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2010/03/25

塩谷賢の『神々の黄昏』

私の親友である塩谷賢から新国立劇場のオペラ、ワグナーの『神々の黄昏』を見た感想が届きました。
大変興味深いので、ご披露いたします。

(原稿用紙にして、20枚あります!)

From: "Ken Shiotani"
To: "Ken Mogi"
Subject: 3月24日 神々の黄昏の感想
Date: Thu, 25 Mar 2010 04:25:44 +0900

to Mogi

今日、「神々の黄昏」、観てきました。
山崎氏は今日来るといっていたが、会うことはありませんでした。
「ジークフリート」のときのように話ができないので、とりあえずの感想、
あくまでも今日見て感じ、コジツケた考えですが、少し書いてみます。

不思議に感じてしまうのですが、このところ、哲学的?な疑問について苦しんでいると、
展覧会や演奏会、オペラでそれに関連したヒントが与えられることが多い。
まあ、実際は、僕の関心の視角のなかでしかモノを捉えられず、十分な多様性というか多義性というか、厚みを持つ作品がそれを横切っている、ということなんでしょうが、感性においては自分を支点として現実を捉えるので、どうにも不思議に思ってしまう。(この実際に、というのは視点のない知性のモデル/欺瞞かもしれない)
今回は、「逸脱」を中心概念として時間の経過と新しさの到来を考える際に出てくる「無/消去/忘却…」というファクターが気になっていた。
それと関係付けて考え始めると、ハーゲンの性格付けと指輪の意味がポイントになる。

第二夜でジークフリートがブリュンヒルデを巻き込んだ「愛」は全ての規定を超え、イマ、ココの絶対性そのものを示す。ブリュンヒルデの思考の中に書き込める愛(の理念)を彼は打ち破った。
このことはジークフリートがグンニグルの槍を、規定の契約の根幹とされるルーネ文字を打ち砕いた「英雄」であることと相即的である。
その性愛は、生殖や快楽や情欲を目的としたものではなく、そこにそのまま行われるという動詞の現在形の絶対であった。情動はその迸りであり、情「欲」として求められるものではなかっただろう。

では、その「愛」について誓うことはできるのだろうか?
次の朝、二人が顔を出す。「愛」の現在は現在なのだろうか?
絶対的なイマココに残滓があるのだろうか?
「黄昏」での二人の愛は「絶対ならざる遂行」になってはいないだろうか?

イマココの絶対の遂行に対して、時間であるかぎりの「過ぎ行き」、ある「無」の陰りが伴ってしまう。
ファウストはそれに抗して「時間よ、止まれ。世界よ、お前は美しい」と言ったのではないか。
しかし時間が止まってどうして「遂行」、動詞の現在形でありうるのか。
この陰りのおかげで「もうない」、「まだある」、つまり恒存性が派生する。
この陰りは、深く関わるが決して否定ではない。正+反—aufheben→合によって捉えられるものではない。
それはあってしまった、という現在完了において射し込む陰りとして示唆されるだろう。
否定はnegativeな現在形として遂行なのである。それゆえこの陰りの指す「無」は存在の無ではない。また完了形で示唆されるといっても過去という存在ではない。陰りは存在の平面に語られたり存在と並べられたりする無ではない。あえて言えば、それは全く違う無という「様式」なのである

