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2009/04/24

そんな教えがあったら、信じてもいい

 明治神宮の森を抜けることがある。東京の真ん中にあって、もともとは植林された場所なのに、今は鬱蒼としていて、太古以来ずっと続く何ものかの気配さえ感じさせる。
 その際、楽しみにしている光景がある。両側の木々が繁茂し、それが影を落として、参道の真ん中だけが明るく「光の川」に切り取られるありさま。その「流れ」に沿って歩いていく。
 光の川の中を、子どもたちが真っ直ぐにどこまでも走っていくのを見ることがある。麗しきそのかたちに気づかずに去る人がいる。奥に向かって次第に暗くなっていくその向こうへと、光が流れ込んでいく。川が続いていくその道を歩く度に、何かが自分の中にしみこんでいくような思いがある。
 森の暗がりの中を、何ものかの気配が動いていくのを感じることもある。それが現実なのか、心象風景に過ぎないのか惑いながらも光の川を辿る。そのような時は、大抵は何かやっかいなことを考えていて、周囲を見ているようで見ていないのが実態だけれども、光の川だけは視野に入っている。何かのきっかけがあると感覚が開かれる。目が覚まされる。薄皮がはがれるように、その前よりも世界の消息と少しだけ近しくなる。
 いつの頃からか、光の川が現れる参道が、私にとっての「哲学の道」となっていた。
 ある時、光の川に沿って歩きながら、宗教というものについて考えていた。どんな教義でも、それが具体的な言葉として主張されると、危うくなる。どんなに立派な世界観でも、囚われてしまうことに対する警戒心が、共感する心とせめぎ合う。私が「実行」の問題としては今までのところどんな宗教にも帰依していないには、そのような事情がある。
 それでも、世界の体験の中に慈しむべきものはある。「今、ここ」で私がまさに感じている、木もれ日のその感じ。光の川がどこまでも延びて誘うその風合い。森というものが現にここにある、存在感の頼もしさ。 
 私の命が息づいている。心臓が鼓動し、世界と行き交っている。実在と認識の接合面から匂い立つ、超絶的な感触は確かにある。だから、宗教に関心を持つ人の真摯さを否定することなどできない。受け止めることを、いかにしてすっきりと心のかたちに沿ったものとするか、その回路こそが問われているのだと思う。答えを、私はまだ見いだしていない。
 ある時、いつものように光の川に沿って歩いている時に、一つの思いが私をとらえた。
 教義のない宗教ならば、あるかもしれない。言葉によって表現された「これこれこう」という世界観や倫理観が提示されるのではなく、ただ感じること、開かれること、向き合うことが大切にされる。そのような魂の道筋。
 「今、ここ」で感じていることの確からしさに依拠すること。肝心なことについては「無記」を貫き、敢えて語らないこと。差し出さないこと。そんな教えがあったら、信じてもいいし、人に薦めても良いと思った。
 ひょっとすると現代人にとって「宗教」は案外身近にあるのかもしれない。日常で感じるさまざまな「クオリア」を担保しながら、この世界について考え続けること。科学的知見やロジックに基づき、この世のあり方についてのカモン・センス(常識)を抱きながら、自己や他者の一度限りの生に対して、いきいきとした関心を抱き続けること。
 そのようなごく自然な心の向き合いこそが、現代における「宗教」の理想的なあり方に一番近いのではないか。
 そんな思いがこみ上げてきた頃に明治神宮の参道は終わり、光の川も尽きた。いつの間にか私は、東京という巨大な人工的空間の日常に向かい合っていた。

茂木健一郎
『今、ここからすべての場所へ』 (筑摩書房)より。

4月 24, 2009 at 08:20 午前 |

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受信: 2009/04/24 11:53:26

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 信仰には様々な形態がある。なかには現代人の常識では理解不能な土着の信仰が未だに日本各地に根付いている。 日本では“八百万の神様”というぐらい、いろんな神様、無数の崇拝対象がある。  (ドラゴンクエス... [続きを読む]

