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2009/04/10

ワルキューレをみて思ったこと

塩谷賢くんからもらったメールを掲載します。


塩谷賢氏


From: "Ken Shiotani"
To: "Ken Mogi"
Subject: ワルキューレをみて思ったこと
Date: Fri, 10 Apr 2009

to Mogi

今日、もし呑みにいけない場合に備えて、昨日のワルキューレを見て考えたことをちょっとメモしてみます。
ワグナーの解釈とキース・ウォーナーの演出の関係はもっと考えなければならないのだが、とりあえずごっちゃにして(特に2幕以降)、当日感じたままに記します。

第一幕でまず感じたことは、愛と運命の対立、という構図と、はたしてそれでいいのか?という疑問だった。
運命と愛(性愛も神的愛も日常の愛も含む)の相容れなさを無視し混同し、統合しようとすることによって、悲劇(ドラマ)が発生する。(性愛ではトリスタンとイゾルデ、神的愛でのブリュンヒルデ、日常愛のハンス・ザックス、愛同士の相容れなさではタンホイザーか?)
また、この相容れなさが現状の不備ではなく、全く本質的な次元のものであることを当事者(イゾルデ、ブリュンヒルデ、エリザベート)がまったく気付いていないのではないか、それゆえに彼女らは愛の英雄としての性格をもつこと、さらにその統合様式が、比喩的に言えば、愛を中身に、運命・知恵・神性を形式・存在様態とすることによって、相容れなさの次元を高め、悲劇を加速させるのではないか、ということだった。
この「存在様態」はある種の絶対性をもち、それが「統合」という目標から引き出しているかのように見させられてしまう。「指輪」では、愛とアルベリヒの指輪の分裂が、失われた黄金(それは母なるラインの流れ=もっとも高次で具体的な「時」の流れのなかにあった)が、この絶対性のレベルでの統合を象徴する。
だが、本当にそうか?運命・存在様態はそれ自身である形式性においてある種の絶対性をかたくなに持ち、その一般性・永遠性の中にすべてを巻き込み侵蝕しようとする暴力ではなかろうか。また愛は、感情は、中身などというモノ、誰かの所有物であることを拒む、「イマ・ココ・コノ」である力、働きとしての絶対性をもつものではないか?両者の統合は、そもそもありえない不在の名なのではないか?その典型であり、最も強力な現実化が貨幣・資本ではないか?明らかにアルベリヒの指輪を資本のカリカチュアとして解釈することができる。するとラインの黄金の奪取は、実質価値の存在という不在を覆う近現代の神話そのものである。愛の英雄たちは、この不在に全く無知である。
このように見ると悲劇(ドラマ)は登場人物の、混同を促す欲動のサイズでは生じない。サイズの基準は、「イマ・ココ・コノ」である力を所有の次元に引き込む一般性・知性・社会性・神性の次元でおこる。この次元が我々の心と称される心についての自己知・(志向性の自己回帰成分)として、「イマ・ココ・コノ」ワタシに侵蝕していること、この侵蝕を活性化させてしまう構図をとってしまうこと、そのことを無視し忘れていること、その中で「イマ・ココ・コノ」ワタシがのたうつことに極めて敏感な感受性をもつこと。ワグナーはこの限りで資本主義の英雄であり、体制内反体制派といえるだろう。だとすればニーチェが袂を分かったのはよく分かる。ニーチェは「イマ・ココ・コノ」の絶対性と「すべてを巻き込み侵蝕しようとする一般性・永遠性」の暴力の出会い(郡司なら相殺というかもしれない)による脱出として永遠回帰を希求したのだと、僕は思うからだ。

