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2009/05/07

浮世離れ

 移動しながらライアル・ワトソンの
Gifts of unknown thingsを読み返して
いて、次のところの記述が目に
留まった。

I tried desperately to see some detail in this illumination, some concrete feature that would allow me to identify and classify it, to give a biologically meaningful account of it to my colleagues; but there was none.
I remembered my own exasperation with the incomplete reports of others in similar situations and understood for the first time the difficulty of being an eyewitness to anything really unusual. Objectivity is all very well, but it is possible only when you can describe your experience in terms of standard weights and measures......As a biologist in this situation, I was a total failure; but as a biological system, I continued to function very well......We lack the instruments necessary for recording stimuli of this order, and we seem to have lost the capacity for providing an appropriate response. It would help to be born again, but perhaps all we need to do is redevelop a kind of organic innocence, recapture the receptiveness of childhood and show a willingness to take part in and be filled, or emptied, by whatever it is that happens. I am beginning to believe that there may be no other way to experience, or even begin to explain, certain kinds of reality.
To make sense, you must have sensed.

 いくつかのことを思い出した。

 例えば、高校1年生の時に、
バンフで全天に広がるオーロラを
見て圧倒された時のこと。

 あるいは、南の島で、サンゴ礁
の端まで歩いていってその先を
のぞき込んでみた時のこと。

 ニューカレドニアのウベアという島で、珊瑚礁の端まで歩いていってみたことがある。珊瑚の終わりに立つと、手を伸ばせば届きそうなところに白い珊瑚が赤暗く変色している領域が見えた。そして、そのさらに向こうに、まるで宇宙空間のように深い誘い込むような黒が広がっていた。一般に、外洋の島の珊瑚の外は、すぐに外洋の数千メートルの落ち込みとなっている。私を誘い込んでいたのは、その深淵への水の重なりが呈する黒である。あの時は恐ろしかった。珊瑚の上に乗っかった小さな私の肉体が向き合ったあの黒は、魂を凍えさせた。
 人間が何かを表現する時に向き合わなければならない無限を思う時、私はあの時の黒の恐ろしさを思い出すことがある。言葉を発するということは、すなわち、珊瑚礁の端に立って、外洋の落ち込みをのぞき込むということである。気楽に言葉を使っているうちは良いが、ふと自分の足元を見ると、もはや平静ではいられない。だからこそ、精神的な理由で失語症になる人が時々出る。立っていられないほど恐ろしいが、やはりのぞき込まずにはいられない深淵が、日常何気なく使っている言葉のすぐ横にある。言葉を使うということは、すなわち、深い落ち込みの縁をぐるりと回って生きるということである。

茂木健一郎 『脳のなかの文学』より。 

 人生とは、何かそのような何か
大きなものに出会って、一つの生命体
として必死に向き合う、そのような
プロセスのためにあるのではないか
と思う。

 退屈な人生で、何も特筆すべき
出会いなどない、という
人がいたとしても、少なくとも
自分の死とは向き合う。メメント・モリ。
自分の不在への移行というこの世の
最も巨大にしてパーソナルな事象との
遭遇。

 再びGifts of unknown thingsから。

 I was aware instead of a sense of privilege, the sort of synthesis of honor and awe that I usually associate with proximity to large whales. A feeling almost of exultantion, of a kind of grateful elation that is very close to worship.

 どんな性質のことでも、一生取り組む
ような問題は、やはり巨大な鯨の
ようなもので、全力で走り続けても
とても全貌をつかむことができず、
ただ、その果てしない存在感を
全身で受け止め続けるしかないの
ではないか。
 
 ルターがカトリック教会から
破門され、迫害を逃れてワルトブルク
城に隠れ住んでいたとき、聖書を
ドイツ語に訳すのに使っていた
小部屋には、一つの大きな鯨骨が
あった。

