳に傷がつくようなものである(拙著『脳と仮想』参照)。カフカの『審判』や『城』を読んだ時、私は「やられた」と思った。人間という存在の根源的なやっかいさ、怖ろしさを見せつけられたように思ったからである。

 カフカなど読まずに、お花畑の中で生きている方が「脳に良い」と言えないこともない。ある評価関数を設定すればそうなるだろう。しかし、私は、やはりカフカを読んだ方が良かったと思う。ドストエフスキーの『罪と罰』を読んだことも良かったと思う。

 さすがに、『罪と罰』を読むと脳に良いですか、というような質問をする人はいないだろう。朝チョコレートを食べると脳に良いですか、という質問をすることは、『罪と罰』は脳に良いですか、と聞くことと結局は同じようなものである。

 脳のような非線型素子がたくさんつながった複雑なシステムについて、単純な評価関数など設定できない。設定できないからこそ、人生は時に「負」が「正」に転ずる、興味深い体験となる。オセロゲームにように、何か一つの要素が置かれることで、黒(負)が白(正)になることもある。

「○○は脳に良いですか」という質問には、あまり意味がないのである。

 もちろん、チョコレートを食べると血糖値が上がり、脳にエネルギーが補給されるという限りにおいては、「チョコレートは脳に良い」し、コーヒーを飲むとカフェインで覚醒作用があるという意味においては、「コーヒーは脳に良い」。しかし、このような作用は、脳全体の非線型なネットワークの発展においては、「トリヴィアルな」(とるに足らない)問題である。

 「○○は脳に良いですか」という問いは、脳の機能の本質に即したものになった時に、より興味深いものとなる。

 ある程度の蓋然性を持って、脳がより高い働きを果たすことが期待されることが皆無だというわけではないのである。

 たとえば「新しい」経験をすること。周知のように、人間には新奇選好(neophilia)があり、新しい体験を通して、さまざまなことを学ぶ。

 あるいは、体験の「多様性」を増大させること。ある一つの体験が、たとえ脳にとってどれほど効果的であったとしても、それだけに偏るのは危険である。性質の異なる、さまざまな体験を蓄積することが、頑強(ロバスト)な脳をつくることに資する。

 また、自分の中の確かな知識、経験の基盤を持って、不確実な状況に対すること。つまりは、確実性と不確実性の混ざった「偶有性」(contingency)に向き合うこと。偶有性に能動的にかかわることは、脳の学習を実質的な意味で進めることになる。

 新しい体験をすること。多様性を増大させること。偶有性と向き合うこと。これらの処方箋に共通なのは、それが個々の具体的な事項を越えたいわば「メタ」な概念であるということであり、また、一人ひとりの現状に依存して、その実質が異なるということである。

 「新しい」体験とは何かということは、人にとって異なる。ある人にとっては周知の出来事でも、別の人にとっては新しい体験かもしれない。何が新しいかは、本人にしかわからない。だから、新しい体験が脳に良いと言っても、それは、本人が能動的に探し求めなければならない。

 「多様性」という観点から、今何が欠けているかという判断も、人によって異なる。英語を母国語とする人にとっては、日本語を勉強することが多様性に資するだろう。一方、日本語を母国語とする話者にとっては、英語の習得が多様性に資する。いつも対人コミュニケーションを仕事としている人は、一人静かに本を読むことが多様性に寄与する。一方、デスクワークの多い人は、誰かとおしゃべりすることが多様性を増大させる。

 「偶有性」において、不確実な要素が何かといううことは、その人によって異なる。また、確実なことと不確実なことのバランスも、個人の資質と現在の状態に依存する。偶有性の処方箋は、各人に対して、それぞれの状況において書かれなければならない。

 このように、かなりの蓋然性をもって「脳に良い」と考えられることは、個々の具体的な事例を越えた「メタ性」と、一人ひとりの状況に依存した「個別性」を兼ね備えており、だからこそ、脳についてさまざまな文脈において措定される「評価関数」においても、頑強(ロバスト)なふるまいが期待される。

 世間で良く言われる「脳に良い」という言明は、上のようなメタな概念ではなく、個々の具体的な事例(たとえば、「朝チョコレートを食べると脳に良い」というように)に依存していて、だからこそ有効なものとはなっていない。
 


 「脳に良い」という概念の捉えられ方をより「メタ」で「個別的」なものにすることができれば、脳科学から社会に対する発信は、より実質的に意味があるものになるだろう。

5月 27, 2010 at 08:22 午前 |

黒いTシャツは、暗闇に似ている

私は、この数年、黒いTシャツを着ていることが多い。

リンゴ、アルベルト・アインシュタイン、バラック・オバマ、楽劇『トリスタンとイゾルデ』の歌詞(O sink hernieder Nacht der Liebe!)、キリン、シマウマのペア。

絵柄はさまざまだが、とにかく色が黒いTシャツを着ていることが多い。

なぜ、黒いTシャツを着るのか。それには、深い理由がある。

一日の仕事の中で、さまざまな人に会う。そんな時、黒いTシャツを着て、その上にジャケットを羽織っていると、何となくフォーマルに見える。

黒いTシャツを着て、ジャケットのボタンを閉じる。胸のあたりに見える部分は、模様が描いていないことが多い。だから、ジャケットと合わせて、全体としてフォーマルに見えるのである。

インタビューや、会合など、少しフォーマルにした方がいいと思われる機会は、ランダムに訪れる。朝出る時に、いちいち「今日はフォーマルじゃなくては」などと考えるのが面倒くさい。着るものについては、最小限のアタマのリソースしか費やしたくない。だから、黒いTシャツを、一つの「デフォールト」としている。

黒を着ているのは、少し痩せて見えるからでしょう、と言う人が時々いるけれども、断じてそんなことはない!(と思う・・・)

黒いTシャツにはもう一つ理由があることに、昨日、白いシャツとネクタイを久しぶりにしてみて気付いた。

シンポジウムが終わって、トイレで黒いTシャツに着替え(昨日のは『トリスタンとイゾルデ』の歌詞(O sink hernieder Nacht der Liebe!)だった)、何となくほっとした時に気付いた。

黒いTシャツは、暗闇に似ている。まるで暗闇に包まれているようにほっとするのだ。

ぼくは、夜お風呂に入らない。もし夜髪の毛を洗うと、翌日くせ毛がぴょんぴょん跳ねて大変なことになるからだ。

だから、夜は、そのままバタンキュウで寝てしまう。黒いTシャツだからこそ、暗闇に包まれているようで安らぐのかもしれない。

ぼくは、昼の都会を歩きながら、ずっと暗闇に包まれていたのです。


黒いTシャツに包まれて。筑摩書房のホームページより。

5月 27, 2010 at 06:55 午前 |

2010/05/26

講演 ガラパゴス化する日本

茂木健一郎
講演 『ガラパゴス化する日本』

http://www.qualia-manifestocom/galapagos.MP3(MP3, 76分)

ITC日本リージョン第28回年次大会
2010年5月25日 米子コンベンションセンター 多目的ホール 

5月 26, 2010 at 09:15 午前 |

日本の大学のガラパゴス化

最近、さまざまな大学では、「就職」への対応を売り物にしているのだという。大学三年の秋から就職活動が始まるという日本の企業の「慣行」に合わせて、一年生の時からキャリア教育をするのだという。

このような風潮は、二重三重に間違っていて、最終的には日本の国益を損すると私は考える。

日本の大学が、日本の企業の予備校化するということは、日本の大学のガラパゴス化をますます加速化させる。現状でも、日本の大学は、日本で生まれ、日本語を母国語とする学生しかほとんど志望しない「日本でしか通用しない商品」となっている。日本の企業への就職の予備校となることは、つまりは、日本の大学が日本の企業に就職することに興味がある人以外には、進学することを検討するに価しない存在になることを意味する。

日本の大学で学ぶ学生たちにとっても、就職予備校化は長い目で見れば致命的な欠陥となりうる。なぜならば、大学で身につけるスキルが日本の企業のニーズに特化したものとなり、学生たち自身のガラパゴス化につながることになるからである。

もともと、大学で本格的に学問をやることの意味は、そのことによって世界のどこでも通用する普遍的な知性を獲得することである。グローバル化した世界において、世界のさまざまな場所の相互依存関係が密になりつつある今、大学という高等教育機関の使命は、それ以外にあるはずがない。

ところが、日本の大学は、自らガラパゴス化し、また学生にもガラパゴス化を押しつけることによって、普遍的な知性の醸成という使命を放棄してしまっている。このことは、長い目で見て、日本人の能力の劣化をもたらし、深刻な打撃を日本という国家に与えることだろう。

もともと、日本の教育課程は徹底した「ガラパゴス化」のモチーフによって貫かれている。高校三年生の段階で、日本人のほとんどは日本の大学に進学する学力しか持たない。ハーバードやイェールなど、海外の有名大学に進学するのに必要な、論理的に自分の意見を表明し、立場の異なる人と議論する能力を持たない。だから、日本の大学に進学するしかない。

見方を変えれば、文部科学省と大学が結託して、日本の高校生が日本の大学以外には進学しないように利益共同体をつくっていると言えないこともない。もし、日本の高校生のうち、最優秀の層が海外の大学に進学するといった現象が顕著なものになれば、東京大学を筆頭として、日本の大学は深い打撃を受けるだろう。

悲劇的なのは、それぞれの利害関係者が自分たちの利益を守るために「部分最適」を図ることが、日本の国全体としては「全体最適」につながっていないということである。誰だって、日本が良くならないよりは、良くなった方が好ましいに決まっている。ところが、高校が日本の大学の進学予備校化し、大学が日本の企業の就職予備校化し、世界の潮流と無関係になることで、それぞれの部分最適は図られているのかもしれぬが、日本全体としての適応度は明らかに劣化している。

このグローバル化の時代に、ハーバード大学への日本人留学生は減っている  事態は深刻である。日本の週刊誌は、あいからず「東京大学高校別合格者一覧」などという意味のない記事を載せているが、日本の「エリートコース」に乗ろうと努力することが、かえって自身の「ガラパゴス化」のリスクを助長しかねない時代となっているのだ。