この方向で考えると、喜劇(コメディ)の方が危険であること、道化が権力によって囲い込まれていたこと、祝祭のヤバさ、といったものが感じられる。(1840年代にバルザックが「人間喜劇」の構想を発表している。)
また、「イマ・ココ・コノ」の絶対性のある側面は、J.F.リオタールが前衛芸術とカント哲学(判断力批判の崇高なもの)を関連させて考えるときにいう「到来するもの」ともいえる。(『非人間的なもの』が分かりやすい。)それは測ることができず、予測できず、その原因を探ることもできないとされる。そして絶えずやってくる。なぜなら「イマ・ココ・コノ」を開くのだから。ここでのワグナー的悲劇(ドラマ)は運命を「イマ・ココ・コノ」の到来でなく、終末の到来という約束手形へと押し込めてしまっているのではないか?そのとき現在に横溢するエネルギーはその多くが失われるとはいえ、残余が抑圧され蓄積され、予定された終末で利用されて凄まじいカタルシスを起こす。巨大な無駄を伴う資源化とその経済利用が劇場の感性に適用されているのだろうか?(なにか化石燃料の形成と使用の話のような気がしてきた。)この無駄については語られない。ましてやリオタールがいう「到来することがなくなる」という不安は視角に入っていない。約束手形は支払われるものだからだ。だが、貨幣・資本ははじめから価値不在の不渡り手形ではなかろうか?それを隠蔽するた�,めに自転車操業的に価値が設定され、権力をもち、不渡り手形の書き換えを行い続けるのではないか?「到来することがなくなる」とこの更新ができなくなる。

キース・ウォーナーの演出では運命=「すべてを巻き込み侵蝕しようとする一般性・永遠性の暴力」が赤い矢印で、「イマ・ココ・コノ」の絶対性が春、緑の矢印で対比されていたように思う。天からの赤い矢印に対して、双子の愛の場面で地から緑の矢印が複数立ち上がり、緑の照明がなされること、ここでの最も素朴な感受性はジークムントのジークフリートを思わせる無邪気さである。ジークリンデはその感受性・愛を中身として受け取るが、運命という形式のもとにおいてである。彼女は自らを赤い矢印の先端に何度となく置く。それは彼女という存在様式が赤い矢印によって成立している、赤い矢印の具現であるからである。ジークムントは赤い矢印の部分としてのノートゥングを得る。赤い矢印を超える切断という可能性を引き受けながら、それが部分であるということを彼は捨てきれない。(ジークフリートは槍を折る。)ジークムントは自らを統合への材料として差し出す。二人の関係は
ジークムント:ジークリンデ~ブリュンヒルデ:ヴォータン
という裏返った相似形を導く。

第2幕
「指輪」の基調にあるものが、「すべてを巻き込み侵蝕しようとする一般性・永遠性の暴力」の現実での表示である資本主義・貨幣経済的な冷厳さであることは、契約という古い形態が全くの形式として権力を振るうさまによく見て取れる。契約は「イマ・ココ・コノ」ものとして「一般性・永遠性」が現実化するものであり、「イマ・ココ・コノ」の絶対性を要求するからこそ、どのようなつまらない契約も「一般性・永遠性」として尊重されねばならない。フリッカの尊厳とはその意味でイエスの受難と同等の重みを持つのである。(ああ、10日の聖金曜日に上演したらもっとギャグになったのに)当然、契約の齟齬が起こる。「イマ・ココ・コノ」の絶対性は「一般性・永遠性」と全く異質だから、その統合は尋常の手段では適わない。
「ラインの黄金」でのヴォータンは、このような苦労はしていない。あのときの彼は、まだシステムの中にいる部分的なエージェントであった。赤い矢印は不可視だった。グンニグルの槍は白いトネリコにルーンが刻まれたものだった。(ブリュンヒルデの持つ槍がそれと相似なものであること、そして他のワルキューレは槍を持っていないことに注意)彼の英知は(既に片目だった)システム内での自由を謳歌する力だった。
だが、世界を統べたのちである「ワルキューレ」では、ヴォータンは「一般性・永遠性」=個的具現へと変貌してしまっている。彼は赤い矢印そのものにおいて成立している。さもなければ、もはや神ではありえない。だが「一般性・永遠性」=個的具現ということ自体が、記述の上での名、不在の名なのだ。この不在の名においてしかヴォータンはヴォータン足りえない。もし本当に実質がそのとおりに=になっていれば、ヴォータンは苦しむはずがない。この嘘に、「一般性・永遠性」の「すべてにわたる」スパンの広さが罰を下す。それは不在の統合によって「イマ・ココ・コノ」の絶対性を導入し、この絶対性の相対化としての矛盾を突きつける。ヴォータンが「自縄自縛」を嘆くのは、この不在という虚偽の生成する矛盾をポジティヴな個として、「イマ・ココ・コノ」ワタシがのたうつことへの敏感な感受性をもつこととして引き受けさせられるからである。
ここはワグナーがそこまで考えていたかはわからない。「自縄自縛」の形式はヘーゲルの「主人と奴隷の弁証法」であり、マルクスの恐慌の理論のスタートではある。「自由な英雄」という謀略はそこでの止揚として考えられる。
だが、この弁証法そのものが不在という虚偽に基づくならば、せいぜい全体が拒否される否定弁証法であろう。そこで与えられるのは、新たな展開へのコーナーストーンとしての止揚ではなく、崩壊する事態の中でまだ細部にこだわるミクロロギー的な形式の書き換えである。ジークフリートの悲劇は約束されたものであったろう。(郡司なら互いに否定する双対の相殺の動態性に着目してグズグズの生成素をくくりだす戦略をとる)

