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2010/04/28

日本の新聞

 近頃の学生は、新聞をとらなくなったという。

 確かに、私の周囲でも、新聞の宅配をとっていないという学生が多い。

 インターネットで十分だという人もいる。しかし、私は、新聞の将来を必ずしも悲観していない。

 ネット上のニュースにおいては、クリック数を稼ごうと好奇心をそそる見出しをつけることも多い。その際のクリック数と、ニュース本来の意義の重さは必ずしも一致しない。
 新聞においては、一面のトップに何を持ってくるか、社会面をどのようにレイアウトするかといった紙面つくり自体に「情報」がある。ニュース・ヴァリューに関するこのような情報性は、ネット上のニュースサイトではなかなか得られない。

一方、日本の新聞の現状に問題がないかと言えば、うそになる。

 以前から不思議だと思っているのは、記事を書くのが事実上「社員」の「記者」に限られていることである。だからこそ、記事に「署名」がなくても用が足りると考える。しかし、それが唯一の「常識」ではない。

 暗黙知というのは難しいもので、ある時英字新聞を読んでいて「はっ」と気付いた。むこうの新聞社にもむろん「スタッフ・ライター」はいるだろうが、記事を書くのは「社員」だけではない。新聞は、いわば「場所」なのである。一つの「オープン・システム」。いろいろな人が出入りして、記事を書く。だからこそ、当然、署名がなければならない。

 記事を書く人が社員に限られないことのメリットは、質をめぐる「自由競争」がより広い範囲で行われることである。社員だけでやっていると、どうしても発想の幅が狭くなる。一方、外部に広く人材を求めれば、その中にはアーネスト・ヘミングウェイのような人もいる。

 日本の新聞は、いわば「暗黙知」として社員のみに記事を書かせることを前提にしている。日本ではあまりにも「当たり前」のことなので、それが唯一の考え方ではなく、むしろ世界の「コモン・センス」に照らせば「異常」であることに気付きにくい。このマインドセットは、「正社員」と「非正規雇用」の間の差別や、いわゆる「記者クラブ」の問題など、日本を停滞させていると見なされているいくつかの慣習と連動している。

 閉鎖的風土を改善すれば、日本の新聞はもっとよくなるだろう。

4月 28, 2010 at 08:31 午前 |