5月 26, 2010 at 07:25 午前 |

2010/05/25

「あそこを超えたらホームラン」と決めた、ブランコの姿を見きわめること。

 子どもの頃、草野球をするのが好きだった。王貞治選手の真似をして、一本足打法をした。

 ぼくたちのルールでは、ブランコを超えるとホームランだった。小学校5年生の夏、一番熱心に草野球をした。確か、ホームランは50本を超えたんじゃないかと思う。

 それで、バットを全力で振り切る喜びを覚えた。三振しようが何だろうが、とにかくバットを思い切り振る。空振りしようが何だろうが、全力で振り切ると、爽快だということを、子ども心に知った。

 草野球が楽しかったのは、その世界が青天井だったからだろう。室内で、上にガラスの天井があると思っていたら、バットを全力で振り切ることなどできない。頬をなでる風も、ぼくを照らす太陽も、すべて、バットを振り切ることを応援してくれていた。

 大人になっても、本質は変わらない。バットを全力で振り切ること。何よりも、そのような行為が出来る、青天井の環境を求めること。

 「あそこを超えたらホームラン」と決めた、ブランコの姿を見きわめること。

5月 25, 2010 at 07:29 午前 |

2010/05/24

人は、決して、単線ではない。どんな人にも、伏流がある。

 有吉伸人さんと会って、いろいろと話した。

 ずっと、ものすごい勢いで仕事をしていた有吉さんが、本当に久しぶりに、少し休暇をとった。そうしたら、いろいろと、それまでとは違ったかたちで人生のことを考えたのだという。
 
 その時、有吉さんが考えたということが、それまで回転するのを止めたら倒れてしまうコマのようにずっと働いていた人から出る発想とは思えなかった。

 ぼくは、それで、ああ、有吉伸人という人はやっぱりいい人だなあ、と感動してしまった。

 ずっとずっと全力投球をして、高い質の仕事をしている人だからこそ、いったん仕事を離れた時に考えることもまた深いものになる。

 人は、決して、単線ではない。どんな人にも、伏流がある。その伏流が、休暇に入ることによって、雪融け水のようにあふれ出す。

 それは、涙にもまた似ている。私たちの生命の作用の最も奥深い場所から、隠れていた感情、忘れかけていた原点がよみがえってくる。

 有吉さんは、また現場に戻った。全力疾走は再び続く。
 
 そして、今後有吉さんがつくる番組は、きっと、少しだけ違うものになるだろう。

 有吉さんが、凄まじいまでの集中と、そして飽くなき持続力で仕事をしていた、その年月をすぐそばで見ることができて、本当に良かったと思う。


有吉さんが回転し続けるコマのように働いていた頃。
仕事の合間に、思わずソファに倒れ込む。

5月 24, 2010 at 06:47 午前 |

2010/05/23

属人的であることをやめたアイデアの流通

 立場によって意見が異なる問題について、本当に問われるべきことは、それぞれの文化、社会セグメントの中でYESとNOがどれくらいの割合で存在するかということではない。

 より大切なのは、YES、NOと言っている人たちの背景になっている考え方が、どのようなものであるかということである。
 
 たとえば、捕鯨の問題について考えてみよう。この件に関する日本国内の意見は、私がいろいろな人と話した結果によれば、YESが多いようである。一方、イギリスやアメリカ、オーストラリアではNOが多い。

 このYESとNOの対立を、属人的、ないしは属グループ的なものにしてしまうと、もうそれ以上議論が進まない。そうして、偏見や切り捨ての原因になる。世界のさまざまな人たちが密接につながっていくグローバリズムの時代に、あまり有意義な事態には至らない。

 一方、YES、NOの意見の背後にある理由や、文化的背景を言葉にして表現することには、意義がある。そのようにして表現されたアイデアや感情は、属人性の縛りを離れて流通することができる。お互いの間で取り引きして、場合によっては自分の中に取り入れることができる。そのことによって、自分の意見を変えることさえできる。

 属人的であることをやめたアイデアの流通、取り引きこそが、私たち人間の知性を発達させてきた。私たちは、すべてが属人的であるかのような感覚の中で人生をスタートさせる。しかし、さまざまな人たちがつながっていくネットワークの中で自分を活かそうとすれば、むしろ、自分から発せられる概念をできるだけ非属人的なものとしなければならない。

 概念が属人的なものに留まっている限り、それはその個人の中で次第に発酵し、やがて腐りさえする。その人自身も活かすことができぬ。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という古の至言は、自分のpet theory (後生大事な考え)と自分の身体性の間にこそ成立する。

5月 23, 2010 at 09:38 午前 |

2010/05/22

たけちゃんからのメール

昨日のブログ記事(『増田健史さんからのメール』 )に対して、たけちゃんからメールが来た。

From: 増田
To: "'Ken Mogi'"
Subject: RE: もぎさん!
Date: Fri, 21 May 2010

健一郎さま

そういう馬鹿げたことするなら、すみやかに原稿を書いてください!!!!!

増田健史

5月 22, 2010 at 07:55 午前 |

理性の落ち着きのなさ

ハーバード大学のマイケル・サンデル教授(Michael Sandel)が人気講義(Justice )の第一回で言っているように、さまざまな倫理的な判断の背景を問うことには、二つのリスクが伴う。

すなわち、個人的なリスクと、政治的なリスクである。

個人的なリスクとは、自分が今まで当たり前だと思っていたことの前提が揺らぐということである。

政治的なリスクとは、社会の中での地位を築いたり、有益なことを成し遂げたりといった意味での実際的な意義を失うことである。

当たり前だと思っていた倫理的判断の基礎が、曖昧で不確かなものでしかないと気付いた時、私たちの内面に、驚くべき変化が生まれる。

サンデル教授の言うThe restlessness of reason(「理性の落ち着きのなさ」)が、私たちの中に生み出されるのである。

「理性の落ち着きのなさ」は、私たちが見る世界を流動化させるだけではない。私自身の存在をもまた、流動化させる。

それは、ジェット・コースターに乗ったような目眩のする経験かもしれないが、同時に、かけがえのない贈りものでもある。

すべての学問は、実に、この「理性の落ち着きのなさ」を生み出し、構造化し、再び流動化するための手続きだと言っても良いのだ。


マイケル・サンデル教授

(Justiceは、『ハーバード白熱教室』として、NHKで放送中)

5月 22, 2010 at 07:48 午前 |

2010/05/21

朝日カルチャーセンター 

脳とこころを考える 全三回

本日第二回!

朝日カルチャーセンター新宿教室

2010年5月21日(金) 18時30分〜20時30分

詳細

5月 21, 2010 at 07:44 午前 |

電子書籍についてのあり得るシナリオ

アマゾン・キンドル、iPad、ソニー・リーダーなどの登場によって、電子書籍市場が盛り上がりを見せている。

日本市場では先行発売の形になったアマゾン・キンドルを買い、現時点では50冊くらいの英語の本を入れて読んでいる私自身の経験からすれば、電子書籍への移行は必然だと思う。

たとえば、次のようなこと。私は、同時並列的に複数の本を読むことが多い。従来、紙の本だと、読みさしのものをどこに置いたかわからなくなって、「読みたい」という時にすぐに見つからず、フラストレーションがたまっていた。

自分の脳が、ある特定の本をいつ「読みたい」と思うかわからない。その時に、すぐに読めるというタイム・ラグのなさが、電子書籍の圧倒的に優位な点である。

また、夏目漱石全集、シェークスピア全集、小林秀雄全集などの全集ものも、電子書籍ならば出しやすいし、読みやすい。そのうち、著作権が切れたテクストを集めて、明治傑作小説100選のような企画も成立するだろう。

単に従来の本が移行してくるだけでなく、全く新しい形態の本も出てくるだろう。この点においては、カラーの液晶画面を持っているiPadのポテンシャルが高い。たとえば、Alice in Wonderland for the iPadを見よ。

動画や音声を使った新しい形態の電子書籍の登場は必然だが、その時にもテクストの重要性と卓越は変わらないだろう。

むしろ、磨き上げられた、内容の濃いテクストこそが、新時代の電子書籍のバックボーンになると思われる。

ところで、最近日本の出版関係者と会うと、電子書籍の話題で持ちきりになる。

「黒船到来」という文脈で語られることが多いが、逆に言えば日本の出版社にとってのチャンスだと思う。電子書籍になれば、流通が世界的なものになる。発想を変えて、ピンチをチャンスとして、世界市場を狙えば良いと思う。とりわけ、マンガについては、すでに海外市場で広く受け入れられており、海外に出すメリットが多い。集英社の少年ジャンプが、日本で発売と同時に、あるいは時をおかずに世界的に電子書籍として流通する時代は、それほど遠くはないだろう。

また、英語ベースの書籍を日本発で発売するチャンスも増大するはずである。私個人としては、この潮流に加担したいと考えている。東京が、英語ベースの世界文化の一つの中心となる将来を構想する。

電子出版についての日本の出版社の様子を見ていると、その流れに全体重をかけられないというためらいが見られる。紙の本を出してきた経緯から、流通や書店に対して遠慮が見られるのである。

このため、電子書籍に関するあり得るシナリオとして、全くの異業種からの参入が起こり、しがらみのなさを活かして一気に大きなマーケットを占めてしまうということが現実的なものとなるだろう。逆に、既存の出版社は、異業種参入による電子書籍マーケットの喪失のリスクを考えれば、より積極的な電子書籍に関する経営方針を採用せざるを得ない状況になるはずである。

紙の本から電子書籍への移行期においては、紙の本は依然として重要な収入源であり続ける。このため、紙の本を一切なくしてしまうという方針ではなく、むしろ、電子書籍の登場によって開かれる新しい市場(上に挙げた巨大な「全集」ものなど)に着目するのが正しい経営判断となる。