さて運命/赤い矢印は「一般性・永遠性」と具現化としての「イマ・ココ・コノ」という相容れない2面性をもつ。ヴォータンは神として「一般性・永遠性」に視点を据え、ジークリンデは具現化としての「イマ・ココ・コノ」の質料性に支点をおくことで、契約という虚偽が現実であることを示す配置となる。この鏡面は「能動/受動」、「神/人」、「男/女」、「精神/肉体」など様々な名をつけられるだろう。同一物のヤヌスの顔であることが大事だ。3幕でヴォータンはブリュンヒルデを追うが、ジークリンデは追わない。ジークムントを殺しながらジークリンデには手を出さない(フリッカは二人とも罰するべきなのにジークリンデには触れない)。ジークリンデが「イマ・ココ・コノ」に支点を置くがゆえに、彼女の悲惨は黄昏がいたるところで置き続けていること、現前のその多くが死に、決して過去・記憶にさえなれない現在のあり方を示しているのではないか。ヴォータンは不在の始原(ラインの黄金)と不在の終末(黄昏:黄昏は夜にまで至れないし、「指輪」ではヴォータンはそこにいない)によって、一般性・永遠性の相で、この「イマ・ァwRコ・コノ」を顕微鏡的に拡大し、操作するのではないか。(まさしくミクロロギーである。)
このように見ると、プログラムで茂木×山崎の言うように、ジークリンデが道具であって、道具の運命への反発が神の計画を狂わせる、という見方とは逆に、ヴォータンは自分の真の反面、反物質的なジークリンデに出会うことを恐れており、それができないという見方ができるのではなかろうか。先の「悲劇(ドラマ)は登場人物の、混同を促す欲動のサイズでは生じない。」と重ねれば、心は個人の中にあるモノ、個人の所有物ではないという側面、精神分析に対してドゥルーズ・ガタリ的な制度分析の要求が出てくる側面が示唆されるのではないか。