ハーゲンは二重の性格をもつ。それが遂行としての否定と完了としての陰りなのである。
はじめにギービヒ城での計画を語るハーゲン、二幕途中から(見張り歌あたりから)最後までのハーゲンは「英雄」ジークフリートの否定、ある射影面(伝統・保守・常識…絶対ならざる遂行の世界)でのネガとして働く。
しかし、第一幕の岩山でのブリュンヒルデの陵辱から第二幕導入のアルベリヒ殺しまでの椅子に座ったハーゲンは陰りであり、遂行、現在進行形に「差異化している」(適当な自動詞がないので困る)。その派生として、現在進行形は物語として時間的に差異化された構造をとるように差異化してくる。両者は作用しあうのではない。作用しあえるのは進行形のpositiveとnegativeの両極なのだ。
その両極は幕の推移を挟んで示される。positiveのジークフリートとnegativeのアルベリヒである。
ジークフリートはヴォータン=光のアルベリヒの権力を奪取し、受け継いだのだ。
ハーゲンはそれとは異なる「様式」としての「動かざる動詞」なのである。そして否定との深い関係、存在や記号にに依拠してつい混同してしまうことがアルベリヒの「息子」であり、「眠っているのか?」なのである。
ハーゲンがこの混同を打ち消すようにアルベリヒを殺すとき、それは「陰り」が現在形を常に脅かし、屈服させることを示すとともに、陰りが過去として否定に隠されることでもある。ハーゲンは殺しにより否定となり、劇中の「絶対ならざる遂行」へと再び参加してゆくのである。 

ジークフリートがヴォータンの権力を受け継いだことは、既にジークフリートが「絶対ならざる遂行」に染まっていることを示す。
第一幕の様々な誓いをなすことは、絶対の遂行、絶対の逸脱、絶対の新しさとしての「英雄」からの逸脱である。絶対ならざるからこそ、それらは相克し、矛盾し、好もしくなく見える。相克し矛盾するのは時間の自然なのだ。それが悪く見えることは「陰り」という用語を僕が使ってしまうという我々の心性なのだ。
名と誓い、記号と契約に基づいた相克があることが、それを記号と契約としているところで生きていることが問題なのだ。ブリュンヒルデは絶対的遂行たる「愛」から自らを「絶対ならざる遂行」としての愛へと移行させた自らの愛の誓いを、その移行が生じさせた他の「絶対ならざる遂行」によって。

ハーゲンの忘却の薬のなせる業か?忘却とはなにか?それは制約の解除であれば新たなるもの、更なる創造に必要なものなのだ。だからジークフリートはグートルーネを愛したし、グンターと義兄弟となれた。忘れなければよかったのではない。忘却・消失は、介入・逸脱・創造としての時間の進行には不可欠なものなのだ。存続・継続・未来・過去ではなく、絶対の現在であり続けることが問題だったのだ。時間の進行に常に伴うある「無」の陰りを、ある意味で「時間」を超克することが「愛」に課されていたのだ。

ジークフリートはノートゥングに問いかける。「俺の求愛は作法に適っていただろうか?」。
どうしてノートゥングは応えることができようか。その刃でルーン=規定・契約の根幹を砕いたのであれば。
どうして関わることができようか?「絶対の現在」へ向かう力である剣が、「絶対ならざる遂行」へ向かう道標として。(帰還してグートルーネからの傘を得たあとジークフリートは死の前の独白での1回以外はノートゥングに触れることはなかった)

ヴォータンとアルベリヒ、二人のいわゆる至高者もまた「絶対的遂行」を夢見ながら「絶対ならざる遂行」にしか生きられないのだ。だからふたりとも「光と闇のアルベリヒ=小人」なのだ。

そうすると指輪の意味がこの絶対的遂行、絶対の動態性、「愛」に課された課題と関わるものと考えられてくる。「愛を諦めたものだけが指輪を手に入れられる」とは「愛」は指輪を必要としない、ということだ。逆にいえば指輪は「無」の陰りを、「時間」を超克した絶対の遂行の物象化としての指標、絶対の遂行の存続化の指標ではないか?全てを、全時間の存続の長さ=永劫にわたって絶対の遂行の現在とすること。これは至上の富、至高の力、究極の到達点であろう。だが、イデア界や永遠の真理、超時間性などの空間イメージやそれに根ざす概念によって、時間の超克がなされるのではない。時間は時間として自らを超克し、絶対の遂行がやはり遂行・時間であることのでなければならない。このこと自体が(概念的には)相克する。
この相克が指輪の呪いの本体ではないだろうか。なぜなら、陰りのない現在であるためには、消失が現在になればよいからである。無の「無」は普通は考えられない。
「愛」と「死」。「愛」に課された時間の超克の課題は「死」によって一応は解かれる。だがこれは自己超克的でも創造的でもない。イマココのココを失うという形での処理である。時間と空間は切り離せないなら、この解答は落第であり、だからこそ呪いなのである。普通の考えのままでいることが僕には呪いの一部に見える。
(死ぬことそのものは他の文脈、他の逸脱でもありうるので、死だから呪いだ、というのでは常識的な意味しか付与できないだろう)。
つまり指輪は時間性の出した時間における時間の超克という内部観測的な?問いであり、ある意味で閉鎖化する(概念的な自己相克という閉ループ)。だからGoldそのものでなくRingなのだ。