5月 21, 2010 at 07:18 午前 |

増田健史さんからのメール

先日、打ち上げの時に来た筑摩書房の増田健史氏(たけちゃんマン)からメールが来た。

たけちゃん、ありがとう。

自由の本、ちゃんと書くよ。英語が先になるかもしれないけど。ぼくも、たけちゃんと会えて話せてよかったです。

From: 増田
To: "'Ken Mogi'"
Subject: 大事な追伸付き(ちくま増田)
Date: Thu, 20 May 2010


茂木さま

昨晩は、楽しい席にお招きいただき、ありがとうございました。
久しぶりにお話しすることができ、嬉しかったです。

昨日とりわけ印象的だったのは、私の(いま日本は、総体的にみれば——それは、あまりに遅々たる歩みだし、ある観点からみれば鈍くさくて仕方のないものかもしれないけれど——いい方向に向かっているのではないかという)オプティミスティックな現状認識に対して、それが仮に正当な見立てであったとしても、「もう、それじゃあ遅すぎるんだ」とする茂木さんの切迫した認識でした。
これに関しては、僕も冷静にかえりみて、茂木さんの言うとおりなんだろうな、と。自分のぬるま湯的な漸進主義は、ぬるすぎだろう——こう考えを改めざるをえません。
やっぱり、僕みたいなサラリーマンないし官僚的心性に根差した発想なんですよね、
あらゆる「漸進主義」は。もちろんそれが妥当な場面もたくさんあるはずだけれど、いまは、もうそんな悠長に構えていられる時期ではないのでしょうね、いろいろ。

もうひとつ、みなさんの話を傍で聞いていて感じたのは、茂木さんには例の「自由論/自由意志論」をまとめる時間が、本当に、圧倒的な事実として本当にないんだな、ということ。
むろん、前からそうは思っていましたが、より一層リアルに感じました。
正直、昨晩は心がくじけ、私が茂木さんの本格的な論稿を一書にまとめられる機会はもう一度あるのか、と落ち込んでしまいました。
しかし、こればかりは、じっくりと粘り強くやるほか仕方ありません。
まだまだ、僕は諦めませんので、引き続きお付き合いくださいませ。

いちおう言っておくと、対「世間」なんて文脈から一番遠いところで、僕は茂木さんのことが、茂木さんの書くものが好きなんですよ。
つらい仕事ですよ、それは。
でも今度は、他の何よりもこのことに力を注ぐ気持ちになっていただけたらいいな、と祈っています。
本当に心から。

すでに酔っ払っていて支離滅裂ですね。
まあ、いいや、そのまま送信させていただきます。
どうか、ずっとお元気で!


株式会社 筑摩書房 編集局 第2編集室
増田 健史


増田健史氏。大場旦、茂木健一郎と。2004年12月


増田健史氏。塩谷賢と。2006年12月。


増田健史氏。 2008年10月


増田健史氏。2009年8月


増田健史氏。2009年12月

5月 21, 2010 at 06:56 午前 |

2010/05/20

Remembering Shusaku Arakawa

Remembering Shusaku Arakawa

荒川修作さんを偲んで。

The Qualia Journal

20th May 2010

http://qualiajournal.blogspot.com/

5月 20, 2010 at 08:21 午前 |

 自分の身体性の有限を引き受ける覚悟さえあれば、確率は私たちを解放してくれる。

 たとえば、あなたが、ガンの告知を受け、「五年後生存している確率は、10%です」と言われたとしよう。
 
 科学的に扱うことのできる「統計的真理」としては、それ以上のデータは得られないかもしれない。量子力学の「ダブル・スリット」の実験において、電子が二つのスリットのうちどちらを通過するか、確率的な記述が与えられることのすべてであるように、多くの場合、私たちは「統計的真理」以外の知識を得られない。

 しかし、患者本人にとっては、5年後に「10%生きていて、90%死んでいる」という状態はあり得ない。5年後には「生きている」か「死んでいる」かのどちらである。「10%生存している」というのは、たくさんの患者を集めてきた時の「アンサンブル」の性質に過ぎない。

 統計的手法には致命的な限界があるが、一方で、生の行く末が「確率」で表されるということの中には、私たちを救済する側面もある。

 早い話が、確率が100%でない限り、必ずそうなるという保証はない。逆に確率が0%でない限り、絶対に無理ということもない。

 人間がある行動に投企するということの中には、必ず、確率を超えた意味合いがある。

 ある企ての成功率が10%だと言われたとしても、その実現に向けて全力投球している人にとっては、その数字自体は意味がない。ただ、目の前のことを一生懸命やるだけである。「成功率10%」だからといって、「全力投球の10%」で手加減してやるということにはならない。

 英語には、against all oddsという表現がある。一般に、確率は、私たちが生きているこの世界についての知識を与え、私たちの企てに対する拘束条件を与えるけれども、私たちが自分を投企する時のエネルギーの噴出を制限するものではない。

 たとえ、確率が10%でも、1%でも、あるいは0.1%でも、ある企てに全力投球をすることは妨げられていない。その時、確率はアンサンブルの論理を通して個人を突き放す「冷たい論理」ではなく、むしろ存在の噴火を後押しする「熱い論理」となる。
 
 自分の身体性の有限を引き受ける覚悟さえあれば、確率は私たちを解放してくれるのだ。

5月 20, 2010 at 07:45 午前 |

2010/05/19

6月22日 アエラビジネスセミナー 

from my tweets

http://twitter.com/kenichiromogi

6月22日 アエラビジネスセミナー 
偶有性の時代に創造的に対処するノウハウを探ります。

http://www.aera-net.jp/bizseminar/ 

5月 19, 2010 at 11:19 午前 |

脳のトリセツ 政治とは「いざ鎌倉」である

週刊ポスト 2010年5月 28日号

脳のトリセツ 第42回 政治とは「いざ鎌倉」である

誰もが普段から政治に密着する必要などない。しかし、「これぞ」という時には「覚悟」と「貢献」が必要だ。

抜粋

 ところで、国会議員になることには興味がないと言っても、政治に一切関心がないとうことではない。一国の政策がどのようなものになるかということは、私たち自身はもちろん、私たちの子どもたちの幸福にも深くかかわる事柄。「私には関係ない」と、放っておいて良いはずがない。
 政治との距離感は難しい。選挙の際に、投票に行くのはもちろんのこと。どうやって、政治にコミットするか。自分の人生を一生懸命追いながら、いかに有権者としての義務を果たすか。
 自分に関する限り、政治との関わりは「いざ鎌倉」で良いと思っている。
 謡曲『鉢の木』。鎌倉幕府の高官が、地方の名もない武士の家を訪ねる。せめてものおもてなしをと、大切にしていた鉢の木を切って燃やし、客を饗応する。問わず語りに、今はこのように落ちぶれていますが、万が一何かが起こり、「いざ鎌倉」という時には、必ず駆けつけますと誓う。
 言葉に違わず、政変が起こった時に、武士は鎌倉に馳せ参じる。高官は、あの時の約束に嘘はなかったと、褒賞をとらせる。人間としてどう生きるか、一つの「倫理」の物語である。
 政治とは、つまりは「いざ鎌倉」ではないか。ある国の歴史には、「これぞ」という転換点がある。その時こそ、政治の素人だろうが何だろうが、貢献しなければならない。
 日本の歴史を見れば、「いざ鎌倉」の機会が何度か訪れた。たとえば、幕末から明治維新にかけて。坂本龍馬をはじめとする多くの志士が、「この時ぞ」と尽力した。あるいは、戦争に負けて、マッカーサーが乗り込み、新しい憲法が作られようとした時。白洲次郎は、自らの能力の限りをもって、日本のために尽くした。


全文は「週刊ポスト」でお読み下さい。

http://www.weeklypost.com/100528jp/index.html

イラスト ふなびきかずこ

5月 19, 2010 at 07:56 午前 |

『文明の星時間』 トリニティの庭

サンデー毎日連載

茂木健一郎  
『文明の星時間』 第114回  トリニティの庭

サンデー毎日 2010年5月30日号

http://mainichi.jp/enta/book/sunday/ 

抜粋

 フェローと、そのゲストだけがその上を歩くことができる芝生。青々と、見とれるほど綺麗に整えられている。歴史を感じさせる建物の壁に、ウィステリアの紫の美しい花が映える。枝振りや、根元のあたりの風情など、何とも言えない味わいがある。
 生け垣の木々は青々と茂り、それでいて幾何学的な秩序を保っている。いや、単なる幾何学ではない。少なくとも、単純なそれではない。
 放っておけば、植物たちはどんどん繁茂してしまう。一方、人間はその植物の生命力を整え、導こうとする。庭を整えることは、文明が進んだ今日においても、きわめて「労働集約的」な営みである。トリニティの庭もまた、不断の努力があって初めてその美しさが保たれている。
 植物たちが持っている、どんな制約でもそれを超えてしまう生命力と、そこに加えられる人間たちの工夫と作用と。植物と人間の「せめぎ合い」の結果生み出された景観の、何と麗しいことか。
 なぜ、今まで気付かなかったのだろう。ニュートンがプリズムを使って「光学」の実験をしたという部屋。カレッジに広大な敷地を提供したというヘンリー八世の肖像画。インドからケンブリッジにやってきた不世出の天才数学者、ラマヌジャンを記念するプレート。そんなきら星のような伝統に目を奪われて、私は今までトリニティの庭を、その植物たちの様子を、きちんと見たことがなかった。

全文は「サンデー毎日」でお読みください。


イラスト 谷山彩子

本連載をまとめた
『偉人たちの脳 文明の星時間』(毎日新聞社)
好評発売中です。

連載をまとめた本の第二弾『文明の星時間』が発売されました!