<ルターと鯨骨>

 昼食を終え、レストランを出る。
 ヴァルトブルク城は、歩いてすぐのところにあった。
 白い優美な城壁。塔の上に黄金の十字架が輝いているのが見える。
 私たち専用のガイドがつく。城内を歩きながら、的確な解説を加えてくれる。
 「・・・というわけで、聖エリザベートは、ルター派からも、カトリック教徒からも聖人としてあがめられる、類い希な存在となったのです。」
 「リヒャルト・ワグナーの義理の父親であるフランツ・リストが、このホールの天井を現在のような形に張り替えることを提案したのです。」
 部屋から部屋へと移動していく。中世の人たちの、「高貴なる野蛮さ」を偲ぶよすが。ついつい、『タンホイザー』の歌合戦の場面の音楽が流れてくるかのように錯覚する。しかし、目の前にある城の様子は、優美ではあるが、ワグナーのオペラそもののではない。
 むろん、それは私の仮想の勝手なる思いこみであって、世界文化遺産に登録されているヴァルトブルク城の価値を減じるものではない。現実のすばらしさは、むしろ仮想の予期を破るという点にこそある。旅をして異郷の現実に接した時に、思いもかけぬかたちで自分を不意打ちするものこそが、世界の幅を広げてくれる。
 かつてワグナーの聖地を訪れた時にも、予想もしないかたちで私の心の中に入り込んできたものがあった。

 私が初めてバイロイトを訪れたのは、観光客も少ない冬の盛りだった。小ぢんまりとした街の並木道には冷たい風が舞い、人類は絶滅してしまったかと思うほど、人影がまばらだった。博物館になっているヴァーンフリートの正面のレリーフを眺め、客間のグランドピアノの前に佇んだ。それから、裏庭に回った。そこにワグナーとコジマの墓があると聞いていたからである。
 木立を歩くと、すぐにそれは見つかった。胸を弾ませながら、敬愛する芸術家の墓所に近づいた私を待っていたのは、意外な光景だった。
 仮想の人、ワグナーの墓には、墓碑銘がなかった。名前さえも刻まれていなかったのである。
 遺言で、そのようなことは一切禁じたらしい。ワグナーとコジマの遺体が埋められたその場所の土の上には、一枚の岩板が載せられているだけであった。ワグナーの遺言は、献花も禁じた。それでも、花を捧げる人がいる。私が訪れたその冬の日も、花が捧げられていた。しかし、墓の岩板は、まるで崇拝者の志の花束さえも拒絶しているかのようであった。
 この拒絶の厳しさは、一体何なのだろう、私は、静かな木立に囲まれたその一枚岩を見下ろしながら考えた。明らかに、ここには、何か尋常ではないものがある。あれほど強烈に仮想の世界のリアリティに殉じた人が、その墓に一切のシンボリズムを禁じたのは何故か? そこには、精密に企図された、解き明かされるべき不可解な秘儀があるように思われた。

茂木健一郎『脳と仮想』(新潮社)より

 私にとって、バイロイト訪問の意義とは、すなわち、ワグナーの墓をなしていた岩板であった。
 自分が予期さえしていないもの。そのようなものに出会った時に、私たちは旅することの恵みを知り、無限の感謝の思いを抱く。
 マルティン・ルターは、1521年にヴァルトブルク城にて新訳聖書をドイツ語に訳した。ローマ法王を頂点とするカトリックの秩序に抗する「プロテスタント」の運動における画期的な事件。近代のドイツ語の正書法を確立する上でも決定的な意味をもったルタの偉業は、500年近く経った今でも燦然と輝いている。ルターが圧迫を逃れて隠れ住んだ一年余りの時間は、まさに人類史における「星の時間」である。
 ルターが新約聖書を訳した部屋は、ワルトブルク城の中でも特別な雰囲気を醸し出していた。
 むき出しの木の壁で囲まれた、小さくて質素な空間。机が一つと、椅子が一つ。他には目立つ調度品もない。
 プロテスタントの信者にとって、とりわけ、ドイツのルター派の人々にとっては、この部屋は特別な思いを喚起するらしい。たくさんの人々が訪れ、その様子を目に焼き付けてきた。
 まるでそれらの人の深い思いが自分にも乗り移ったかのようにも感じながら、ルターの部屋の前に立ち尽くしていた。しばらく見ているうちに、椅子のすぐ近くに置かれた異様な形状をした、白い巨大な物体に目が留まった。
 「あれは何ですか?」
と尋ねる。
 「鯨の骨です。」
 「鯨の骨!?」
 これこそ、まさに不意打ち。ルターの部屋に、まさか鯨の骨があるとは思わなかった。鯨ではないかと推定される「怪物」は、聖書の中にも登場する。鯨には、大らかな気配がある。地上最大の生きもの。私たちと同じほ乳類。高度に発達した知性を持ち、子育てをする。そのような、すべての生きものの中でも特別な位置を占める存在。
 当時のカトリックの欺瞞に「抗議」(プロテスト)し、聖書を翻訳することでドイツ語の宇宙にも影響を与えた骨太の知識人、マルティン・ルターと鯨骨。そこには、明確なロジックでは結びつけることのできない、しかし言われてみれば納得されるつながりがあるようにも感じられる。
 「ルターは、鯨の骨を何に使っていたのですか?」
 「どうやら、足をその上に載せて休めていたようです。」
 足置き! 聖書の翻訳作業に没頭しながら、鯨骨に足を載せる「行動する知の巨人」。
 ルターと鯨骨。ヴァルトブルク城で、バイロイトの「ワグナーの墓」に相当する発見をした。
 昼下がり。気温は相変わらず低い。ヴァルトブルク城の土産物屋の外壁に温度計がかかっていた。目盛りを見ると、−10℃を指している。