指輪のアポリア、それがまた契約・記号の再帰性と有効性を導く。槍のルーンは砕けたのに、誓いの効力は生きている。折れた槍の穂先(=トネリコの幹)に乗って時間を進んでいるように見えるブリュンヒルデの小屋が、その穂先がさらに砕かれたときに陵辱が起こり、悲劇へとなだれ込む。なにがさらに砕いたのか?

「絶対ならざる遂行」は絶対的遂行以上に過剰な要求をする。それは時間の超克を己の、名誉/純愛/権力といったものの存続の形で要求する。指輪の課題以上の要求である。それゆえブリュンヒルデは「この裏切りは世界中の血でも償えない」と指輪以上の要求をする。
なぜ?「絶対の遂行・絶対の現在であり続けること」を過去・陰りのシステム化の中でそのまま行おうとするからだ。これが第二幕の状況といっていいだろう。既存の時空イメージ、既存の存在様式の上に過大な要求を皆が重ねていく。相克が起こり、相克として発現するように要求は誓い・契約の形をとる。陰り→否定のシステムの中で、「絶対ならざる遂行」は落第の答え=死へと向かっていく。復讐という形でのみ現れる契約。守るという形は偶然の賜物に過ぎないのではないか?復讐がなされていないから守られているのだ、というのにすぎないのではないか?ウィトゲンシュタイの規則のパラドックスと同型ではないか?
この自己再帰的な契約としての未来、自己否定としてしか自己を成立させない契約が穂先=自らをさらに砕いたのだ。Ringの閉ループの形が共鳴しているのか?