中也と秀雄/ルターからバッハへ/白洲次郎の眼光/ショルティへの手紙/松阪の一夜/ボーア・アインシュタイン論争/ヒギンズ教授の奇癖/鼻行類と先生/漱石と寅彦/孔子の矜恃/楊貴妃の光/西田学派/ハワイ・マレー沖海戦/「サスケ」の想像力/コジマの献身/八百屋お七/軽蔑されたワイルド/オバマ氏のノーベル平和賞/キャピタリズム

など、盛りだくさんの内容です。

amazon

5月 19, 2010 at 07:48 午前 |

最大多数の最大幸福

人は「他人のため」と思って行動した方が、エネルギーも出るし、良質の仕事ができる。

若い時は、自分がなんとかなろう、自分が幸せになろう、と思いがちだが、「自分」というのは世界に一人しかいない。だから、一人分のエネルギーしか出ない。

一方、さまざまな人のために、と思えば、もっと多くのエネルギーが出る。不特定多数の人のためにがんばろう、と思えば、限りないエネルギーが引き出される。

もう一つ大切なこと。「自分」がどんな人間かはわかっている。何を好み、何を求めるかもわかっている。だから、自分のために何かをするのは比較的やさしい。

一方、「みんなのために」という場合は、その「みんな」の中には、様々な人がいる。好みも、性格も、年齢も、文化的バックグラウンドも全て違う。だから、「みんなのために」と思って何かをやろうと思えば、そもそも多様な人間の共通点とは何なのか、「普遍的人間」(universal human)とはどのようなものかということを考えなければならない。

ジェレミ・ベンサム(Jeremy Bentham)は、「最大多数の最大幸福」("the greatest good for the greatest number of people")を説いた。この、原理は単純なもののように思われるかもしれない。しかし、ベンサムの功利主義を貫こうとすることは、すなわち、普遍的人間とは何かということを明かにすることになる。原理は単純でも、その遂行は簡単ではない。

アルベルト・アインシュタインは、「ある人の価値は、その人が自分自身からどれくらい解放されているかで決まる」と言った。

自分から解放されるのは難しい。単純に見えるベンサムの原理でさえ、その遂行はきわめて複雑であり、奥深い。

5月 19, 2010 at 07:36 午前 |

2010/05/18

人間の根本的な感情の一つは、「恐怖」である。

 山下洋輔さんとお話していて、思った。人間の根本的な感情の一つは、「恐怖」である。

 生まれた赤ん坊は、おぎゃあおぎゃあと泣く。初めての肺呼吸。しかし、その根底にあるのは、わけのわからない世界に産み落とされてしまったという「恐怖」でもあるのではないか。

 山下さんは、素晴らしい演奏をする。満場の聴衆の前で、ピアノの鍵盤を叩き、音を奏でる。しかし、そのパフォーマンスの背後には、やはり恐怖の感情があるのではないか、と伺ったら、「そうかもしれない」と山下さんは答えた。

 アメリカ人にとって、最悪の社会的状況は、聴衆の前で喋ることだそうである。学会発表での最大の恐怖は、自分がバカだと思われてしまうことである。あるいは、バカだとばれることである。

 恐怖は、ネガティヴな感情のようだが、実は、それは至上のパフォーマンスを引き出す上ではどうしても必要なことなのではないか。人前で自分をさらけ出すことに恐怖も何も感じないような人は、きっと大したことができない。

恐怖の暗黒を乗り越えて、「集中しているけれどもリラックスしている」という「フロー状態」になることができる人だけが、陽光のきらめきに身を包むことができる。

人間の根本的な感情の一つは、「恐怖」である。だから、諸君、大いに恐怖したまえ。恐怖こそが、高みを目指す努力へと君たちを駆り立てることができる。

5月 18, 2010 at 06:58 午前 |

TEDx Tokyo 2010 講演 『科学の恵み』

TEDx Tokyo 2010 講演 『科学の恵み』(The Blessings of Science)が、youtube上で公開されました。


http://www.youtube.com/watch?v=7HU05V9HDHo 

Ken Mogi "The Blessings of Science" (TEDx Tokyo 2010) (in English)

http://www.youtube.com/watch?v=5CcA-ucHKQg 

茂木健一郎『科学の恵み』(TEDx Tokyo) 日本語吹き替え

5月 18, 2010 at 06:44 午前 |

2010/05/17

自らの選択によるシーラカンスも、静かな海で安泰としているわけにはいかなくなって来た

 人生には、偶有性が避けられないと言うと、「でも、静かに、一つの世界で生きるというやり方もあるのではないでしょうか」とおっしゃる方がいる。

 それはそうである。生物の生きる戦略は、さまざま。たとえば、シーラカンスのように、何億年も前から同じような生態学的ニッチを占めてきたと思われる魚もいる。すべての生きものが、偶有性に向き合い、ダイナミックに変化しながら生きなければならないわけではない。

 (正確に言えば、シーラカンスの生活の中にも、思わぬ出来事という意味での偶有性は存在するはずなのであるが。)

 ところが、残念なことに、世界が「グローバル化」するに従って、私たちの生活には必然的に偶有性が伴うようになってきた。いくら、どこか小さな村でかつての老子の理想のように生活したいと思っても、なかなかそうはいかない状況になってきたのである。

 たとえば、直近では、ギリシャの財政危機に端を発した金融不安。ギリシャは、重要な文化の発祥の地であり、とりわけヨーロッパにとっては大きな歴史的意味を持つ国である。

 しかし、今日、ギリシャの人口は日本の約10分の1、経済規模は10分の1以下に過ぎない。本来ならば、ギリシャの財政危機が世界経済に影響を与えるとしても、限定されたものになるはずだった。
 
 ところが、ギリシャはユーロ圏に組み込まれてしまっている。そのため、ギリシャの危機が、世界の主要通貨の一つであるユーロの危機へとつながった。このため、ドル、ユーロ、円、元などの世界主要通貨の間の相互依存関係にも影響を与えて、世界全体が不確実性の中に投げ込まれる結果となった。

 今や、世界のさまざまな要素が、お互いに相互作用で結ばれてしまっている。それは、私たちに多くの恩恵をもたらした一方で、世界のダイナミクスを、本来的に偶有的なものへと変えてしまった。

 自分の回りの「ローカル」な状況を自らコントロールしようとしても、そうはいかない。局所が、別の局所につながり、それがまた次の局所へとつながっていく。「ローカル」だけを見ていたのでは、二つ先、三つ先、四つ先のノードで何が起きているのか、把握できない。「遠く」で起こったことが、回り回って自分の生活に影響を与える。

 グローバル化の世界では、グラフ構造から来る論理的必然として、偶有性が避けられない。つまりは、自らの選択によるシーラカンスも、静かな海で安泰としているわけにはいかなくなって来たのである。

5月 17, 2010 at 07:55 午前 |

2010/05/16

単連結な世界で、英語はリンガ・フランカであり続けるだろう。

TEDx Tokyo  は楽しかった。ぼくは、The blessings of scienceというタイトルで話した。


(講演中の私の写真。TEDx Tokyoのホームページより)

池上高志と、「楽しかったね」と言いながら帰ってきた。英語がベースになると、文脈が変わる。やはり、その言語が育まれてきた関係性の蓄積が違うからではないか。

「この前、トリニティでホラス・バーローと話した時、お兄さんがルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインと知り合いで、ロンドンで開いていた研究会には、アラン・チューリングが来たと言っていたからなあ」と言うと、池上は、「それを言ったら、オレたちは絶対負けということになるじゃないか」と叫んだ。

まあ、実際のところ、科学や哲学については、そうかもしれぬ。

英語には英語の文脈があり、日本語には日本語の文脈がある。本来、どちらにも優劣はない。すべての言語には、その言語にユニークな文脈が付随する。それぞれに、弱さもあり、強さもある。

ただ、一つ状況が違うのは、英語が今日の世界におけるlingua francaになっているということである。

数日前に、英語の方の日記、The Qualia Journalに書いた、 The "operating system" of Japan is most probably out of date.という記事に対して、モントリオール在住のKarl Dubostが興味深いコメントを寄せてくれた。

Thoughtful article. I can understand your frustration. It is always more dynamic to have a multicultural university environment. 



Though I have the feeling that comparing Japan to USA is not fair. USA is an English speaking country, in the current state of the world, they do not have to make efforts to open to the world because… well most people learn English languages for communicating (as we both do right now you Japanese, me French).



It would be more interesting to look at 1) entrance exams and 2) diversity of student population in countries having a minority language (not English, Spanish, French, Arabic, Chinese).



That would give a fair image of the situation for Japan. That said opening is indeed good.

ありがとう、カール!

確かに、日本語だけの問題ではない。もはや、英語以外の言語は、ドイツ語でも、フランス語でも、イタリア語でも、どれもグローバルな文脈を引き受けられないマイノリティ言語である。数多くの話者がいる中国語でもそうである。

ぼくは、ケンブリッジに留学している時、となりの研究室のイギリス人が英語の優位性を鼻にかけていて腹が立ったので、「そのうち、英語よりも中国語の方が重要になるさ!」と言ってやった。彼はしゅんとしていたが、あの時私は冷静ではなかった。

今から考えてみても、今の英語のリンガ・フランカの地位を、中国語に奪われるとは思えない。(そもそも、中国語は多くの人にとって難しすぎる!)

歴史上、リンガ・フランカの地位を占めた言語は変わってきたではないか、という議論があるかもしれない。ギリシャ語、ラテン語、中国語。世界のさまざまな地域で、時代によって、さまざまな言語がリンガ・フランカとなってきた。

そのような歴史を振り返れば、英語もまた、いつかリンガ・フランカの地位からすべり落ちる。そのように考える人もいるかもしれない。しかし、過去の言語の栄枯盛衰と現在の状況は、決定的に異なる。

今は、グローバル化の時代で、世界の文化が、情報的に「単連結」(simply connected)になっている。とりわけインターネットの登場が大きい。世界の文化状況を示す「グラフ」構造が、あらゆるローカル文化を包含する「単連結」なものになるという変化は、世界の歴史上たった一回しか起きない。そして、そのたった一回は起きてしまった。

単連結な世界で、英語はリンガ・フランカであり続けるだろう。世界のさまざまなローカル文化を資本主義そのもののごとく貪欲に吸収しながら。この状況は、異星人でも来て、これまで地球と単連結ではなかった文化との交流が始まらなければ、変わることがないだろう。

だからこそ、私たちは英語に関する言語政策(language policy)の覚悟を決めなければならないのである。

5月 16, 2010 at 09:05 午前 |

2010/05/15

アメリカの大学の入試制度について

 このところ、アメリカの大学の入試制度について、いろいろ面白いことというか、知らなかったことを知るに至った。

 TEDx TokyoをオーガナイズしているPartick Newellから聞いた話は、Harvard大学の入試について。

 東京に住むパトリックの友人は、日本の高校生の志願者をいろいろとインタビューし、ハーバードに合格させる権限を持っているのだという。

 その彼が、残念ながら日本の高校生にはハーバードが求めるような(英語で)自分の考えを述べて、議論できるような人がいなくて、ごく少数しか合格させられないのだと嘆いているのだという。