受信: 2009/04/25 3:08:52

コメント

 今朝読み終わりました。
 後ろから読んで、途中からもうそろそろ大丈夫かな、と最初に戻って、サンドウィッチにして・・・。
 約5年間の茂木さんの重みがが詰まってたようで、一気に読む本ではないなぁと思いながら、休み休み読みました。この6日間は、読んでしまいたいという思いと、もっと余韻に浸っていたいという思いのせめぎあいでした。
 今朝は珍しく5時ごろからすっきりしていたので、小鳥のさえずりに耳を傾けて読みながら、この本の痕跡が私の中で確かなものになっていくような予感に包まれました。
 03’、04’の文のあとで、うん?と思ったら、やっぱり、08’の文章。
 言葉の出現頻度を解析してここが違う…、と論じることができるのかもしれないけれど、私がつながっていたいのはそこではないかな。
 時々手に取って、気が向いたところを読む、そんな風に付き合っていきたい本。
 観念の中の茂木さんに厚みができたよう…。
 今、スズメが眼の前の窓に軽くぶつかって、まるで、“早く送信しなさい”って言ってるようだから送信します。

投稿: masami | 2009/05/12 9:21:00

 「今、ここからすべての場所へ」

 表紙が決まった時、きれいだな、と思った。この抜粋の周辺の茂木さんの気持ちがもっと知りたくなって、手にとった。
 半ページほど読み進めたところで、すごい混乱の渦に巻き込まれた。あきらめて本を横に置き、何故?と考えてみる。
 これは、ここ半年ほど毎日会っていた友人が突然、5年ほど前の姿で現れ、“よっ”と言った時の混乱のようなものかしら。それも、少年のような友人が・・・。
 その友人は、好奇心の塊のようで、この5年間たくさんの存在と出合い、膨大な量の言葉を紡ぎ続けてきたのだから、その変化はまるで子供のようだったから?
 あるいは、私が勝手に観念上の友人の姿を作り上げてしまったから?

 ひょっとして、後ろから読めば大丈夫かも!
 ということで、これから挑戦してみます。
 
 いつか、観念上の茂木さんを実存の錨に結びつけたほうがよいかしら。(のんびりしている私には結構大変なことなのだけれど…)
 
 聖エリザベート
 「音楽の捧げもの」を読んだとき、ひょっとして…と思って調べてみた。(「脳と仮想」の時は、気付かなかったようでした)
 私が小学校2年の受洗の時いただいた霊名の聖人。ルター派からも、カトリック教徒からも聖人としてあがめられていたなんて、知らなかった…。静かな喜びをかみしめています。

投稿: masami | 2009/05/07 13:10:28

美しく慈しみに満ちたご文章に心がふるえます。
『現代の宗教』は、DESIGNの考え方との共通点をたくさん感じました。

投稿: ようこ | 2009/04/30 8:31:01

神様を感じる時、私は閉ざされた個人が何か見えない大きな力と繋がっているという安心感をおぼえます。
今、この場所でこの瞬間生きていること肯定されているような。
すれ違う人、偶然みつけた花、見上げた木の緑、通り過ぎる雨、そういうものすべてに感謝している。
人の知恵や欲を超えた不思議な力を感じる時、私にとっての宗教的な感覚は、自分が宇宙と繋がっているかもしれないという不思議な安心感に包まれる瞬間です。

投稿: 象の夢 | 2009/04/25 8:43:39

 トマス・アクイナスの本なんてきっと理解できないだろうな、と思っていた私がふと読んでみようと思ったのは、ある女性の言葉だった。

「トマス・ア、ア、アクイナスっていうの?その名前を聴いた時、なんともいえない神聖な響きに心が震えてね、とにかくその人のことが知りたいと思った」

 本の中で、彼の性格についての次の記述を読んだとき、あ~と思った。

「その側に居た者がさわやかで、新鮮な空気を呼吸するような気持ちを受ける程、トーマスは貞潔と、清潔と、純粋との持ち主であったに相違ない。」

 つらい思いをしてきた彼女は、名前の中にある本質を感じ取ることができたのかもしれない。

投稿: masami | 2009/04/25 7:43:10

茂木さん、「今、ここから全ての場所へ」持っています!!