指輪は、時間の進行は、絶対の遂行と陰りという形でしか暗示されず、それとして(an sich)出現することはない、少なくとも内容・資源・思考として/の次元ではないことを示すのではないか?そのかぎりでフロイトの欲望、マルクスの真の労働と同じ配置構造をもつ問題だろうか?ハイデッガーの不安と死に向かう現存在をむしろこの方向で考えたらおもしろいのではなかろうか?第三幕のジークフリートが思い出すことは、正しい認識に立って「愛」を思い出したから重要なのではない。絶対的現在である「愛」を思い出すことは、それを現在の力のに変異させることである。彼が一度断たれた絶対的遂行たる「愛」を続けようとしたことが重要なのだ。陰りを含みこんでしまった現在をさらに陰りを乗り越えさせようとした。だが、はじめから「一」つのものを「保つ」ことは「多」/「他」となってしまったものを現在とする(「一」にするのはその一つのやり方)のでは次元が異なる。彼にそれはできなかった。「英雄」は陰りを知らない。だからこそ「絶対的現在」に触れられたが、絶対的現在を絶対的多・他とともに止揚させるすべを知りはしなかった。幻想と死という形でしか彼はあの「愛」に生きることはできなかったのだ。だから彼の死の音楽はこの形の「亜wE=現在」の力を示している。愛のモチーフと強打が敵対するのではなく調和して強め合っている。なんと朗らかで喜びに充ちた哀しい音楽なのだろうか。彼は「英雄」であるがゆえに、死ななければならなかった。もしかすると「英雄」という規定をするということが、既に先のRingの閉ループへの共鳴となっていたのかもしれない。だとすれば彼は死んだから、初めて「英雄」として捉えなおせたのだ。絶対の現在をいき続けていたならば、ハーゲンが陰りを示していたように、もっと凄まじいもの、この世ならざる恐ろしいものであったかもしれない。(ハフナー?)。(今回の照明には不満足。ジークフリートの歩みとともに明暗のコントラストをもっと強烈にして、白い道と黒い周囲だけにしか見えないようにして欲しかった。)ジークフリートの死後、ブリュンヒルデは同じように「愛」を生きなおすことはできない。彼女は「愛」の「絶対ならざる遂行」への変異態たる愛に留まらざるを得ない。「愛」の残滓を誓い・記憶・言葉・心で飾り付けることしか、「愛」に生きることの模倣と思うものしか行えない。彼女は既にそれに気付いている。(「全てを知り、…全てを諭w揄オ…悟りを得た」といったような字幕があった)。彼女は装飾である愛を死につなげることで、歓喜に浸る。死は彼女に残された唯一つの絶対的遂行、ただし落第生の答え、であるのだから。ヴォータンの不安と焼失の準備も同じ心の産物ではなかろうか。ただヴォータンはより知恵があり、それが落第だということも知っていたろう。三幕後半のブリュンヒルデの感情と力のない交ぜになった告白・連祷は凄いし、感情に訴えかける生々しさは言を俟たない。だが、それで全てか?ブリュンヒルデの愛の力、感情の迸りの激しさ、彼女自身の肉体の燃焼の絶唱が炎ヴァルハラを焼き尽くしたのか?神々の罪とはなにか?ブリュンヒルデに復讐されるような無情な取り決めをしたこと、相克を司ることなのか?むしろ、生きること、絶対の現在を生きようとすること、絶対の遂行、偶然をつむぐことを、誓いや契約、記号で支配できると、契約や理念・意味や名誉は脱/超時間的なものとして存続し永遠に関わることだと偽ったことではないか。時間が介入・逸脱・創造であるなら、契約・法は破れざるを得ない。しかし陰りがあることで、時間を時間的に超克しないかぎり、陰りは「介入・逸脱,し続ける」ことの「破れ」において否定として力を持ち、その一形態が、契約の否定、法の侵犯という見かけをとる。この力を契約・誓約の力として簒奪し、力の行使されない状況を遵守の力と僭称したことが罪ではないのだろうか。すると神々もまた「絶対ならざる遂行」での過大な要求をしていたのである。自己再帰的な契約、自己否定としてしか自己を成立させない契約は自らを砕くことでしか時間に参加できない。そのときがきたから燃え上がったのだ。ここで時間の進行、指輪のアポリアの大本となる時間動態性に二つの比喩があることがきわめて重要である。それは「水の流れ」と「火・炎」だ。火はいつも現在である。それは生成し消滅する。瞬き(「風の谷のナウシカ」7巻にもでてきた)や転変、刹那の生滅のようにそれは純粋に時間的な動態性を示す好例として扱われてきた。精神や霊性、神性といったものにも、例えば照明との繋がりから知性を経由するなどして炎の比喩が使われるし、火の使用は人間を動物から隔てる文化類型として、様々な加工の基本的な機能資源として人間性の根幹である自由とも関わる。