この2面性を覆い隠す一つの手段は「部分化」・「忘却」である。ヴォータンに対するブリュンヒルデ、ジークリンデに対するジークムントはそのような部分化ではないか。そしてヴォータンが「一般性・永遠性」にジークリンデが「イマ・ココ・コノ」の極であるから、ブリュンヒルデは知性の、ジークムントは感情の面での部分化ではなかろうか(3幕の「私はあなたの分身」という台詞の意味)。そして部分化は過去化の一つの様式である。ブリュンヒルデの槍が、かってエージェントとして部分であったヴォータンの白い槍を引き継いでいる。まさに彼女はエルダ、「ラインの黄金」で運命のもつ否定弁証法的な危険を告知したエルダをヴォータン:運命の具現化が陵辱して作った娘である。エルダは地母神だが、むしろ知恵の神、世界を生む絶対神的知性の産出可能性の象徴としての母神であり、その限りで実体のある生産性ではない。陵辱されたのち、やっとエルダは知の神、ニーチェの言う詐欺師・道化師としての哲学者、現代なら資本に取り込まれて製品を産出する知性として現実に組み込まれているように思われる。そしてこのことから、愛は運命にとって全く外部のものであ�,ること、愛の運命という言い方が、一種の陵辱・略奪であるように感じてしまう。
ジークムントの部分性は、愛・春・緑(これは赤の補色である)によって垣間見られたこの外部性に直面させられる状況という意味で、全体を取り巻き脅かす部分性である。ジークリンデ=ヴォータンにとって、己の十全性・統合性を揺るがす裏返った部分性、未知・潜在性として全体性を部分化する部分性である。「あなたも穢れる」というジークリンデの台詞はジークムントの外部性、それこそ「自由」の可能性を秘めた未定性を押し込め圧殺する自己保存の叫びである。
だがなぜ二人が双子なのか?それは契約によって「一般性・永遠性」が現実のものとなるように、「一般性・永遠性」はイデアのように自存するのではなく、少なくとも動態性に関わる限り「イマ・ココ・コノ」において生成せねばならないからである。ヴォータンは自らに反する自らと、自らの外部であろうとする自らを双子として生み出した。双子のこれまでの悲劇は世界を統べたヴォータンの味わうべき悲劇であり、二人の子供であるジークフリートは尊父殺害の心の成長過程の、人間の象徴であるとともにヴォータンの自己殺害とそれによって不在の形で進行するヴォータンの破綻の姿なのである。(「神々の黄昏」はヴォータンのご臨終なのだ。そして槍を砕かれたことで初めてヴォータンは不在となり、ジークリンデの半身ではなく、ジークフリートの不在の半身となる。全知の不在のヴォータンと無知のジークフリート。)
ブリュンヒルデは知、契約の中で作られた「自由な英雄」たるべき存在であったが、それはそもそも無理なのだ。彼女の本質が知=契約の「一般性・永遠性」だから。彼女が「自由な英雄」たる期待を掛けられたのは、外部性である愛を受け入れるという特性=女であることのみによる。ジークムントへの愛(3幕でジークリンデが「私<たち>が愛したあの人」というとき、なぜ<たち>なのか)、それはヴォータンの自己否定による状況突破、より十全な形での「イマ・ココ・コノ」の動態性への希求と同等のものなのである。ブリュンヒルデは裏返ったジークムント自身であり、ジークムントへの愛は外部性たる愛への希求なのである。(この愛はジークリンデには手に入らない。ゆえに彼女は悲惨な一生を悲しみのうちに閉じることになる、と予言されている。)
ジークムントの死を告げる場面はジークフリートの死の場面と相似的である。だが、ジークムントは部分であり、外部性を外部性とする質料的な面でのヴォータン=ジークリンデを欠いている。不在への通路は不在の名に由来するブリュンヒルデ=裏返されたジークムント自身によって塞がれている。一方、ジークフリートは自らのうちに必要なファクターを取り集めているため、不在・空白に向かう形で倒れる。
ジークリンデが二人の愛の床から走り出したことは、ウォーナーの演出では、ブリュンヒルデが拾い上げたフィルムに絡め取られ、引きずられている形になっている。ジークムント=ブリュンヒルデに対し、ジークリンデ=ヴォータンは常に希求し惹かれている。だがそれは自らの不在の半身、ジークリンデにあってはヴォータン的な契約の「一般性・永遠性」への軸において、ヴォータンにあっては不在の半身であるどころかそれ自身不在となるジークリンデにおける「イマ・ココ・コノ」の絶えざる消滅への自己の投企(それがまた契約を締結してしまうことが抜け出せない深遠なのだ)によってのものである。ジークリンデは外部を見捨てる。ジークリンデは予測不能なことなどしてはいない。ヴォータンは外部を受け入れようとした娘を再び運命に閉じ込め、そのためジークフリートも逃れられなくなる。
ここでフィルムの意味がなにか?それは記憶であり、プログラムであり、アカシックレコードであり、神のあるいは知による産出可能性であり、無理やり計量することとその結果である。「ラインの黄金」冒頭でヴォータンがフィルムを上演し始める。「神々の黄昏」のエピソードでフィルムは切れ、その向こうから日常の人々が現れる。劇中の様々な場面でフィルムが現れる。キース・ウォーナーは「指輪」という作品とその歴史自体、ワグナーという事件をも一つのモノに収めるというメタメタレベルの象徴とそれが劇中でも力を実際に発揮するという形で「イマ・ココ・コノ」の絶対性=我々における現前性、を提示しようとしたのではないか?そして我々はそこから外部性である愛、感情、芸術において生きることができるのだろうか、という問題が投げかけられているのではないか?

