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2010/02/22

青年は、全てを知っていた。-オペラ『「忠臣蔵」外伝』-

青年の時に、私は全てを知っていた。

オペラ『「忠臣蔵」外伝』
全二幕八場 改訂初演
作曲 三枝成彰 台本 島田雅彦 

2010年2月21日(日)Bunkamura

 オペラはヨーロッパの伝統から培われてきた文化である。ワグナーやプッチーニ、ヴェルディを聴いていると、いかにもしっくりと様々な要素が絡み合っているような気持ちがする。
 一方、日本語で、日本のことをテーマにしてオペラを創ることは、とても難しい。まずは、メロディーに日本語を乗せることが困難である。ドラマトゥルギーの成り立ちが異なる。「個人」と「社会」、「神」と「愛」といったことについての日本人の観念は、西洋のそれとは時に相容れない。
 しかし、日本で生まれ、日本で作曲家を志した者にとって、最大の野心は、やはり日本らしいオペラを創作するということだろう。それがどんなに難しいことでも、夢はそこに向かわざるを得ない。私自身が作曲家だったとしても、そうする。たとえドンキホーテになってしまったとしても、そうする。
 三枝成彰さんは、まるで菫のように可憐な魂をもった人である。オペラ『「忠臣蔵」外伝』を聴いていて、そう感じた。オーケストレーションが厚いところと、まばらな部分のコントラスト。音符が途切れ途切れになり、かすかな響きになった時に、かえってその人の心の真性が確かに伝わってくるのだということを知る。
 西洋とは時に異質な日本人の心性を描くのに、「忠臣蔵」ほど適した題材はないだろう。仇討ち。そのための長い雌伏。「公」と「私」のせめぎ合い。忠義のために、自分の幸せを犠牲にする。不条理と、倒錯の美。歌舞伎などを通して周知のテーマは、現代の日本人にとって時に異国の事物のように映るが、それでいて、自らの存在の奥深きところに、そんな土壌が確かに育みの時を刻んでいるようにも感じられるのだ。
 私たちが西洋音楽を真の意味で受容するためには、無意識に潜む土壌に投げ込み、分解する作業が必要なのではないか。一つひとつの姿がもはや明らかでなくなるまでに。そのために、感性が空気に慣れて溶ける時間が必要である。『「忠臣蔵」外伝』は、これからも繰り返し上演されなければならないのだ。
 オペラ全体は、ダイアローグを交互に提示する構成になっており、そのミニマルな成り立ちが、不思議なほどのヴァリエーションをもたらす。冒頭、大倉正之助さんが語り起こし、その鼓の音がオーケストラの打楽器に受け継がれていく処理が秀逸。三枝成彰さんは、現代音楽的な作風とメロディアスな進行をうまく融合する。終幕、お艶の感動的なモノローグの後奏をそのままで終わらせず、無機質な大音響を設置して、いわば観客を宙ぶらりんにしたあたりに、そのような資質が表れていた。
 島田雅彦の脚本は、退廃的な気分をうまく処理する。討ち入りという「快挙」の土壌には、生きるということについてのやるせなさがあったのだろう。つまりは人間というものの真実である。異質なものどうしをうまく混ぜ合わせるためには、「文学」が経由されなければならない。
 新しいものは、胸を落ち着かない気分にさせる。甘くて、それでいてどこか苦味が含まれている。春の芽生えのような情緒。Bunkamuraを出て、渋谷の街を歩く。青年は、全てを知っていた。そんな痛切な思いが、胸を去来する。
 芸術は、時を超えて、人を永遠の青春へと引き戻す。
 ありがとう。またいつか。

Ken Mogi 2010. Uncommissioned.

http://www.saegusa-s.co.jp/con100219.html 


2月 22, 2010 at 07:06 午前 |