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2009/04/20

鋼と鋼がぶつかる音

 東京に帰ってきて、
編集の人たちと打ち合わせをしている
時、ふと窓の外を見て、
 「時差」には二種類あるのだなと
思った。

 一つは、むろん、地球の自転に
伴う昼と夜の移行に関すること。
 ヨーロッパの夏時間と日本の間には
7時間の「時差」がある。

 もう一つは、文化に関わること。
 この点において、ドイツと日本の
間にはどれほどの「時差」があるのだろう。
 差異を測る単位は、
どのようなものなのだろう。

 計り知れない。しかし、それは
確実に存在する。

 日本ではドイツ文学科やドイツ語科の
人気が低下し、かつての旧制高校で
ドイツ語が主要外国語の一つだった
時代の教養主義は絶滅寸前であるが、
 ドイツ文化の響きのさまざまを
失ってしまうことは、もったいない
ことだと思う。

 ドイツ文化圏の大切な伝統の一つは、
「高貴なる野蛮さ」とでも言うべき
ものではないか。

 ウィーンのシュターツオパー
でも、劇場の中の人たちは
 上半身をぴしっとアップライト・
ポジションに保ち、容易に
 屈しなかった。

 対立や衝突があるのは
当たり前で、そうでなければ
新しい文化などできぬ。
 
 鋼と鋼がぶつかる音が聞こえる。

 村社会とは異なる闘争原理。

 その響きは、確かに届いている。

 このところ、お守りのように
レクラム文庫を持ち歩いている。

 ベルリンでは、Das Nibelungenliedを
買った。

 高校生の時、相良守峯訳で
岩波文庫の『ニーベルンゲンの歌』
を愛読した。

 どのような精神に触れて、いかなる
形而上学を受け継ぐかということは、
その人の生き方を確実に変えていく
ものだと思う。

 高校の時にドイツ古典に親しんだことは、
今までの私の軌跡に確かな影響を
与えている。

4月 20, 2009 at 07:52 午前 |

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コメント

おはようございます!

>ウィーンのシュターツオパー
でも、劇場の中の人たちは
 上半身をぴしっとアップライト・
ポジションに保ち、容易に
 屈しなかった。

この部分、とても重要だなと感じました。

馴れ合いばかりに身を置かず、新しい文化を求めていくことを忘れてはいけないですね。

『化粧する脳』、とても興味深いです!

投稿: | 2009/04/21 8:24:10

今、私が時々の流行や風潮や世間体や組織の圧力や、その他いろんな事に流されないで、冷静に快適にマイペースで暮らせるのは、昔暮らしたドイツ語圏のスイスで、ドイツ文化に影響を受けた恩恵かなと・・・
日記から、そんなことを考えさせられました。

投稿: | 2009/04/21 6:41:16

ぶつかる サブカル ・・・・         ・・・・ 


         ホンノ  サブカル  クオリア日記日記


   1999 茂木健一郎 「クオリアマニフェスト」 読む

           7・アジテーション  有効期限

投稿: | 2009/04/21 6:36:47

「高貴なる野蛮」…と聞いて、「疾風怒濤」(=schtorm und drank)という言葉が直感的に浮かんだ。

“対立”や“衝突”、試練や苦闘を避けず、怒涛のような力強さで、互いにぶつかり合う。

それは中世の頃、剣士同士の打ち合い、闘い合いを思わせる。


硬く、しかし弾力のある鋼のように凛として屹立する中に、荒々しいほどの闘志と、物事の本質への鋭い洞察が、独逸圏文化の中心にあるように思われる。

対立、衝突、試練、懊悩…人生にありがちなこれらの苦しみと向き合わず、ただ“なぁなぁ”“ここはまぁるく納めて”と互いに馴れ合うのは村社会の特質であり、また欠点でもある。

人生は闘いにつぐ闘いの連続…。社会情勢と闘い、権力と闘い、また自分の中の弱く憎悪すべきものと闘い…独逸文化を形作ってきた偉才たちは、まさにそうして生きてきたのではないか。

