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2009/08/23

『脳で旅する日本のクオリア』

『脳で旅する日本のクオリア』
好評発売中。

あとがき

茂木健一郎

 こうして、日本のクオリアを巡る旅を振り返った時に浮かび上がってくるのは、日本という小さな島国の中にさえ顕れる、世界の多様性に対する感謝と驚嘆の思いである。
 「日本」は、決してひとまとまりでも、定まったものでもない。日本列島は地理的に海に囲まれ、歴史的にもある程度独立した経緯をたどってきたことは事実である。しかし、日本は決して外界に対して閉ざされてきたのではない。「鎖国」政策をとっていた江戸時代でさえ、日本は閉ざされていなかった。周囲の世界との行き来はあった。
 そもそも、固有のクオリアというものは、閉鎖系ではなく開放系の中にこそ育まれるもの。私たちはついつい「名前」をつけてそれで安心してしまいがちである。「日本」というラベルをつけると、そこに動かしがたい実体があるように思ってしまう。しかし、実際には違う。「日本」は揺れ動き続けている。オリジナリティと影響、感化と受容の関係は微妙で豊かである。私たちが「日本固有」のものと思っていることの多くが、外国からの影響の下に育まれた。逆に、この島国からも、諸外国に多くのものが「贈りもの」として差し出されてきている。
 開かれていてこそ、ある文化圏は豊かに育まれる。一人の人間も同じこと。成長し続けるためには、自分が何ものであるかと決めつけてはいけない。組織や肩書きで人間を評価するなど愚かなこと。脳は本来完成型のない「オープン・エンド」な性質を持っている。私たちは一生学び続けることができるはずである。それにもかかわらず、自らのすばらしい可能性を閉ざしてしまう例が散見されるのは、自分が何ものであるか決めつけて、それで安心してしまうからである。
 「日本のクオリア」も、開かれ続けることで育っていく。自分が生まれ育った文化を愛するのは人間の自然な心情である。やたらと外国かぶれになっても仕方がない。西洋の事物を自分なりに吸収し、解釈しても、本家の人たちはそれほどの感謝をしてくれない。彼が本当に求めているのは、日本人ならではの、独特の世界観と感性に基づく何らかの「贈りもの」であろう。例えば、「寿司」の文化が世界各地でいかに歓迎されているかを見よ。
 しかし、自分たちの歴史や文化に誇りを持つということと、頑なになることとは違う。伝統というものは、それが生きたものである以上、必ず私たち自身の生命の更新プロセスと共鳴しなければならない。生命の本質は、開かれているということである。変化し続けるということである。容易には予想ができない偶有性を抱きしめるということである。そのことさえわかっていれば、「日本のクオリア」を愛することは、決して頑なな拝外主義者への道ではない。
 そもそも、クオリアには、決して言葉では記述しきれない機微がある。たとえば、白神山地の森の風情。あの手つかずの大叢林に包まれた時に胸を去来するものの中には、どんなにそのことを考えても尽くすことのできない不思議な感触があった。
 あるいは、熊本で訪れた「トンカラリン」の遺跡。暗く狭い道を通り、やがて陽光のあふれる外界へと出る。自分が誕生した道筋を再体験し、死と再生を言祝ぐかのような設いのあの場所が、一体誰によってどのような思いでつくられたのか。現代において、そのような場所はあるのか。考え思うほどに、自分の中でざわざわと動き出すものが感じられる。
 クオリアは、その場で記号のように消費され尽くされるものではない。寄り添えば寄り添うほどに、多くの恵みが得られる文脈。自分の生命がゆっくりと育まれる現場。たとえ、もはや変化をせず、永遠に留まりゆくもののように思えても、そこには必ずや私たちの生命の変化を促す契機がある。
 そもそも、私たちの脳の変化はゆっくりとしている。私たちはむろん動物で、ある程度の速さで運動しなければ用が足りない。身体の運動を制御する神経細胞のネットワークも、それなりの速度で作用するように設計されている。
 その一方で、私たちが世界とのかかわりの中から学び、育ち、やがて面目を一変させるそのプロセスは、大変ゆっくりしている。それは、植物が伸びるありさまに似ている。私たちの脳の中の神経細胞どうしをつなぐ「シナプス」と呼ばれる部位がどのように強化され、あるいは減じるか。その変化は、日々の経験が積み上げられ、整理される中で、ゆったりと変化していく。