 そして昨日。TEDx Tokyoの会場で、Azby Brownに会った。金沢工業大学で、田森佳秀の同僚だという。

 AzbyはYale大学の卒業生で、Azbyもまた、日本の志願者をインタビューし、Yaleにレポートを送って合格させる仕事をしている。

 そのAzbyが、日本の高校生の向学心のなさを嘆いていた。

 そもそも、大きな世界を見ようという気概がない。Azbyによると、昨年、中国からは400人がYaleに志願して、200人が合格した。韓国からも200人が志願して、100人が合格した。それに対して、日本からは、そもそも志願者が十数人しかいない状況なのだという。

 Harvard, Yaleは、Times Higer Educationの2009年度大学ランキングで、それぞれ1位と3位の大学である。東京大学は22位。

 私は、Azbyの話を聞いて、「それは、まるで大学2.0みたいだね」と言ったら、「ああ、そうだね」とAzbyは笑った。

 卒業生にインタビューさせるというのは、日本人がたたき込まれている「常識」からすると、心許ない制度のように思われるかもしれない。

 面接者の主観が入ってしまうかもしれない。友人の師弟などの評価に、手心を加えるかもしれない。いろいろなことが「心配」になるだろう。だから、「公正」な入試をするには、日本のように、教室にいっせいに詰め込んでペーパーテストをするのがいいんだ、という考えがあるかもしれない。

 しかし、世界中から優秀な学生を集めるということを実際的な意味で考えれば、TOEFL (Test Of English as a Foreign Language)やScholastic Aptitude Test(Scholastic Aptitude Test)のスコアを参照しつつ、各地にいる卒業生の力を用いる、というのはいかにも賢いやり方である。

 Harvard, Yaleが求める学生像について、卒業生は自分の体験に基づくあるイメージを持っている。愛校心もあるから、ふさわしい人を合格させようと努力するだろう。

 一方、日本の大学、たとえば東京大学は、特に学部学生の入試について、そのやり方を頑なに変えようとしない。

 その結果、入試を通して入ってくる学生は、事実上日本語を母国語とする人に限られる。

 毎年その時期になると、各週刊誌は「東京大学合格者高校別一覧」という記事で賑わう。そのような記事が書かれる前提になっていることは、つまり東大に(学部から)入る学生は、日本人だけだという世界観である。

「東京大学合格者各国別一覧」とか、「今年は中国が台頭、韓国も合格者を大幅に増やす」「まだまだ、負けない英国やアメリカなどの強豪国」などという記事は寡聞にして知らない。

 日本とアメリカの大学の入試制度の違い。ここにも、日本がなぜ「ガラパゴス化」するのか、その理由が見えてくる。日本人は、非常に巧みな「洗脳」によって、自分たちのやり方が唯一の当たり前の方法だと思い込み、思い込まされてきたのだ。

 そろそろ、窓を開けて、さわやかな外の空気を吸うべき時期が来ている。

5月 15, 2010 at 09:27 午前 |

2010/05/14

脳とこころを考える 第一回

朝日カルチャーセンター 

脳とこころを考える 全三回

本日第一回

朝日カルチャーセンター新宿教室

2010年5月14日(金) 18時30分〜20時30分

詳細

5月 14, 2010 at 08:54 午前 |

脳のトリセツ 日本人は「夢遊病者」?

週刊ポスト 2010年5月 21日号

脳のトリセツ 第41回

日本人は「夢遊病者」?

英誌では「何も変わらない日本はあくびを誘う」と酷評…
今こそ日本人の考え方=「マインドセット」を変革せよ。

抜粋


英国の経済誌『エコノミスト』を時折読んでいる。最近ドイツを旅行中に目を通した号は、トップ記事がイギリスの総選挙。続いて、アメリカと中国の間の通貨問題についての考証。さまざまな項目が並ぶ中で、わが日本についての記事もあった。
「日本の負債問題。破滅に向かって歩く夢遊病者」というタイトル。論調は、厳しいものだった。
 曰く、「日本についての情報」は、最近は読む者の「あくび」を誘う。どうせ、何も変わらない。改革の期待を担って登場した民主党政権も迷走している。「明治維新」が再現されるという希望は、泡と消えた。あるアナリストは、自分のレポートから「日本」という言葉を取ってしまった方が、より多くの読者を得るのではないかと考えている……。
 記事の主眼は、深刻化する財政赤字の問題。日本人たちは、お隣の中国の目覚ましい躍進の陰で、目立たないかたちで今程度の生活を維持できれば良いと考えているようだが、そのような希望的観測が満たされるかどうかはわからない。日本は今、夢遊病者のように、破滅に向かって歩いているのかもしれない……。
 散々な内容だったが、昨今の日本の様子を見ていると、厳しいことを言われても仕方がないという気にもなる。そして、日本国民の一人として、何とかしなければという気持ちになるのである。

全文は「週刊ポスト」でお読み下さい。

http://www.weeklypost.com/100521jp/index.html


夢遊病者のように破滅へ。 イラスト ふなびきかずこ

5月 14, 2010 at 08:43 午前 |

『文明の星時間』 ショパンの望郷

サンデー毎日連載

茂木健一郎  
『文明の星時間』 第113回  ショパンの望郷

サンデー毎日 2010年5月23日号

http://mainichi.jp/enta/book/sunday/ 

抜粋

 クラクフ滞在中にふと耳にした一つの言葉が、耳にこだまする。
 「ショパンがヨーロッパで活躍している間、ポーランドは列強に分割され、国として存在していませんでしたから。」
 ドイツやロシアという大国の狭間で、揺れ動いてきたポーランド近代史。分割され、侵入され、踏みにじられ。そのような歴史は、弱肉強食の世界観の下では「脆弱さ」ととらえられがちである。弱いから、十分に自分たちを向上させなかったから、侵略されたのだと。
 しかし、話は逆ではないか。ポーランドの人々のやさしさに触れながら、私はそのようなことを思わずにはいられなかった。そもそも、自分たちの武力を増強して、他国を侵略しようなどとは思わない人たち。他国が攻めてくるからと、守りをガチガチに固めてしまうような、そんな過剰な反応をしない国。そのようなやさしき存在があったとしても、それは良いのではないか。
 むしろ、自分たちを守ったり、他者を攻撃したりというような思考の回路に向かわないからこそ育まれる文化がある。密やかな、強く主張しない、あくまでも繊細なニュアンス。自分や他人の中の弱きものを思いやる心。子どもの時から耳にして親しんでいたショパンのピアノ曲に、新しい意味合いが加わった。
 祖国ポーランドで蜂起が失敗したという知らせを聞いて、『革命のエチュード』を作曲したショパン。メロディーが疾走し、次第に思いが募っていく。この世の限りある生を、自分の身を挺して生きる。バッハにも、モーツァルトにも、ベートーベンにも決して見いだされなかった響き。ショパンの音楽の独創性と、ポーランドという国の受難と情熱が無関係であるとは、私には思えない。

全文は「サンデー毎日」でお読みください。

本連載をまとめた
『偉人たちの脳 文明の星時間』(毎日新聞社)
好評発売中です。

連載をまとめた本の第二弾『文明の星時間』が発売されました!

中也と秀雄/ルターからバッハへ/白洲次郎の眼光/ショルティへの手紙/松阪の一夜/ボーア・アインシュタイン論争/ヒギンズ教授の奇癖/鼻行類と先生/漱石と寅彦/孔子の矜恃/楊貴妃の光/西田学派/ハワイ・マレー沖海戦/「サスケ」の想像力/コジマの献身/八百屋お七/軽蔑されたワイルド/オバマ氏のノーベル平和賞/キャピタリズム

など、盛りだくさんの内容です。

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5月 14, 2010 at 08:42 午前 |

白洲信哉と大切なこと

今日は、白洲信哉と大切なことがあった。寿司屋でいっしょに飲みながら、いろいろ話したよ。

それから、信哉の家にいった。ぼくの大好きな熊谷守一の『喜雨』をかけてくれた。

ありがとう、信哉。明子さんや、千代子さんもいて。人生というものは、実に、味わい深いものだねえ。

5月 14, 2010 at 02:59 午前 |

2010/05/13

野生の英語

内田樹さんが、ブログで、英語について興味深いことを書かれている。

http://blog.tatsuru.com/2010/05/12_1857.php

言語がすぐれて政治的なものであるという認識こそ、日本の英語学習に必要な視点の一つではないだろうか?

「政治的」ということを言い換えれば、自分の人生に英語がどのようにかかわるかを、他者との交渉において設計していくということだろう。

私が日本人の英語学習について提案したいことは、一言、「野生の英語」をやろうぜ、ということに尽きる。

 私は学校英語は得意で、いわゆる「英語学習」も好きだった。英検1級や、国連英検特A級などをとった。TOEFLというのも受けたことがある。

しかし、そのあたりで、いわゆる「検定英語」のような世界から急速に離れてしまった。

今は、TOEICというのが流行りらしい。問題文を見る限り、あまり興味を持てそうもない。

 なぜ、検定英語に興味がないかと言えば、そこで扱われている英語の世界が面白くないからである。

 二十代の前半くらいから、英語というのは、つまり自分の好きなことについて読んだり、考えたりするための道具に過ぎないのであって、それ自体を目的にするものではないと思うようになった。

 だから、Bertrand Russellの思想に興味があれば、その本を読むというだけの話であり、それがたまたま英語で書かれているというだけに過ぎない。

 もともと、ぼくは高校の時にAnne of Green Gables シリーズや、TalkienのThe Lord of the Ringsシリーズを読んで英語力が一気に増したが、これらの本も、英語を学ぶ、というよりはその内容に興味があって読んだのである。

大学に入って頃読んだ、Milton FriedmanのFree to chooseも面白かったな。その思想に全面的に共鳴するかどうかは別として、読んでいてわくわくした。
 
 世の中にある「英語学習教材」が、「英語のための英語」を標榜するがゆえに、その内容が陳腐で無味乾燥なものになっていることを憂える。あれじゃあ、まともな感性をした人は心を惹かれるはずがない。

 音楽評論家の吉田秀和さんが、「いやあ、茂木さん、私が旧制高校でドイツ語をやったときは、初日にABC(アーベーツェー)の文法をやって、その次の日にはニーチェのショーペンハウエル論を読まされたんですよ。野蛮な時代でした」と言われていた。そのような野蛮さこそが今は求められている。