茂木健一郎『音楽の捧げもの』ールターからバッハへー
 より

東京の雑踏の中を歩いていても、
心はついついオーロラのような、
サンゴ礁の外の大海原のような、
鯨のような世界へと誘われる。

浮世離れしている時間が一番幸せだ。

5月 7, 2009 at 07:15 午前 |

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コメント

昨日から書き込みしている岸辺ななおです。桑原武夫学芸賞受賞おめでとうございます。先生の著作はずいぶん読ませて頂いていますが、限られた時間内に、よくこれだけの著作を著しておられるなあ・・・といつも感心しています。
 最近読んだのは『教養脳を磨く』と『化粧する脳』です。『化粧する脳』の中で顔に化粧することは脳に化粧すること云々・・とありますが、そのとおりだと思います。
 実は私には十歳離れた姉がいます。ところがこの姉は癲癇と水頭症を患っています。記憶は定かではありませんが、私が小学校高学年くらいの頃から姉が癲癇になる様子を見ています。姉が癲癇になるのは決まって朝方四時ごろです。そのときは近くに寝ている私が起きてお医者様に電話したり処置をしたりしていました。
 そんな日々の生活の中で脳に大変な興味を持ち、私自身シャーマニックジャーニイの訓練(アメリカで教えてもらいました。)を続け、またpop(プロセスオリエンテッドサイコロジー)などを勉強しました。その後いろいろなことがわかってきました。姉の脳と家族・親類のさまざまな出来事が関連していることはもちろんのこと、日本や世界の動向ともつながっていることが実体験としてわかってきました。
 脳は一人一人が所有するものではないように思います。いろいろお話したいのですが、また書き込みたいと思います。今日はこの辺で失礼いたします。
  不思議なる 心の扉開かれて 脳内宇宙 無量無限也

投稿: ななお | 2009/05/16 18:23:14

すみません

大正池というつもりで
五色沼って書いてしまった気がします..

違っていたらごめんなさい


投稿: M | 2009/05/11 14:08:10

上高地
子供のころ何度か行くことがありました。

夜はあまり出なかったのか、朝のひんやりした空気の匂いが記憶にのこっています。
焼岳は覚えていなく
五色沼とかをぼんやり..

あの朝の
清浄な空気をたまらなく吸いたいです。


いま読んでみたら、
昨日は変なコメントをしていてすみません。

先生の日記は懐かしいシリーズですね。

昨日こちらから見たお月様は
おぼろで不思議でした..


ひさしぶりにコメントを続けて書いたら、
少し不安定になってしまいました

またたのしみに読みます。

お体にお気をつけて..


投稿: M | 2009/05/11 13:53:51

茂木先生こんにちは。

科学の世界では、
肉体の反応が先に来ると
自由意思はないということになってしまうんですね..

すごく不思議です。

心臓を止めてまた動かしたりは、自分ではできないことなのに。

さいきん目があまりよくなくなって
またすこし回復したときに、
わるかった時には明らかに感じ方が変わっていたのだなと気づきました。

見えなかったり聞こえなかったりする場合はほかの、
皮膚感覚などから情報を得たりするんですね。


きょうはすごい天気ですね、、

横須賀に来てみたら
電車はもう冷房で驚きました。

腕を出した格好の
可憐な外国の女性が向かいに掛けていて、
私も腕を出したいなあ.. と思いました(笑)

まだまだ無理なんですけれども。。

この頃の茂木さんの日記の影響で
子供回帰が起こりました。
むかし感じていたことなどをいろいろ思い出したり..