 自分が愛すべきクオリアを見つけたら、それに寄り添うべきである。そのことで、脳の生理作用のテンポが私たちに恵みをもたらしてくれる。例えば、千利休が創始した茶の湯の芸術性に縁があって感染し、深く心を動かされたとしよう。たとえ、世界全体から見たら茶室の中で起こることは小さく見えたとしても、実際にはそこに無限の奥行きがある。どれほど真剣に寄り添っても、営為努力しても、試行錯誤を重ねたとしても極めることのできない宇宙がそこにある。だからこそ、「道」というものができる。クオリアは、無限の航路の水先案内人に過ぎない。
 見いだせ、愛しめ、そして捧げよ。古の人は、地平線が限られた世界に暮らしていただけにかえって、インターネットの情報の海に翻弄されてあれこれと移り気な現代人よりもよほど、生命ののびしろの本質に通じていた。
 閉ざしてはいけない。「日本のクオリア」を開かれたものとしてとらえることは絶対に必要である。しかし、それは、必ずしも「諸外国との交流を通して」といったお題目においてのみ把握されるべきものではない。たとえ物理的には日本に留まっていたとしても、その限られた空間の中に、無限のヴァリアエーションがあり、成長の余地がある。そもそも、クオリアの空間はこの現実のそれとは独立している。敢えて言えば古代ギリシャのプラトンが言うところの「イデア界」に通じている。だからこそ、日本のクオリアに沈潜する時、私たちはすでに日本という地理的限定を超え始めている。入り口は「日本」にあるかもしれない。しかし、その狭い入り口から達することができるのは、世界よりも私たちの頭の中よりも広い内的宇宙である。
 クオリアを魂の成長のきっかけとすること。旅を続けるうちに私の心の中にあったのは、そのことだけだった。むろんそれは、世界についてあれこれと考える理屈とも無縁ではない。論理と感性は分離していると考えがちだが、理想的な場合に両者は融合する。すぐれた芸術作品は、ロジックと感受性の結婚の奇跡を示す。
 日本のあちらこちらを旅しながら、私は、自分の内側の科学者としての論理と、一生活者としての感性が融合して渾然一体となる奇跡に、何度も立ち会うことになった。その現場での出来事のあれこれが、この一冊の本の中に記録されている。
 クオリアとは不思議なもので、実際にその場所に行かなければ感触が得られない。どれほど情報を集め、写真を見て、映像を眺めても、その空間に包まれてみなければ、立ち上げることができない。
 その場所に立った時、自分の内側にどのようなクオリアが感じられるか。自分という楽器が、どんな調べを奏でるか。魂がどんなふうに共鳴するか。そのような自分のありようを見つめることは、旅をすることの最大のよろこびである。
 クオリアを受容すること。そのことが、旅をすることの最大の意義となる。そして、クオリアと出会うためには、自らの生命が震え、周囲と交感し、それがやがて意識の中で定着されるという一連の過程が必要となる。
 本書は、小学館の雑誌「和樂」に連載された「日本のクオリアを旅する」を中心に、日本のクオリアを巡るさまざまを書き綴った文章を集めたものである。単行本化にあたって、文章の一部を修正、加筆した。
 連載「日本のクオリアを旅する」は、編集者でライターの橋本麻里さんが毎回行き先を選定し、旅程その他をアレンジして下さった。橋本さんの広い知識と鋭い感性、そして何よりも対象に対する深い愛のあるお仕事がなければ、私はここで出会ったものたちに遭遇することはできなかったろう。ここに、橋本さんに心からの感謝を捧げる。
 また、「和樂」掲載にかかわる編集のさまざまは、編集部の渡辺倫明さんにお世話になった。渡辺さんの、いつもにこにこと笑顔を絶やさない姿勢に、どれほど慰められたかわからない。旅先で酒を酌み交わす友人としても、渡辺さんにはとてもお世話になった。本書に挿入された写真家の浅井広美さんによる作品も、渡辺さんのセレクションによるものである。ここに深謝する。
 最後に、本書を手にとって下さった読者の皆様へ。私が訪れた日本各地の現場にいつか皆さんも旅をして、現地に行かねば感じられぬ「クオリア」に向き合う時間の恵みもたれんことを、著者として心から祈念いたします。