 自分が興味を持ったことに全身でぶつかっていく、野生の英語。

 日本人の英語を、人工的な受験英語、検定英語の世界から解きはなったら、本当に面白いことになるだろう。

5月 13, 2010 at 08:21 午前 |

2010/05/12

イギリス新首相誕生と、「お茶の間の真ん中にあるべきもの」

 ラーメン二郎を「完食」して、その結果、思考能力を奪われたせいか、夜、めずらしく早く眠ってしまった。
 (ラーメン二郎の顛末については、私のツイッターアカウントを参照ください)

http://twitter.com/kenichiromogi 


 午前3時過ぎに目が覚めた。ラップトップで、BBCのネットにつなぐと、イギリスの政局について、生放送を見ることができた。

 ちょうど、保守党と自由民主党の連立協議が大詰めに差し掛かり、劇的な変化が起きるところを、BBCの報道特別番組が時々刻々と報じている。

 ゴードン・ブラウンがダウニング街10番の前に出てきて「辞任」を表明し、そのままジャガーに乗ってバッキンガム宮殿に行く。

 エリザベス女王に辞任を申し出、対抗政党の保守党の党首に組閣を要請するのが適切であると助言する。

 ゴードン・ブラウンは、バッキンガム宮殿を出た後、労働党本部に向かい、スタッフたちに感謝の言葉を述べる。
 
 その頃、ウェストミンスターの国会議事堂では、保守党党首デイヴィド・キャメロンが銀色のジャガーに乗って出発しようとしている。

 キャメロンを乗せた車が、バッキンガム宮殿に向かっていく。

 女王から、組閣を要請されて、それを受諾し、首相になる「kiss hands」と呼ばれる儀式のためである。

 「本当に手にキスをするのか」「いや、これはあくまでも儀礼を表す言葉であり、昔はそうしていたかもしれないけれども、今は握手をするだけである」などとBBCの解説者と、ゲストの国会議員が話している。
 
 エリザベス女王としては、その君臨している間に11人目の首相だそうである。

 キャメロンを乗せた銀色のジャガーが、バッキンガム宮殿に入る。女王の秘書官が迎える。キャメロンが、宮殿内に入っていく。


エリザベス女王から組閣を要請されるキャメロン新首相

 やがて、女王との会見を終えたキャメロンが、姿を表す。「新首相誕生」とのテロップが流れる。ジャガーに乗り込む時に、報道陣から「首相、手を挙げてください」と声が飛ぶ。キャメロンが挙手すると、「ありがとう!」との声が聞こえる。

キャメロンは、ジャガーに乗ってダウニング街10番に向かう。首相官邸前では、すでに新しいスタッフが立って、新首相を迎えようとしている。

やがて、ダウニング街10番にキャメロンの車が着く。政治家として、夢に見たであろう瞬間。キャメロンは、マイクの前に立ち、短いスピーチを表明して、「10」と書かれたイギリスで最も有名な住所のドアの中へと消えていく。

 イギリスの政権交代の瞬間を、生放送で見ることなどそう滅多にある機会ではない。インターネットが発達したからこそ、日本でも見ることができる。

 いや、実に面白かった。私は、すっかり満足して、午前5時頃再び眠りについた。

 起きて、仕事をしようと思った。大画面の液晶テレビが目に入る。違和感を覚えた。

 もはや、「お茶の間」の真ん中にあるものは、従来型のテレビではなく、むしろインターネットにつながったコンピュータなのではないか。

 「放送と通信の融合」と言うけれども、もうすでに、地上派テレビを基本とするテレビの時代は、終わっているのではないか。

 もちろん、放送局がなくなるというわけではない。実際、私がネットにつないで見ていたのは、BBCの生放送だった。

 ただ、地上波のプログラムをただそのまま見ているという時間帯は、確実に激減するだろう。特に、若い世代、時代の変化に敏感な人たちの間において。

 インターネットが成熟して、放送と通信の垣根はなくなり、国境もなくなって、テレビというものの存在も、変質していく。

 お茶の間の真ん中にあるべきものは、何でしょう。

 メディアの変質が100%確信された朝だった。

5月 12, 2010 at 08:24 午前 |

2010/05/11

The "operating system" of Japan is most probably out of date.

The "operating system" of Japan is most probably out of date.

The Qualia Journal

日本という「オペレーティング・システム」は、おそらくは「時代遅れ」となっている。

11th May 2010

http://qualiajournal.blogspot.com/

5月 11, 2010 at 09:04 午前 |

波頭亮さんの研究会に、上杉隆さんが来て、とても面白かった。

波頭亮さんの研究会に、上杉隆さんが来て、とても面白かった。

上杉さんの話を聞きながらツィートして、面白かった返信をリツィートした。以下は、その記録でございます。下から上へと、読んでください。

それにしても、良識ある日本の新聞、テレビの記者たちが、「記者クラブ」という何の合理性も、また法的根拠もない制度に固執しているとは、一夜明けてもぼくには信じられない。

上杉さんが言っていた、「小渕総理は取材を受けると言っていたのに、記者クラブが反対して、首相官邸に物理的に入れなかった」というエピソードは、何度も「本当なのか」と確認したが、現実のこととは思えない。

日本の新聞、テレビの記者は、もともと優秀なはずなのだから、記者クラブという愚かな制度などに固執せずに、記者会見を解放して、自分たちのすぐれた能力で自由競争をする道を、明日からでも選択したら良いのではないかと思う。

世界の中で、日本にしか存在しない特殊な制度に、普遍性も、合理性も、もとよりあるはずがない。

@suzupeng 流行りのクラウドはいかが?常になにかと雲中模索の日本w。 RT @kenichiromogi: 日本という「オペレーティング・システム」の賞味期限が切れてしまったんだ。みんなで、書きかえませんか?

@haripo ソースコード解読できるリテラシィ身につけないと! RT @ajisaitakeoka: 次世代OS「日本」はオープンソースで、多くの志しある方が自由に参加できますRT @kenichiromogi:

@yubitter次世代OS「日本」はオープンソースで、多くの志しある方が自由に参加できますRT @kenichiromogi: 日本という「オペレーティング・システム」の賞味期限が切れてしまったんだ。みんなで、書きかえませんか?

日本という「オペレーティング・システム」の賞味期限が切れてしまったんだ。みんなで、書きかえませんか?

つまりは、日本にはプロのジャーナリストがいないのだと、上杉隆さん。

外国のメディアが東京支局を次々と閉鎖していることが危機的な状況だと、上杉隆さんが強調。

上杉隆さんが記者クラブの閉鎖性について勉強会にて熱弁中。

5月 11, 2010 at 08:21 午前 |

2010/05/10

プリンスエドワード島

プリンスエドワード島 

5月7日間の旅 

募集中。

http://www.jtbsun.com/anne/ 

5月 10, 2010 at 04:00 午後 |

もぐら叩きの立場は案外気楽だが、一つひとつの穴から首を出すもぐらは、大変だ。

人間というものは、一度には一カ所にしかいることはできない。

もぐら叩きの立場は案外気楽だが、一つひとつの穴から首を出すもぐらは、大変だ。

人間として生きる上で一番大切なことは、自分の身体、存在の有限性を認識し、それを引き受けることだろう。

このところの、日本の新聞の普天間基地をめぐる報道を見ていると、そんなことを思わずにはいられない。

鳩山由紀夫さんのこの件をめぐる発言や政策決定が、ベストなものだったとは思わない。

しかし、批判をするだけの新聞各紙が、日本の社会のためによいことをしてきたとも思わない。

ある案が出てきた時に、影響を受ける地元の方々が反対を表明することは、当然のことである。

どのような案を出しても、必ず誰かが影響を受け、負担を強いられる。普天間基地の移転はそのような性質の問題である。

このような問題について、対案を出さずに、ただ批判するだけの新聞には、共感することはできない。

批判するだけでいいのならば、新聞記者というのはずいぶん気楽な商売だと思う。

自分が鳩山さんの立場にあったら、一体、どのような決定ができるのか。そのようなことを少しでも想像してみれば、記事の文章も自然に変わってくるはずだ。たとえ、批判記事でも、そのようなマインドセットから生み出されたものは、必ず、私たち一人ひとりが自分の有限の人生を受ける上で資する何かを提供してくれると思う。

そうではない、自分たちの立場についての言質を与えない記事は、結局生きることに資さない。それは、せっかくジャーナリズムという理想に燃えて新聞社に入ったはずの記者たちの人生にとっても、同じことであろう。

普天間基地の問題については、具体的な対案を出して、自分たちも批判を受け、有限の立場にあることの痛みを感じさせるような記事を読みたい。

そうでなければ、この件について、もはや日本の新聞の記事を読みたいとは思わない。

5月 10, 2010 at 07:36 午前 |

2010/05/09

「ああ、転んじまった!」

先週、イギリスから帰って来た翌日、築地の朝日新聞社二階の「アラスカ」にて、本についての打ち合わせをしていた。

途中でトイレに行こうと思って、アラスカを出た。携帯電話をいじりながら、通路をちょこまか走っていた。

携帯を見ながら走っていたのが悪かったのだろう。ちょっとしたことでバランスを崩した。そうして、前のめりに倒れてしまった。

あのような時には、時間の経過がゆっくりになる。おそらく、危機に対応しようとして、脳回路が「分解能」を上げるのだろう。そのようなことを示唆する研究もある(Stetson et al. 2007, Does Time Really Slow Down during a Frightening Event?)