その偉才たちの生き様の中から、キーン、キーン!と耳を突く鋭い響きが聞こえてくるような気がする。

その響きを、自分も多少ながらと言えども、大切なものと思って、何時までも聞きつづけていきたい。

今の怒涛の乱世は、カプセルの如き村社会の「常識」だけでは、決して、生きられない。

投稿: 銀鏡反応 | 2009/04/20 21:12:07

幼い頃の自分にどんな「ドイツ文化の響き」が残っているか、
いないのか、確かめてみたくなりました。
伯父の本棚に「ゲーテ格言集」というのがあり
中学生のとき島のアコウの巨木に登って読んだのが始まりでした。
木に登ったのは、従兄が冷やかしで石をぶつけたりするので、
葉擦れに朗読を飛ばすためでした。
今その格言をひとつも思い出すことができません。
短いセンテンスがまっすぐ胃の中に落ちてゆき、
何かあるたび木に登って支えを得ようとしたのにです。
同じようにリルケ詩集にも手を伸ばしました。
悲しみには花のようにくっきりした匂いや姿がある、と教えられ、
自分でもそれを表現することを真似しました。
こう考えると、具体的なフレーズが思い浮かばなくても、
ゲーテさん、リルケさん、ありがとう。
『音楽の捧げもの』の等身大のゲーテさんに会うために、
さっそく読まなくっちゃ。


投稿: | 2009/04/20 16:23:22

茂木健一郎様

言語は文化であることを想像するだけでも
世界はなんと豊かな音楽が奏でられているかしら、
と言いましたら、苦笑されますでしょうね。

Das Nibelungenliedをご購入されたのですか。
茂木先生が今回のご旅行で求められた
精神性の品々がうかがえます。
いつか茂木先生の書棚を拝見できる番組も
制作されるのも素晴らしいのではないでしょうか?

投稿: Yoshiko.T | 2009/04/20 11:50:36

ドイツを知った入り口は違いますが、うちの子供は、今度生まれ変わることが出来るなら、ドイツ人になりたいと言ったことがあります。
精神がピッタリと合うようというか、成熟した大人の物事を追う眼差しや行動の原点に感銘を受けたようです。
実際、ドイツに行ったことはないのにも関わらず、
(翻訳した言葉の中に多少のニュアンスの違いがあるかもしれないけれども)
『精神』を感じることは可能なんだと思いました。
私自身、いつか『歓喜の歌』をドイツ語で唄ってみたいと短い間でしたが、独学で(軽い気持ちだったので)ドイツ語を学習した時期がありました。
ドイツ語を学ぶにつれ、見たこともない風景を触れているような錯覚に陥りました。
山深い暗闇の森の中やドイツの街並みや食卓。
先生が仰るような、鋼のぶつかり合いのような人間と人間との繋がりが、ドイツ語のテキストの中の至るところに見受けられた記憶が蘇ってきました。
言語に触れるということはこういうことなのかと思いました。フランス語の時にも似たような経験をしました。言語を学んでいるというよりも、ヒトとして何を大切にして、生きているのかを感じたことの方が大きかったでした。そこで『日本』に対する気持ちに回帰するんですよね。
確固たる精神を得るためには、避けて通れないもの。それを得るために、国境で区切るは必要ないと思います。

投稿: | 2009/04/20 8:46:13

茂木先生、おはようございます(・ω・)/
昨日は「音楽の捧げもの」を読みながらクースカ寝てしまったせいか(あ、本は面白いです!)茂木さんと雪合戦する夢みました~ヤッターo(^^o)(o^^)oって、勝手に出演させて申し訳ありません。ペコリ。m(_ _)m
そぅ、ヨーロッパは歴史がお互いに侵略するかされるかって状態だったと思うので、民族的個性も強くなるんじゃないでしょうか?
日本は海に守られ鎖国政策とかずっととっていたので、「和の精神」が強くあまりぶつかりあわないですよね。
ゲルマン魂は骨太です!!
ニーチェ読んでみようと思います!
茂木さんのおかげさまで、沢山本を読みたい気持ちが継続しています~m(_ _)mそゆえば母がテレビで茂木さん見て「く、熊さんみたいでか、かわいぃ~(><;)」と言っていました。女性にもてますね(笑)
それでは今日も良い1日を(^O^)

投稿: | 2009/04/20 8:32:16

茂木健一郎さま

足柄山の金太郎

オペラではない日本

ワーグナーのオペラ
当時の精神性は
その当時、以前の継承かと

総合芸術という視点ではない超越が本場のオペラには脈々のような私の個人的には

本当
日本のキャラクターショーが実はオペラに近いと
私なりです

投稿: | 2009/04/20 8:13:58

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