第3幕
なぜ岩山の頂きが病院か?
「イマ・ココ・コノ」の動態性・絶対性が「一般性・永遠性」の手続きのなかに囲い込まれるのが、そして「イマ・ココ・コノ」を助け保っていると称するのが医療だからではないか?「イマ・ココ・コノ」の継起性はとても難しいのでここでは語らないが、医療が「イマ・ココ・コノ」でなされるのでなければそのようなことはいえない。だが往々にして医療と医学は混同される。我々は部分的であり、忘却するからこそ、混同することでうまく身を処している。この混同によって自己を保っているブリュンヒルデは助けを求めてくる。だが施設としての病院は、「一般性・永遠性」の手続きに従う。「イマ・ココ・コノ」の反証的な提示であるジークリンデ=ヴォータンはここに留まれない。「一般性・永遠性」たるヴォータンの部分、外部を吹き込もうとする反逆的な部分であるブリュンヒルデはここに隠れる。
ヴォータンの赤い槍はこの部分の反逆に怒る。かってのエージェントとしての拡大への雄雄しさが統制への冷酷な力として振るわれる。内なる外部への攻撃として自らが部分=全体となるとき赤い槍と白い槍の双方を掲げる。「行きずりの男にモノにされよ」と呪う。
だがこの部分=全体は生成・創発を起こさない。ただ推移を進めるだけである。外部を受け入れたいという感受性は外部性たる愛を外部性のまま受け入れたいと感じる。2場ではヴォータンは槍を持たない。動態的な
「一般性・永遠性」というくびきから外れたかのようなヴォータンにとって「行きずりの男」は外部性の中になる「自由な英雄」でなくてなんだろう。だがブリュンヒルデはそうは取らない。「自由な英雄」が神に・計画に反するものであることをまさにそのものとして契約・神の本心の名で示しているのが、知、契約での「自由な英雄」であるブリュンヒルデなのだ。彼女がやすやすとそれを成し遂げているかのように見えるのは彼女の知の部分性によって「イマ・ココ・コノ」を剽窃しているからだ。ジークムントは同じく部分性としてしか外部=自由に触れられなかったがために、契約のくびきに殺された。ヴォータンは嘆く。「愛がそんなに簡単に手に入ると思うのか」と。ブリュンヒルデは剽窃した自由において自らを再び契約ならぬ契約・運命のように見えない運命へと落とし込む。
ここでの運命はヴォータンに具現化した赤い矢印からレベルがジャンプしている。ジークフリートの悲劇を招く不在の相においてまで力を振るう運命、不可視となった赤い槍をブリュンヒルデのジークムントの受け入れという部分性の相応(相殺になるか?)によって発動させてしまう。ヴォータンはそれに逆らえない。契約という形式を否定する形で感受性を示す彼が、感受性が知として自己知として知られる部分性の形によって縛られる。自らが希求する外部をその外部の不完全さのゆえに自ら縛らねばならないという悲嘆。だがそれを彼はなす。抱擁の終わりにブリュンヒルデがヴォータンを突き放す仕草をする。それは別れのつらさなどではなかろう。真に「自由の英雄」たりうる可能性を秘めた彼女の「女」が自らの父への愛という虚偽によって裏切られたことの象徴ではなかろうか?
この運命のレベルは、序夜のプロローグと終夜のエピローグに出てきたフィルムにのみ象徴され、いま「ワルキューレ」を見ている観客をも巻き込むことで劇場の外に滲み出していくかもしれない運命、この運命を共にすることで観客はブリュンヒルデの視点に重ねられる。それゆえヴォータンのくちづけによって閉じられる彼女のまぶたは下がってくる幕である。だがその右手に赤い扉が表れる。(キリストは昇天して神の右手に座した)
ここでまた相の逆転が起こる。観客はブリュンヒルデから引き離される。ヴォータンはローゲを呼び、運命の歯車を推し進める。ローゲとは誰か、赤い槍、運命のシステムを進めるこすっからいもの、資本主義でのうまく機敏に動く相場の場立ち人、保険会社の外交員、そして不渡り手形を打って回る銀行の行員であり、詐欺師・マジシャン。だが彼を過大評価してはならない。彼はもっとも現実的な人の姿なのだから。彼がヴォータンとともに不在になったのち、ハーゲンがその役を引き受ける。
エピローグでフィルムの向こうにいた人々は、ヴォータンたちかローゲたちか?
それともフィルムを紙くずのように捨てられる「自由」な人たちなのだろうか・