ビッグバンやマルチバース、量子論的な生滅にもこのイメージにつながるものがあるだろう。だが、そこにこそ、「時間の純粋な動態性を示す」という言い方・理解にこそ問題がある。そもそもどうして時間が純粋とか時間として焦点を持ち、一つの比喩に主導権があるなどといえるのか?生滅を基礎にするとき、滅において陰りの問題がでてくるのをどう考えるのか。一つの炎しかないならともかく、複数の陰りをもつ炎たちをジークフリートより旨く扱えるのか?それを空間での配置や「新たな地平の拓け」といった拡大でイメージしていることに依拠するのでは、「時間の純粋な動態性」は怪しくなる。また燃料や燃えカス、エントロピーといった資源絡みで考えても、陰りと反復の問題はそのまま出てくる。指輪のアポリア=「時間は時間として自らを超克し、絶対の遂行がやはり遂行・時間であることのでなければならない」。が「概念的に」相克することのなす閉ループ構造と炎の比喩は共鳴してしまうのではないか。だからこそ、焼かれ燃え上がり焼尽することでジークフリート、ブリュンヒルデ、神々は「現在を生き」なばならなかったのではないか。この閉ループを伸ばしたものにおいて陰りとの関係で直線時間での過去・現在・未来、反復,などの時間論の話題が出てくるのは見やすいことだろう。もう一方の「水の流れ」はどうか。行く川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず、とか、同じ川には二度(論者によっては一度も)入れない、などの言があるが、これらの多くは、流れを「見る」視点に立っている。時の流れに押し流されるという言い方もあるが、流れの中にいることからはそれ以上のことはでてこない。押し流される方向や結末は、外の視点の話を継ぎ合わせているのが普通である。そのとき普通の空間、並列、並存のイメージで考えてしまうと陰りとの関わりが直接的でなくなり、結局翳りは時間そのものの様態(例えば時制やA系列)として炎の比喩に廻されがちになる。炎は逆に内部、それ自身の視点で語られることが多い。だからこそ、他や多を自己/概念(この/に「理解」とルビを振りたい)に取り込んだ上での話となって、Ring/閉ループに共鳴してしまう。水の流れは「押し流す」にあるように「他」が、それゆえ「多」が関わっている。閉じられて「多/他」が蒸発してしまうような「無」が陰りに対応するのではないか?だとすると陰りはその由来において、また陰りを時の中において超克することにおいて、「多/他」との関わりで陰りは「無」ではなく何かと関わりうるなにかとして捉えなおすことができるのではないか?水は海、誕生、生成のイメージでもある。「初め水の上に神の霊が漂っていた」が創世記の最初である。また深淵という陰りももつが、それは水の一部でしかない。水の流れの比喩の方向に、時間の、指輪のアポリアに対する新たな道があるかもしれない。だからこそ水、ラインの洪水が黄昏の炎を消し、落第ではあるが一応の解答である火によって「焼かれた指輪を清め」、ラインの底で「太陽のように」輝く。ラインの黄金に戻る/なることで指輪のアポリアは解かれるのかもしれない。このように見ると、Tokyo-Ringの一つの特徴とされるラストの映写のシーンは皮肉に見えてくる。ジークフリート/アルベリヒ(現在形)とハーゲン(完了)の対座の配置で現在形の側にラインの三姉妹、完了の側にノルンの三姉妹が長いすに座っていた。ノルンたちは完了の相の下で内容を繋ぐ多様性を示している。時の動態性ではない。彼女たちは内容の配置にしか手を出せない。陰りのシステムのなかでの自由しかない。ヴォータンと交わったエルダ_、その交わりの娘でジークフリートと交わったブリュンヒルデもそうである。そして映写をする、というラストから観客へと投げかけられるとする「自由」「多様性」も同じ形態をとる。ワーグナーのこの作品自体が、作品であるということにおいてアポリアのうちで足掻くことを示しているのではないか?ニーチェが予言しつつ、本人は触れることもできない新しい種族、そこへの疑似餌であり、パロディであり詐欺師でしかありえない哲学者=ニーチェ自身、そのようなことが知らずして示されてしまう、ということの持つ意味合いを考えてみるのも面白いだろう。またこの足掻きを今生きているこの身体、この(情動・感性的な意味での)心、そこには知性や思考のような閉ループ(オートポイエーシスは思考の側にあるのであって身体の側にあるのではない)ではないかもしれない共鳴のかけらがあるのかもしれない。そこに芸術の凄さがある。まだまだいろいろあるけど、眠くなったのでこの辺で、また近々話をしたいな。Ken

3月 25, 2010 at 08:08 午前 |