ファンタが無性に飲みたくなったりします。
飲んだらきっともっと思い出すんでしょうね

さいきんコメントを携帯電話で書いて、
改行の具合がいまいちつかめなく気がかりです。

もし読みづらかったらすみません。


投稿: M | 2009/05/10 15:24:55

えーとルターが訳したのは、新約聖書です。(Not新訳)イエス・キリストによる神と人間との新しい契約ということです。

ところで、本日のWikipediaのトップページにクオリアが取り上げられていたので、少し拾い読みをしたのですが、アウグスティヌスの「神の国」にもクオリアということばがでてくるそうですね。非常に興味深く思いました。

投稿: ぽち | 2009/05/08 23:41:29

 ああ、そう言えば、小学生の時の国語の教科書にこんな鯨がいましたね。

鯨「はい、僕の趣味は腕立て伏せでして。」
 砂浜に上がって、ヒレで腕立て伏せをしている。
 そうやって鍛えたヒレで空を飛ぶのが夢だそうだ。
 砂で作った発射台で加速をつけて、彼は大空へと飛び立ったようだ。

投稿: 岡島 義治 | 2009/05/08 11:14:44

          妄想外 連想   

しりとりゲームの要領で  言の葉 留まることもなく

             浮世を離れ そして戻る   ん


自らの発する言葉は  自らの欲する言葉を聞く

立ち竦む場所は何処  暗ければ明るく 自らの欲する言葉を聞く

  車窓が途切れることもないように 行人の坂も続く

☆ 戻るも行くも、 雅叙園に日傘忘れてどうしよう 思案の外

              

投稿: 一光  | 2009/05/08 7:53:51

茂木先生おはようございます♪


ルターに鯨にオーロラにそして珊瑚礁になんて素敵なのでしょうと想いながら拝読させていただきました。


鯨の骨を足置きにしていたなんて!
高貴なる野蛮さにときめいてしまいます。

先生なら鯨骨どのように愛用されますのかな。(仮想中。。(´・ω・`))


ご著書『脳と仮想』の中のワグナーの墓碑の拒絶のところは何度読みましても、衝撃を受けます。


巨大な鯨、言葉とは。。深く大きく。


先生、それでは本日も健やかにステキな1日をお過ごし下さいませ。☆☆♪d(*⌒〇⌒*)b♪☆☆

投稿: wahine | 2009/05/08 7:36:18

おはようございます。
大きな深い意味を持った日記の内容ですね。うーん、とても難解!
はかない此の世を生きるってことは、肉体と魂と心のバランスで生きることなのかしら。
「星の王子さま」の中で、王子さまが腹をたてて金色の髪を、風にゆすって言いました。
「その先生、花のにおいなんか、吸ったこともないし、星をながめたこともない。だあれも愛したことがなくて、していることと言ったら、寄せ算ばかりだ。そして日がな一日、きみみたいに、いそがしい、いそがしい、と口にしながら、いばりくさってるんだ。そりゃ、ひとじゃなくて、キノコなんだ」
キノコになるのは、イヤだから、大きな空を眺めたり、船に乗って大海原にそよぐ風を感じたり、はかない花を見つめたり・・・
そういう時間を持って、はかない浮き世を生きていこうと思った朝です♪
では、素敵な一日を

投稿: シリンクス | 2009/05/08 7:33:02

こ、これは、いきなり、高度で難解なエントリー。モーツァルトの転調、はたまたバッハの対位法という感じが・・・。

ライアル・ワトソンの本はまだ読んでいなく、ネットで少し検索してみるも、科学的でないとか、どこにでもいるもんですね、ツマラン批判をするのが。

今どき、科学至上主義で何でも説明できると思っている、そっちのほうが危ないんじゃないのか。科学で何でも解決できるのなら、文学も美術も音楽も要らないんだよ。

リアリズム文学だけは認める?そうか。だったら、NATSUME、OE、MURAKAMIを、そっちの言う科学的論法で完全に否定してから出直してきてくれないか。

「この世界のどこにも存在しないものたちを思い描くことなしでは、おそらくは私たちの魂はこの世界の現実に堪えられない。」(『脳と仮想』より。)