出かけなくてはいけないので、この辺で送ります。
夜は電話します。


Ken

4月 10, 2009 at 03:41 午後 |

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コメント

おはようございます。

ワルキューレを見たので、おしらさまがおっしゃることが少しでも分かるかも知れないと思い、読み返してみましたが…。

私は第三幕のワルキューレの仕事をあの様に表現した事を面白いなぁ!と感じました。
(私は何の知識も無くワルキューレを見ました。)
最初っから演出がコンテンポラリーで
そこも驚きでした。
フンディング家のテーブルと椅子、皿の大きさ。
赤い矢印を持つ男はヴォータンだった。何故あの格好。
ヴォータンの部屋。何故研究室。あの星空?は何。
ヴォータンは神なのにがんじがらめで、不自由。妻であるフリッカの言いなり。
ブリュンヒルデの木馬に乗った登場。
そもそも舞台の道具が全て意図的におもちゃの様に表現されていました。
ブリュンヒルデの裏切りに対するヴォータンの報復の子供っぽさ。
もしかして、ここは笑う場面なのか??と思い、不思議な気持ちになりました。

私はヴォータンの「二人は双子だが、そうなった。その事を受け入れるんだ、認めるんだ。」いう内容をフリッカに説得した時は「さすが神!」って思いましたが、その後からは 神も人間もレベル同じじゃないか!って思いました。

そう思わせる事、ワーグナーの意図した事なのでしょうか?¿??
また、キース・ウォーナーさんは今回、コンテンポラリーで表現する事こそが一番の目的だったのかな、と私は思いました。
(あの舞台である理由は それ以外に見当たらないので。)

舞台自体とは 離れて、
『ニーベルングの指輪』は何故あんなにヨーロッパの人々に語り継がれたのだろう、と疑問に思いました。
茂木さんやおしら様のように、背景文化を踏まえて深く分析できたら、もっと面白いだろうと思います。

ここから色んなオペラに触れあって興味を深めたいです。

投稿: | 2009/04/17 23:13:39

塩谷さんの、論文たる「ワルキューレ」の感想を読むと、哲学的要素の大きな物語なのだろうか? と感じました。「一般性・永遠性」という「イマ・ココ・コノ」というフレーズが哲学者、塩谷さん独自の視点なので奥深く難しく感じました。私の感想は、ジークリンデ、ジークムントに突き刺す赤の矢印は、無意識の外からの神的な矢で、ジークリンデには胸に、ジークムントには頭に、赤い矢印は向かっています。抗えない運命の無意識を赤という矢で顕しているのではないかと。それを、女は胸で受け、男は頭で受ける・・・というように。双子の出会った磁力は結合することによって、地場からの生命の萌芽、歓喜、恵みを、自然の樹木のエネルギーとして緑の矢印で表現しているのではないか?と・・・。閉塞された社会的秩序を破ったジークムントとジークリンデの破り、結合するエネルギーが愛ならば、そこに生まれた愛は、愛がエネルギーを放出し、また、秩序を回復しようとする無意識は二人を引き裂き、生命という種を生んだのかしら? と・・・
神である父に服従する存在であったブリュンヒルデは、秩序を破ったジークムントに制裁を加えるはずが、愛というエネルギーに感化され、自らの意志を持ってしまう・・・という・・・考えれば、考えるほどに、奥深いこの物語は、塩谷さんの感想文を読ませて頂いて、さらに、思考する楽しみをもたらしてくれました。哲学的要素と物理学的要素が混じり合って、なんだか玉突きのように、ぶつかることによる運命がある方向に運ばれて行く運動・・みたいな・・・考え出すとキリが無いくらい、存在と重さがあって・・・けれども、笑いは排除されて成り立っているという・・・そこがドイツ的なのかしら? 歌唱、オーケストラと共に素晴らしく、紹介していただいた茂木先生と、塩谷さんの感想文に感謝申し上げます。歌劇「ワルキューレ」を大変楽しむことが出来ました。ありがとうございました~♪