いずれにせよ、「あっ!」と思った時にはもう遅く、床にバン! と膝と手をついた。

携帯電話が勢いよく前方に飛んでいった。

「ああ、転んじまった!」

思わず声が出た。すぐに大勢を立て直して、携帯を拾った。電源が落ちている。少し、接続部分が曲がっているようだ。でも、電源を入れたら、もとに戻った。携帯は、今でも使えている。

どうやら、右膝を一番強く打ったらしく、膝をついたりすると、ある部分が特に痛い。皮膚の下で、何起こっているらしい。

その日の夕方の慶應の授業で、サインを頼まれて膝をついた時思わず「イタイ!」と言ってしまって、学生がぎょっとしていたが、それはこの時の転倒が理由である。

いずれにせよ、勢いよく転んだ割には、大したことはなくて、普通にスタスタ歩いている。「受け身」がうまくできたのだろう。

不思議に思うのは、周囲の人が何のリアクションもなく「シーン」としているのが、居たたまれなく感じることである。あの時、二階通路には十人くらいの人がいた。なぜ、あのような時に、しらーっとされていると恥ずかしいのだろう。

自分自身でも、転んでしまったことが恥ずかしくて、一刻も早くその場を立ち去りたくなる。そんなことはないのに、なぜか、転んでしまったその前の自分は「調子こいて」いたように感じてしまう。

自分の存在というものを、深く反省させられるのである。

猫は、獲物をとろうとして失敗すると恥ずかしいのか、「最初からそんな気持ちはなかったよ」とばかりごまかさそうとするような仕草をする。

ぼくもまた、朝日新聞二階の通路で、猫になった。

5月 9, 2010 at 08:04 午前 |

2010/05/08

宙ぶらりん

 イギリスの総選挙の結果が出そろい、どの政党も絶対多数を占めない「宙ぶらりん議会」(hung parliament)になった。

 その後が、面白い。イギリスは、非成文憲法の国である。日本のように、衆議院の投票で白黒をつけるというわけにはいかない。

 慣習(convention)によると、絶対多数を占める政党がいない場合には、現在の首相(すなわち、労働党のゴードン・ブラウン)が、まずは組閣する権利を持つのだという。

 ところが、保守党のデイヴィド・キャメロン党首は、労働党は第一党の座からすべり落ちたのだから、政権から降りなければならないと主張する。この間の経緯を、イギリスのメディアは、「ブラウン首相は、辞任しろという強い圧力の下に置かれるだろう。」と報じる。

 第二党に転落した労働党と、ニック・クレッグ率いる自由民主党)(liberal democtates)が保守党に対抗して連立政権をつくるということはもちろんあり得る。

 そうして、最後は、エリザベス女王が誰に組閣を要請するか、という判断の問題ともなる。この点については、女王のアドヴァイザーが、いろいろと状況を勘案するらしい。

 サッチャー元首相は、「私は女王のことを尊敬しているから、女王の判断にゆだねる」と発言する。

 単なる「数合わせ」ではなく、関与するそれぞれの人の「判断」が寄与してくるところが、「宙ぶらりん議会」の面白さがある。

 「宙ぶらりん」だからこそ、人間の判断が問われる。そのような状況こそ、ある意味ではイギリス人にふさわしい。

5月 8, 2010 at 10:50 午前 |

2010/05/07

急速なモードの転換

成田に着いたら、暑いので、Tシャツだけになった。飛行機の中から、都内に移動して、人に会う仕事に入るまで、5つの原稿を終わらせて送った。

イギリスにいる間、どちらかと言えばそっちの文脈の方に浸っていたから、急速なモードの転換である。

どんなモードも、永久に続きはしない。そうして、どんなモードへも、すぐに戻ることができる。変化は、不可逆ではない。

いつでも、戻っていく。いつでも入っていく。

そして、グローバルな文脈はいつも「今、ここ」にあり、次第に強まっていく。

ネットで、BBCの総選挙特番が生で見られる時代になった。

http://news.bbc.co.uk/2/shared/election2010/liveevent/ 

5月 7, 2010 at 07:05 午前 |

2010/05/06

思い出すのはテムズの陽光

朝起きて、今日は何をするんだったか、と考える。たくさんのことをしなくては行けない気がして、その水飴の中を泳ぐような時間は、いったいどんな風に経過して行くのだろうと途方に暮れる。

しかし、実際に現場に行くと、「今、ここ」の中に没入する。文脈の中で、自分のやるべきことをして、考えるべきことを考える。感性の流れが、どこに運んで行ってくれるのかを見きわめる。

そうやって、意識の流れの中で、「今、ここ」のことを一生懸命やっているうちに、いつの間にか日が過ぎていってしまう。

ロンドン最後の日。世界記憶力選手権の現チャンピオンであるベン・プリドモアと、過去8回チャンピオンになっているドミニク・オブライエンが一堂に会して、EEGの実験をした。アントニー・ゴームリーなど、YBA(Young British Artists)と呼ばれる芸術家を輩出し、ターナー賞の受賞者もたくさん出ているロンドン大学ゴールドスミス校で、認知神経科学者のリサ・プリングと話した。

そしたら、もうヒースローに向かう時間。火山のご機嫌が今回はそれほど悪くなかったので、無事帰ってくることができた。

私は今、機内でこの文章を書いている。

もうそろそろしたら、シートベルト着用のサインが点灯するはずだ。

そして、地上に降りたら、ワイヤレスでネットにつないで、この日記をアップすることでしょう。

思い出すのはテムズの陽光。ありがとう、イギリス。また来ます。


5月 6, 2010 at 03:43 午後 |

2010/05/05

デレク・パラヴィチーニと出会った瞬間

アダム・オッケルフォード(Adam Ockelford)は、ある時、ケリーという女の子にピアノ・レッスンをしていた。

そうしたら、突然、後ろから小さな男の子がぶつかってきて、アダムとケリーを突き飛ばした。男の子は、ピアノの前に陣取ると、猛然と鍵盤を弾き出した。

弾き方は、無茶苦茶だった。拳で叩いたり、肘打ちしたり、空手チョップをかましたり、あるいは鼻を打ち付けたり。

アダムは、最初は、その男の子が狂っているのだと思った。しかし、そのうち、乱雑に聞こえる音の羅列の中から、一つのメロディーが聞こえてくるのに気付いた。

ミュージカル『エヴィータ』のテーマ、『ドント・クライ・フォー・ミー・アルジェンティーナ』。
男の子の魂は、音楽を求めている。全身で音楽を必要としている。しかし、その表現の仕方がわからない。だから、ただ無茶苦茶に身体をピアノにぶつけている。

男の子は、生まれつき目が見えなかった。

アダムが、デレク・パラヴィチーニ(Derek Paravicini)と出会った瞬間である。


Adam, Derekとピアノの前で。


Adam, Derekとロンドン郊外の木立の中を歩く。

5月 5, 2010 at 02:39 午後 |

2010/05/04

東京ダイナー

留学していた頃、ケンブリッジの街には日本食は一軒もなかった。

それで、月に一回くらいは、ロンドンに来て、オペラを観たり、美術館に行ったりした。

隠れた動機は、カツ丼や、寿司、そばといった懐かしい日本の味だったかもしれない。

何度も御世話になったのが、レスター・スクェアにある「東京ダイナー」。

駅から道を行って、ぐるっと曲がって、細い道を行くと角にある。

その看板を見ると、ほっとする。留学後も、ロンドンに行く度に、東京ダイナーへとふらふら歩いていく。

なぜか、心の底から安心するのだ。昨日も、その変わらぬ看板を見て心がやすらいだ。

ぼくの「聖地」の一つだろう。ロンドンの、東京ダイナー。


5月 4, 2010 at 03:13 午後 |

2010/05/03

不意打ちのアビーロード。

ケンブリッジからロンドンに向かう車の中で、うとうとと眠っていた。最初はがんばって夕暮れの美しい田園風景を見ていようと思っていたのだけれども、何度も通った道だから、つい安心して、いつの間にか意識を失ってしまっていた。

はっと気付くと、車は、美しい住宅街のような場所にいた。一つひとつの家が薄暮の中でも白くて、大きくて、そうして堂々とした風格がある。確かにロンドンなのだろう。しかし、空が広々としている。

ホテルの近くに着いたのかな? とぼんやりしていると、車の前の方の席に座っている人たちが(ぼくたちは全員で8人だった)、「アビーロード」がなんとかかんとかと言っている。

「アビーロード!」

急に目が覚めて、がばっと起きた。

右の方を見ると、見覚えのある横断歩道がある。そうして、何人かの人たちがそこに集っている。二人が飛び出した。歩道の途中で、歩いている途中の格好をする。カメラを持った人が走っていって、パシャと撮る。向こうからバスが来る。慌てて人々がロードサイドに戻る。

ぼくも、自分のデジカメを取り出して、窓越しにパシャパシャ夢中で撮った。

車が走り出す。アビーロードが、世界の中を動いていく。

すべての出会いの中で、最高なものは「不意打ち」だと古来言う。

不意打ちのアビーロードは、魔法の祝祭を持って、ぼくの魂に天上の気配を運んできてくれた。

その時、地上のありふれたものたちがほんの少しだけ軽くなるのだ。ほんの少しだけ。

5月 3, 2010 at 03:26 午後 |

2010/05/02

A venerable society of lunatics.

A venerable society of lunatics.