私は、こうはっきりと言える人の立場に立つ。

なお、80年代前半までに世界制覇したABBAも次のように歌っているこも付言したい。

I have a dream a fantasy to help me through reality  (”I HAVE A DREAM”by ABBA)

(あんた、結局、ABBAが好きだってことじゃないのか、というツッコミは認めるも、この歌詞は素晴らしいな、と。瞬間風速、『脳と仮想』の世界にタッチしているのではないか、と。)

投稿: 砂山鉄夫 | 2009/05/08 2:11:36

こんにちは

関根勤さんほどではないですが、歩いている時、無意識のうちに何か色々と考えてしまいますね。(^^)


私の場合、エアーiPotを楽しむことが多いです。(^^)

投稿: 妄想のクオリアby片上泰助(^^) | 2009/05/08 1:24:50

茂木健一郎さま

小絵さんの気象解説によりますと、東京の明日も雨とのこと

四国は徳島で以前、釣りの時
東からくる雨雲に
雲はから東だから、あれは、あれ?

しかし一年後に小絵さんの気象解説で
ちようど徳島周辺の解説
雨雲が停滞ぎみ
東から西へと円を描き停滞

という感じの内容で
あ!
だから!東から西に。

小絵さんの気象解説、的確です。

私の物事についての考えかた
浮き世離れ
と申すよりも

浮き世離れとは物事の超越

私は、ふと、そう思います
超越
とても大切なこと超越ということは。

投稿: TOKYO / HIDEKI | 2009/05/07 23:14:26

黄金週間も大方終わって、人々が何時ものように、町に出て独楽鼠さながらに、働き、生きる日々が始まった。

私にとって、この正味4日間は、実に退屈この上ないものであった。土日の外出後、腰をひどく痛め、布団に横になりながら、只管(ひたすら)TVの画面ばかり見つめる日々であった。

独楽鼠のような私達。目の前に降りかかる、様々な出来事、大きな事も、小さな事も、手に触れた瞬間、人生のベクトルがそこで変わる。

へたをすると、珊瑚の海の暗黒へ落ちるような、恐ろしさを味わう時もあり、天上から七色の花が降り注ぐような、喜びの境地に至る時もある…。

21世紀、この地上で生きなくてはならない我等にとって、浮き世はまさに「憂き世」ドコロでなく「乱世」だ。

そんな乱世の憂さを忘れる為に、人間は進化の過程で、また文明が進むに連れ“夢見る=想像する”能力を獲得し、洗練してきたのかもしれない。

そして、生死・運命の問題など、一生かけて考えるべき果てし無い問題について考える力も、獲得していった筈だ。

人間は身体ごと、憂き世を離れて生きては行けぬが、想念ならば、どんなイメージの世界に行ける。

茂木さんは真正面から、ご自分にとっての果てし無い問題に向かって、生涯をかけて挑戦しつづけられていることが、毎日の日記から本当に伝わってくる。仮令浮き世離れであっても、スケールの大きさを感じさせてくれる。

自分の中で、何か一生かけて、受けとめなければならない大きな課題を見つけ、それに立ち向かう。それが無限性を秘めたものであればあるほど、魂の鏡は研ぎ澄まされ、我が「人間」は磨かれる。そのようにとらえてみたい。

死に至るその時まで、人生を虚しく送らないためにも…。ともあれ、さまざまなことを想念することは、この浮き世を生き抜く為の処方箋なのに違いない。

p・s・ ヴァーグナーの墓銘碑に名前がないのは、死すときは無名の存在に戻りたいからだったのか…勝手な想像で申し訳ありません。

投稿: 銀鏡反応 | 2009/05/07 22:11:46

やはり自然は偉大ですね。
大自然を肌で感じる空間に身を置くと、価値観が変わります〜

投稿: acasia | 2009/05/07 21:42:49

茂木ィ先生、おこんばんは~
(・ω・)/今帰りの電車です
今日は休み明けでかなり忙しかったけど、楽しかったです♪
やっぱり苦しいことと楽しいことは比例してるんですねぇ。
てゆうか、今の職場はみんな優しくて雰囲気が明るいので楽しいのです。冗談の言いっこが笑えます。(色々厳しいご時世でありますが)
今日の茂木ィ先生のブログ、素晴らしいですね!
「脳の中の文学」でも珊瑚礁の向こうに数千メートルの深淵が広がっているという箇所、とても印象的でした
茂木ィ先生の本質は「旅人」だと思います。
私が茂木ィ先生素敵だなと思うのは「旅人」でいらっしゃるところと「20キロ?のリュック」と「毛玉セーター」と「底流に流れるドイツ」かなぁ。
友達に説明したら、「わからん」と言われましたが、このブログの読者さんには伝わるのでそれでいいのです。
それでいいのだ。
それでは失礼します(・ω・)/