2009年5月 東京にて 茂木健一郎

8月 23, 2009 at 08:26 午前 |

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コメント

茂木先生、こちら何度も拝読させていただきました。


言葉の力そのものにクオリアを感じます。この湧き起こる感慨は
暗闇の中、星々をぼんやり見ていたらなんとなく形に見えてきたとき。薄暗い道を抜け広大な自然、或は神聖なものに出会ったときに、内から込み上げてくる何かと似ています。

先生の言葉の中に自然や宇宙の響きがあって。それはそよぐときもあり、激しくグルグルと吹き込んでくるときもあり、ぶわーーっと飛ばされるときもありう~ん先生、若干意味不明で申し訳ないのですが。(´・ω・`)ヾ


何故せんせいの言葉に惹き付けられるのか考えてみました。


毎日お忙しい中ほんたうにありがとうございます! !


先生、本日も素敵な1日となりますように。行ったらっしゃいまし~。(*⌒∀⌒*)ノシ ♪♪♪

投稿: | 2009/08/24 8:23:35

茂木様
是非読んでみたいと思います!

投稿: | 2009/08/24 7:10:12

茂木健一郎さま

おはようございます

昨日は茅ヶ崎の沖磯に
私が釣れたのはメジナでしたが黒鯛を釣った方もいたみたい

お魚釣りを通し、その地へ行く
なんとなく良いな!と

投稿: | 2009/08/24 7:07:02

おはようございます 茂木サン
ようやく 暑さも 和らいできました。
この時期だからこそ 夏の疲れをとり 秋にむけ
体調を 整えて行きましょう。


「日本のクオリア」の あとがき を拝読いたしました。
生き方、考え方、日本人である良さ、世界観、素晴らしい場所のご紹介等。

内容の深さに 茂木サンの これまでの歩んで来られた事の、

茂木サン クオリアが 織り込まれています。

茂木サンの ご尽力に 敬意と 感謝 を お送りします。
ありがとうございます。

早速オススメ 高尾山行きます。 なにかしら 私のクオリア を 感じ、 楽しみたい と思います。


日々の多忙を 作り出しているのも 私自身。
時間的 心のゆとりを 作り、
素敵なクオリア を 感じ受け取れるように

受け取れる幸せ
作り出すのも 自分です。

投稿: | 2009/08/24 6:47:01

この本はとても読み応えがありました。
無意識の中に蓄えられた知識や体験が、
場所やそこで起きた偶有性に刺激され、
次から次にあふれる様が圧巻でした。

私はこの夏、蔵王のカルデラ湖を観光で
訪れましたが、現場ではただただ圧倒されるばかりで
茂木さんのように思考を巡らすようなことは
出来ませんでした。

でもいつか、一旦無意識に吸収された蔵王の景色が、
べつの知識や体験に刺激されてあふれ出る時が
あるのではないかと、この本を読んで思いました。
旅の概念を深めてくれる一冊でした。

投稿: ひみつのあこ | 2009/08/24 1:56:36

 さる、芸術作品を扱う漫画にて、国外に良い土があると知ると、その国へ旅立つ人間国宝や、川で砂金をすくって生計を立てている発展途上国の若者を、紙すきの伝統工芸の後継者として招く、などという話がありました。
 伝統の発展と継承に国境は無いのだと気付かされた体験です。

 僕にも、感染、のような経験がありますね。
 最初は、反発心しか抱かなかった作品に、腐れ縁で付き合っていくうちに、それが自分の一部のように感じる位、染まってしまった事があります。

 予想していたものには殆ど出会えず、予想もしてない事に山ほど出会うのが、旅ってもんですよねぇ…

投稿: cosmosこと岡島義治 | 2009/08/24 0:11:32

茂木さん、Hello♪(^-^)私♪クオリア大好きです♪シナプスも鍛えて行きたいです♪茂木さんの日記♪本♪Tv♪等で♪ところで、茂木さん♪最近♪(笑)SPIRITと言うDVDも買って♪(笑)観ました♪クオリアの世界が少し♪体験出来る野生馬が主人公のアニメーションでした♪(笑)あ〜忙しヒィ〜ン(笑)♪(^3^)それでは茂木さん、また今度です。

投稿: | 2009/08/23 23:58:20

多面的な茂木さんの、稀有に繊細な一面。
そのすばらしさが、隅々にまで漂っています。
 
こんな視点で風景を眺められたら・・・
土地のかたとこんな、心かよわせるお話ができたら・・・

なかなか追体験とはまいりませんが、
ふくよかな気持ちにさせられる一冊です。

八月もあと一週、残暑も含めてお楽しみください。

投稿: | 2009/08/23 16:46:58

茂木先生 こんにちわ

以前 ストーリーを作る必要があって
その時 妙に目に付いた
渦巻きを テーマに お話作りをした事があります。
家の猫の横腹(アメリカン・ショートヘアなので渦巻き模様があります)から始まって
果ては 銀河系へと繋がるのですが

途中 私としては 珍しく
本来なら チョット 苦手系な オウム貝とアンモナイトが 出てきました。
あの2つは トテモ似ています。
オウム貝が 今でも 元気に生きているのに
一方の アンモナイトは 絶滅したと言う・・

何故なのかを 調べたら
オウム貝が 成長するにあたって 外側へ外側へと貝がらを大きくするのに対し
アンモナイトは 内側へ内側へと向かっていった為だと言うような事がわかりました。

外側の世界に対して オープンで居る状態。
傷つけられたり 邪魔されたりする事も 多いと思うけれど
やはり ソレは 自分の中の 流れを良くする事にも似ていて
大切なのですね

投稿: | 2009/08/23 14:36:00

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