投稿: smile | 2009/04/25 7:20:34

すごく素晴らしい文章ですね。
明日書店に行って購入させていただきます。

投稿: 伝説へ、ヒナギクとともに・・・ | 2009/04/24 23:36:36

親愛なる茂木テディ健一郎様

くまんばちが現れて、どひゃーっ(><;)と加速する茂木さん、かわいいですね♪ また捻挫しないで下さいね~
先日、八重桜を見に高尾にある 多摩森林科学園に行ってきました。
その時静けさの中に鶯の歌声が美しく響いていて、鶯の澄んだ声が「虚空」に吸い込まれていくような不思議な感じがいたしました。
そしてタチツボスミレが沢山咲いていたのですけれど、そのスミレの一つを良くみると、中に小さな蟻が一匹憩っておりました。この小さなスミレが全ての世界を表象しているような不思議な感じがいたしました。
なんでしょう、うまく言えないけれど個人的には一種宗教的な?体験だったと思います。
そして私が宗教に対してうまく言語化しえない部分を、茂木さんが代弁して下さってます!さっすが~!!
もし宗教について誰かに問われたら、茂木さんのこの文章をコピーして「どうぞお読み下さい。私の答えです。はい」と渡そうと思います。え?怠慢ですか?でもお猿さんみたいな私ですから、難しいことはムキーっ!とかしか答えられませんもの(笑)文殊さまのお知恵を拝借いたしませんと~
ではではおやすみなさいm(_ _)mって寝るのはやっ(笑)

投稿: 眠り猫2 | 2009/04/24 18:34:45


>言葉によって表現された「これこれこう」という世界観や倫理観が提示されるのではなく、ただ感じること、開かれること、向き合うことが大切にされる。そのような魂の道筋。
 「今、ここ」で感じていることの確からしさに依拠すること。肝心なことについては「無記」を貫き、敢えて語らないこと。差し出さないこと。

釈迦の教えのようですね。。。

投稿: あなすたしあ | 2009/04/24 16:39:32

 すっかり沈黙してしまったトーマス・アクイナスに、友レギナルドは驚いて、なぜ偉大な著作を止めるのか、何度も問うた。
 ようやくトーマスからの次の返事を得た。
「私が見た事柄や私が受けた啓示に比較するなら私の書いたものは悉くわらくずのようなものだ」

 トーマスの最後の言葉(修道士たちに請われてした、雅歌についての解説)
「神は、これを認識しようとする人間の能力を遥かに超えて高くましまし、人間の認識するところはいずれも唯、新しい疑問を起こす誘因となるのみであり、あらゆる発見は更に探求を進める出発点となるのである」
 ここ数日読み進めているトマス・アクイナスの本(実家の本棚からいつか読もうと思って随分前から手元に置いていた)の中の、昨晩読んだ箇所の記述。
 後に列聖され、教会博士として宣言された方のこれらの言葉。西暦1200年代のその当時、どのように受け止められたのだろうか…。

投稿: masami | 2009/04/24 16:03:11

茂木さん、すみません。張り忘れました。
もし、既にご存知でしたらごめんなさい。


数学者・岡潔さんの事(特に晩年)を書かれているサイトです。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Lounge/6251/kouen.html

岡氏なら、信じられると思います。

この歳になって感じることは、どの世界の方も、その分野で極めた方は皆さん精神世界に行かれますね。それが<彼らがこの世に生かされている本当の理由>なのかも知れません。

茂木さんも近い将来、その世界に行かれることでしょうね(o^-')b

投稿: おちょん | 2009/04/24 15:41:32

こんにちは。

私はよく伊勢神宮内宮内の木漏れ日に涙することがあります(´~`ゞポリポリ

>ただ感じること、開かれること、向き合うことが大切にされる。そのような魂の道筋。

まさに、日本人の文化・心情そのものですね。

ご存知でしょうか?数学者の故・岡潔氏。

「人の中心は情緒である」

彼は、数学者でありながら、晩年、東洋型の情緒は大切であると説いています。晩年彼は、ロジックの世界から精神世界へ移行されたようです。

生きとし生けるものすべてに対し<魂>の存在、そのすべてのモノに生かされているという感謝の念、この定義(というのか?)だけは他人に教えることのできない<感じる!>世界だと思います。