投稿: 眠り猫2 | 2009/05/07 20:44:15

茂木さん こんにちわ。
今日のクオリアを読んで 深みにはまってしまいました。
生きると言う事は (略)大きなものに向かって・・・(略)と言うところです。

とすると。
花はどうなのか 猫はどうなのか 毎年咲く桜の樹は・・?
疑問を抱く間もなく 上記のものたちなどが 一生を終えるという事なのでしょうか?

何の為に 自分が生かされているのか
わからなかった時があり 今もそれは ほぼ変わらず
ただ 私にとっては 表現すると言う事が生きる事だと言う
確認の行為になっているのかもしれません。

けれど。
本当に寝食を忘れて3日徹夜で書き上げた絵が
初めて評価され 品物として購入者がついたと言う経験上
私にとっては 何の為に生きるかより
生きているから どうするか と言うほうが
大事なことのように 思えます。

何の為に生きるかと言う事は
茂木さんのような 学者の方達
:物事をきちんと分析できる人に 任せるしかないと言うのが 本音なのかもしれません。

こんな結論を 今更のように出すまで
いっとき 呼吸するのを忘れそうになった雨の今日でした

投稿: Rin | 2009/05/07 17:47:33

茂木さんおはようございます。

私も浮世離れ大好きです。
でも、あまりに浮世離れし過ぎると危ないです。
私は常に現実との接点を大きく解放して、現実の中で幸せを感じていく事をあきらめない様にしなきゃです。
でも、そのように空想や体験を再び味わう事で元気とやる気とエネルギーが湧きます。
だって、その空想を実現する事で幸せな”今”となるんですものね!

特筆すべき出会いは少なからずあります。
私の性格としては、もう何でも針小棒大にしがちですからなおさらです!も少しかる~く流しが出来るといいなぁと思います。
茂木さんの恋愛に関する、ちびっ子ギャングさんとのお仕事、
本が楽しみです。

私は茂木さんに可愛いへんちくりんなお土産を買いました。
渡す勇気出るかな????
茂木さんにはどうかしらと思いましたが、なんだかその子を見るとつい笑顔になれるのです。なかなか良さそうでしょ?
でも茂木さん力抜けちゃうかもしれません。

出来れば茂木さんの26日の講義にてお渡しできればなぁと思っています!手乗りサイズですのでご心配なく!
生き物では無いのでご心配なく!
ではでは、今日も素敵な一日であります様に✮⋆✷☆―♫

投稿: 光嶋夏輝 | 2009/05/07 17:31:58

茂木博士の本を拝読しているうち、
『共感覚』の記述に辿り着き、愕然としました。
それは、意識しているか、していないかの差があるだけで、
誰もがいつも経験している当たり前の感覚なのだと
誤認していた私は突然に、だだっ広い宇宙の真ん中に、
ぽつんと取り残されたような心持ちになりました。

周囲の人に肯定的に共感してもらえないのならば、
妥協するか、そこから離れて独りでやり続けるしかない訳で、
どうして自分はいつも、後者を選択するしかできないのか、
そこからさらにディスカッションを重ねて、皆で一緒に
第三の選択肢を見出そうとすることを求めてはいけないのかと、
つい最近も、悶々としていたのですが、
あらゆることの感じ方に、大きな隔たりがあるのだとすれば、
そして、その隔たりが、言語化して共有することが難しい種類の
ものであるのなら、それは致し方のないことなのかもしれません。