The Qualia Journal

2nd May 2010

http://qualiajournal.blogspot.com/

5月 2, 2010 at 03:54 午後 |

ケンブリッジのトリニティ・カレッジでホラス・バーローと会う。

ケンブリッジに着いた。

ホラス・バーローが「この時間から家にいる」という時刻にはまだ間があったので、しばらく散策した。

一番最初にケンブリッジに来た時に大好きになった、ジーザス・グリーンの中に立つ巨木の列。

その下に座って、過ぎし日のことを考えた。

時間になったので、電話した。なつかしい、ホラスの声がした。

「やあ、ケン。」

「こんにちは、ホラス。」

「今、どこにいるんだい?」

「もうケンブリッジに着いています。」

「それじゃあ、今から30分後に、トリニティのグレート・ゲートの前で待ち合わせようか?」

ゆっくりと歩いて、トリニティ・カレッジの前まで来た。


トリニティ・カレッジの前のニュートンのりんご


トリニティ・カレッジの門

ニュートンのりんごを見ながら、ぼんやりしていると、門の向こうからホラスが歩いてくるのが見えた。

「ハロー。」

はにかむような、ホラスの笑顔。それを見ると、何とも言えない気持ちになる。
元気そうなので、それだけで安心した。

ホラスは、杖を使っていた。

「だいじょうぶですか?」

「私のひざなんだよ。1947年に、怪我をして医者に診てもらった時、『歩けるようにはしてあげるけど、50歳になるまでは、君の足は立たなくなるよ、と言われたんだけれど』」

「それでは、医者の予言は、すくなくとも40歳くらい間違っていたのですね!」

「ははは。そういうことになるね。」

ホラス・バーローは、1921年生まれ。800の伝統を誇るケンブリッジ大学を構成するさまざまなカレッジの中でも、アイザック・ニュートンや、バートランド・ラッセル、ルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインなど、きら星のような知性を育んだ名門。ノーベル賞受賞者を30名以上出している。

ホラスはチャールズ・ダーウィンのひ孫であり、ウェッジウッド家にもつながる。

グレート・ゲートから入ったところにあるトリニティ・カレッジの中庭は美しい。ため息をつきたくなるほど、繊細で奥深い美に満ちている。

ドアを開けると、ホラスは、「ここに君のバッグを置くといい」と言って、自分自身は杖を置くと、すたすたと階段を登っていってしまった。

トリニティ・カレッジのダイニング・ホール。学生たちが食事をとるテーブルの列があり、フェローとその客たちが食事をとる「ハイ・テーブル」がそれに直交するように置かれている。

「さて、今日は何があるのかな。」

ホラスは、ハイ・テーブルに招いてくれた時は、いつもそうするのだったと思い出した。

「さて、今日は何があるのかな。」

まるで、子どものように、掲示されたメニューを楽しそうに見る。

「トマト・スープ、ミートボール、アスパラガスのオムレツ、それに、幾つかのプディング。君は、ヴェジタリアンですか?」

「いいえ。私は、私の信仰を変えてはいません!」

ハイ・テーブルの横にあるコーナーに歩いていく。
 
ホラスが、トマト・スープを入れた容器の前で止まった。「どうだい。トマト・スープは好きかい?」「ええ、いいですね。」ホラスが、お皿にトマト・スープを入れる。「さあ、どうぞ。」「あなたは飲まないのですか?」「いや、ぼくはいい。」「それでは、ぼくのために。本当にありがとう。」

足が悪いと杖をついていた、今年89歳になる老大家にスープを注いでもらって、心から恐縮する。本当は、私の方が、ホラスにいろいろとしてあげたいのに。

もう十数年前のことになるが、ホラス・バーローが日本に来た時、東京の下宿に泊まってくれたことがあった。部屋が狭くて、ホラスはベッドの上に座った。暑い夏の日で、ホラスは、家に着くなり、「ビールを飲もうか」と言った。

今から思うと、ケンブリッジの環境との余りの違いに、恥ずかしくなる。

それでも、ホラスは、後で、「日本の今の若者がどんな風に生活しているかわかって良かった」と言ってくれたのだった。

テーブルに戻る。

ぼくの前にはスープがある。ホラスの前には、スターターを何もとらないので、パンしかない。「りんごジュースが飲みたいかい?」とホラスが聞く。

「コックスというのは、りんごの品種ですね。」と私が言う。「その通り! ところで、最近面白いことを見つけたんだけど、話そうか。」「ええ、ぜひ!」

「シンプル・セルから、コンプレックス・セルに行くには、階層的ステップをとる、ということは今までもずっと言われていたけれども、その時の、相関関数の取り方には・・・」

ホラスは、ポルトガルに住むイギリス出身の共同研究者と最近やったという視覚心理実験の説明を始めた。

ホラスと食事をする時は、いつもそうである。最初にほんの少しだけ世間話があって、それからいきなり本題に入る。

ホラスは、ランダム・ドット・キネマトグラムを使って、視覚系における階層的計算において、どのような相関関数が使われているかということを明らかにしようとしていた。

それから私たちは、いろいろなことを話した。偶有性のこと、ボディ・イメージ、ラバー・ハンド・イリュージョン、ミラーニューロン、意識とコミュニケーション。

「ホラス、あなたは、常に、意識というものは自分の知識や経験を共有するためにあるのだと主張していて、ニーチェの言葉も引用していますね。」

「そうそう。ニーチェの、ツイッターのような言葉だろう。」

「ツイッター?」

私は、隣りに座ってニコニコしている老大家の口から、いきなりその言葉が出たことに驚いて、思わず聞き直した。

「そう、ツイッター。140文字だっけ? 当時はそんなものがあったわけではないけれども、ニーチェは、ツイッターのような簡潔な言葉で、意識と社会性について話している・・・」

ホラスは、いつもそうだった。年をとっても、全く好奇心を失わないで、コンピュータなども、自分で全部やってしまう。

今、トリニティ・カレッジのウェブページでは、ホラスの論文をpdfで読むことができるが、それも自分で載せたのだという。当然、誰かに手伝ってやってもらったのだろうと思ったら、そんなことまで自分でやってしまう。だから、今年89歳になるというのに、脳が若々しいままに保たれているのだろう。

「ホラス、あなたは、ツイッターをするのですか?!」

「いいや、しないよ。」

ホラスが微笑む。

「ニーチェは、こう言っている。意識というものは、コミュニケーションのネットワークとして進化した。猛獣のように孤独に生きる人間は、意識を必要としなかったろう、と。」

「その言葉は、ヴィットゲンシュタインの私的言語の議論を思い出させますね。」

「ああ、なるほど。」

ホラスが、しばらく黙った。

周囲では、フェローたちが、あるいは一人で、あるいは会話をしながら昼食をとっている。

トリニティ・カレッジの食事はおいしい。しかし、料理がどのようなものであれ、あたかもここに心あらずというような表情で食事を続けることこそが、ここでの流儀である。

「ホラス、あなたは、ルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインを知っていたのですか?」

「いいや。しかし、私の兄は知っていた。」

「本当に!」

「バーミンガムの病院にいた時に、ヴィトゲンシュタインを知っていた。ヴィトゲンシュタインは、あまり社交的な性格ではなかったから、兄がいろいろと、人々の前に引きだそうとしたらしい。みんな、あなたの哲学的見解について聞きたい、と思っていますよ、と。」

「それで、どうなりましたか?」

「うん、つまり、ヴィトゲンシュタインの答えはこうだった。人と人とが話す時には、独白をするのではなく、どのようなことが知りたいか、ということをあらかじめ知った上で言葉を発するのであると。だから、聴衆が何を考えているか知らないのに、勝手に自分で話すことなどできない、だから断るとね!」

「バートランド・ラッセルも、このカレッジのフェローでしたね。」

「そう、そかし、ラッセルは、平和運動をして、カレッジから追放されてしまった。フェローたちの多くは、その処置は不当だと考えていた。後に、カレッジは、ラッセルをフェローに戻したよ。」

メイン、デザートと食事は進んでいく。

「ここに来るたびに、素晴らしい環境だと思います。ホラス、あなたにとっては、日常なのだろうけれども。あなたは、週にどれくらい来るのですか?」

「ほとんど毎日だよ。」

「本当に?」

「だって、これは、無料の昼食だからね!」

隣りの部屋で、コーヒーを飲むことにした。

椅子に座って、話を続ける。話題は、ダーウィンのこととなった。

「ダーウィンのさまざまな書類を、ちゃんと保管できるようにしたのは私の母なんだよ。」

「本当に?」

「彼女は、ダーウィンのひ孫だったからね。でも、当時は、科学者の書類など、保管する意味があるのか、と言われたそうだよ。それに、関係する親戚がたくさんいるので、いろいろと大変だったらしい。」

「チャールズ・ダーウィンのおじいさんのエラスムス・ダーウィンですが、ルーナー・ソサエティというをしていたでしょう。満月の夜に会って、話すというもの。」

「そう、その通り。それは、大変よい考えだった。私も、ロンドンで、一月に一回くらい認識と情報について、話し合う会に出ていたものだよ。一度、アラン・チューリングも来た。」

「川を散歩しよう」とホラスが言った。立ち上がり、トリニティ・カレッジの中庭を歩く。

ホラスが、芝生の上をすたすたと歩いていく。私も歩く。フェロー、ないしはフェローのゲストだけが歩くことができる、とても美しい芝生。

チャペルに入る。ニュートンの像の前で、ホラスに「あなたの写真を撮っても良いか」と聞いたら、ホラスは微笑んで「ああ」と言った。

ホラスが鍵を開けて、「ボウリング・グリーン」に案内してくれた。

「ここで、ボウリングをするんだよ。」とホラス。ここでも、一枚写真を撮った。

二人で並んで、ケム川の流れを見つめた。

元気なホラスだけれども、人間の寿命には限りがある。
いつまでも、健康でいてほしい。
祈るような気持ちになる。


トリニティ・カレッジのチェペル、ニュートンの像の前のホラス・バーロー。


トリニティ・カレッジのボウリング・グリーンの上のホラス・バーロー。

トリニティ・カレッジの裏に停めてあるホラスの車まで送った。

「会えて良かったです。」

握手をして別れた。手を上げて、ホラスは走っていく。

その残像が流れてしまわないうちにと、私は急ぎ再び美しい中庭を通り、街の雑踏の中へと歩いていった。

5月 2, 2010 at 03:03 午後 |

2010/05/01

眠っているところは、自分では撮ることはできない。こりゃあ、理屈だ。

「監督」の笠原裕明さんが、食事をしながらなにやら真剣に考えている。

そのうち、にやにや笑い始めた。

どうしたんだろう、と思ったが、ビールを飲んで忘れてしまった。


真剣に考える笠原裕明カントク。


ニヤニヤする笠原裕明カントク。


そうしたら、いつの間にか、ぼくのカメラでぼくのことを撮っていた。

部屋に帰って、気付いたのである。

さすがカントク。
小津安二郎風のローアングルや、
人の話を聞きながら笑っているところを撮っている。

そうして、ビールで気持ちよくなったうとうとしているところも撮ったいた。

ごめん。時差で、5時に起きちゃったから、眠かったのだ。

自分が眠っているところは、自分では撮ることはできない。こりゃあ、理屈だ。

カントクのたくらみには参りました。


考えた。


笑った。


眠った。

5月 1, 2010 at 03:09 午後 |

水を得たアヒルくん

ノッティンガムのRutland Square Hotelの部屋にいたアヒルくん。

泳ぎたそうだったので、水を入れてあげたら、よろこんでいた。

うれしそうに、泳ぎ回っている。

くわっくわっくわっ。


5月 1, 2010 at 02:56 午後 |