投稿: おちょん | 2009/04/24 15:20:43

毎日クオリア日記を読んでインテレクチュアルな雨をうけているような気がする。乾いた土(自分の心)が自然に吸い込んでいくもの、まだ完全に消化しきれなく、その水がまるで水溜りのようにたまっているものもある。そんなすべてを自然のままにしておくこと(消化しきれないものを心にとどめておき、頭の片隅に置いておくこと)で、きっといつか、知らぬ間に乾いた土は吸い込んでいける時がくるのかもしれない。だから今は無理をせず、自然に任せておこう。
都会の喧騒の中、ふとそよ風を感じた時、都会にもこんなさわやかな風がふくのかと、身近に自然を感じて嬉しくおもう。 周りを見渡せば、つつじ、さつき、芍薬や牡丹も咲いている。そうだ、藤の花を見に行こう。
底ふかき池の鏡にむらさきの 色さへかけてにほふ藤なみ (往事集、井上通女)

投稿: 山吹の局 | 2009/04/24 12:09:43

茂木健一郎様

>一種の人生訓として「幸福とは何ぞや」という
哲学的な議論を振り回しているのではない。
世界をありのままに見つめること。
人間がどのように行動し、感じ、選択しているか、
その基準をリアルにとらえようとすること。
そのような態度の下に人生の本質をとらえようと
する時に、「幸福」が一つの大きな命題として
浮上してくるのである。 

駆けていこうと思います。

投稿: Yoshiko.T | 2009/04/24 11:27:55

茂木健一郎様
初めてコメントします。
私も良く八ヶ岳の森の中を散策します。
それと今まで行った森のことを考えると、この茂木様の文章が新しい宗教にも感じました。
読みながらコピー取ろうとしましたら、本はあるとわかりましたので、早速本屋に行きます。
人は成長の初期にトライしたことをまた年齢が加わると再び試したくなるようです。12歳の私は真摯に教会(プロテスタント)に通い、聖書を読みました。
今何かに心を寄りかからせるとしたら、森の中に射す一条の光のような気がしています。ありがとうございました。

投稿: keicoco | 2009/04/24 10:50:34

おはようございます!(^^)!

4月の良く晴れた日“光の川”を歩いた時、
とても感動しました。
空に大きくのびる木、森の奥まで黄緑の新鮮な葉っぱの光が溢れ、足元には日当と木陰が鮮やかなコントラストで”光の川”を作る。

大きい鳥居をくぐった時、神聖で清々しいエネルギーに溢れる空間に包まれました。頭の中がスッキリして気持が晴れバレました。

前に山梨県の樹海を目の前にした時は もう神の領域だと ここから先には 入ってはならないと感じました。
朝は山から″もや″や霧が立ち昇り、雲となっていったのに
目の前の樹海は、依然、濃く湿った深い森と土が存在していました。
樹海からの空気が流れてきて 危うく惹きこまれてしまう様な恐ろしさを感じました。
そこでも 自分の全てが洗われました。

自然を尊ぶことから「今、ここ」この瞬間に感動する。
そこから共生する意識、相手を尊重し、向き合う心を大切にしようという勇気が新たに湧き上がってきます!(^^)!

☆では、今日もいい一日となります様に!(^^)!✫⋆☆〰♫♩♪✷

投稿: 光嶋夏輝 | 2009/04/24 10:46:59

茂木さんおはようございます!

宗教の定義、捉え方が
どのようなものであるのか、わかりませんが。

茂木さんが日々感じておられること、そのものが
宗教であると、わたしは感じています、、。

明日お話するご縁あって、きょう東京に向かいます。
外国に行くより遠いと言われる、島根から・・・☆笑。

投稿: 月のひかり | 2009/04/24 8:38:53

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