ということで、えらいやけっぱちになっていたのですが、
家業の手伝いで山に植林をしておりましたところ、
いろんなことが、いい意味で、どうでもよくなってきました

空は一つで、海も一つ。
地球も一つで、宇宙も一つ。
その先に何があるのかは分かりませんけれど、
きっと、もっと、大きな一つがあるのだろうと、
私は信じています。
目前に広がる黄土に、ただひたすらに、
小さな苗木をしこしこ植えて、どこまで伸びてくれるだろう? 
と、わくわくしながら過ごすのも、悪くないかもしれません。
大きな一つは、そうした小さなものが寄り集まって
形成されているのでしょう。
だからこそ、自分はいつも、自分の感覚に、
素直で在ろうと思いました。

今日また、ちょっぴり、勇気を頂いた気がしております。
そして、アートがアートであることの意義を、
確認できたように思います。
ありがとうございます

長々とすみません。
茂木博士の日記は、浮世と幸せな世界を繋ぐ、
ぼんやりと白い道のようだなと思いました。
きっと今日も、その道を多くの方が散策されるのでしょうね。
皆さまが、心地好い時間を体感されますように。
そしてまた、ご自身の道を、楽しんで歩いていかれますように。

投稿: YUKA | 2009/05/07 15:59:20

息をのむような事態に遭遇することが少なくなりました。
毎日が圧倒の連続であった子供時代にくらべると
穏やかで調えられた部屋にいるようなものです。
そのような状態を切望し
心の調律を求めつづけたのも事実です。
圧倒に代わって、人の心の機微、
身のまわりの小さな生きものの輝きが
留まるようになりました。
それでもやはりオーッという驚きは
街にも、野にも、人にも、本にも、芸術にも。
「閾」ということを思います。
振り幅が小さくなったわけではないと。
「言葉を使うということは、
すなわち、深い落ち込みの縁をぐるりと回って
生きるということである」

投稿: 島唄子 | 2009/05/07 15:57:45

僕は、幼い頃に「くじらはなぜ跳躍するのか」という絵本を
よく読んでいました。

先日こちらでも告知のあった
『ラ・フォル・ジュルネ バッハとヨーロッパ』会場、
東京国際フォーラムは、遠目で見ると、
まるでクジラの骨格のようですね。

バッハの音楽で、自然界の秩序について思いを馳せるなんて
思ってみませんでした。

さらに、ロマンティック(男女の深い繋がり)が
何かを成し遂げたり乗り越えたりする為に、
なにかしら大きな力になっているようだ、
と気付き始めてます…。予想外の展開です。

ラ・フォル・ジュネで見た映画、
タルコフスキー「鏡」のセリフに
「あるのは、現在と光だ」というのがあります。
ほんの少しだけでも未来があれば、光は手に入れられると
僕は思い始めています。

投稿: 木田ひこの | 2009/05/07 12:44:30

> 浮世離れしている時間が一番幸せだ。

同感です。

投稿: take | 2009/05/07 12:10:36

こんにちは。
 私も浮世離れしてる時間が大好きです。それがないと、この世を持ちません。   だんだん、そうしていてもよくなっていくようなのが、幸福に感じられるこの頃です。

投稿: ぶらんか | 2009/05/07 11:25:50

  沢山の美しい自然のすがた
  そして自然の中を歩み・生き
  惑い・感動し・刺激され
  人は優しく、叉立ち止まり
  あらゆるものと融和し・戸惑い
  苦悩を楽しみ、明日にいきるるのでしょうか?

  『脳と仮想』を拝読させて頂いている処です
  クオリア日記、茂木先生「ありがとうございます」

投稿: 岡島妙英 | 2009/05/07 10:50:38

茂木さん、こんにちは。
毎日面白い日記を読ませていただきありがとうございます。


今回の茂木さんの日記の中で、
「しかし、目の前にある城の様子は、優美ではあるが、ワグナーのオペラそもののではない。むろん…」
という文章がありましたが、恐らく「そものの」は打ち間違いではないでしょうか。

投稿: たっきん | 2009/05/07 10:28:04

茂木健一郎様

心、茂木教授は脳とおっしゃいますか、
心の寛さに出逢える生き方をお話くださいまして
ありがとうございます。脳がほんの一部しか使われていないのなら
心と感じていることもほんの一部しか生かされていないのでしょうね。
メメント・モリ しっかり生きます!です。
オーロラと大海原や鯨とごいっしょされておられる
のですね。これからもご活躍を祈っています。


投稿: Yoshiko.T | 2009/05/07 10:01:56

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