投稿: | 2009/04/16 23:54:35

大変に難解な文章。しかし、楽劇の中に見る人間世界の深層を見抜いているのではないか、とは思った。

こんなに『ワルキューレ』について深い所で洞察できるひとは、本当に数少ないと思う。

塩谷さんのこの文を読み、暫く経ってから、頭の隅っこでこう考えた。

我々が『ワルキューレ』を見るときの「標準的」な感想とはまったく違う視点で、塩谷さんはこの楽劇に描かれている「人間たちの想念」を深く見抜かれたのではなかろうか。

茂木さんの畏友の方々は、本当にいろいろな意味で、凄い方ばかりなのだと心底、感服しました。

投稿: 銀鏡反応 | 2009/04/13 21:30:35

この文章を読むと、恐るべし塩谷さん、とやはり思ってしまうのですけど。

昨日帰りの電車が偶然同じでしたので、いろいろお話しして帰りましたら、とても穏やかで、あたたかい声の持ち主でした。
私の思考レベルでは、塩谷さんが発している内容を正確に掴みえていたか(たぶん、否)、同等会話レベルになっていたか(これも恐らく、否)という感じですので、丁々発止できていないなあ。。。とメタ認知だけはできていたのですが。
でも、大きな森のクマさんといいますか、森の奥深くで人知れずはえている巨木といいますか。。。とても和ませて頂きました。(と言っていいのかしら?すみません、塩谷さん)

茂木さんが親しくされている方々と、どんなやりとりをばあばあとされるのか、その丁々発止の現場に参加してみたいです。レベル的に口は挟めなさそうですので、座敷童子のようにそこにいるだけで。(^_^;)

投稿: | 2009/04/11 10:40:52

茂木健一郎さま

おはようございます

なぜ、日本にはオペラが無いのでしょうか?
は?あるでしょ! ではなく昔からの文化として ただし能となるのであれば 確かに、しかし

昔話の 『足柄山の金太郎』オペラであります?
そもそも楽器からしてヴァイオリンなども昔の日本文化には無い訳
オペラなどとは程遠い文化起源

日本の文化起源がヨーロッパから劣るとは思いません
そうではなく
『足柄山の金太郎』 例えば 『 パルシファル 』

『 パルシファル 』オペラにとヨーロッパ文化認識があった

日本において『足柄山の金太郎』を日本の古来からの楽器でも良いんです当時の段階でオペラのように上演されたでしょうか?
もしかしたら 上演されたケースも皆無とは しかし残っていますか?
残っていましたら今の日本で幅広く上演されているのではないのかな?

日本においてコンプライアンス?
不可能文化ですね

なにかあった どうしよう 

よく 事なかれ主義 聴きますが
違いますね

何か あった どうしょう誤魔化そ主義

日本の一部はヨーロッパなど最先端のことに触れているところでさえ
ヨーロッパなどの精神的文化には触れていないのでは

何か あった どうしょう誤魔化そ主義 
肩書きが超一流なら人格的に素晴らしい
そんなのは信じたいと思い込みの激しい迷信 
そういう異質な迷信文化は日本では古来から発達していますね。

精神性文化
純たる精神性文化の一部を判り易く表現がヨーロッパにおけるオペラではないのではと、ふと。
総合芸術オペラ 
私は
でも、ふと同時に今
きぐるみショーでしたが ドラえもんの きぐるみショー
確かあった気がします
そう考えると
きぐるみショー 実はコミック  コミックオペラが ビーゼの
『 カルメン 』 ですよね

堂々たるオペラとコミックオペラ 
楽しみの分け方も事実

今の日本において
ドラえもんの きぐるみショー とか ヒーローショーでしたか
あなどれないと思います本当に思います。

精神性の純然たる創造 日本に求めるのは それとも酷でしょうか。

投稿: TOKYO / HIDEKI | 2009/04/11 6:58:49

          ワルキューレ  変調

          現実発生への仮定


      すべては  相互変調 混変調  為せる技


         唯  それだけの こと

     おしらさま  こんな要約 如何せん


     

投稿: | 2009/04/11 6:46:31

茂木健一郎様

拝読させていただきました。
この様に懇切丁寧にお知らせくださる
ご親友がいらっしゃること本当にお幸せですね。
以前、クオリア日記で話されていた、
有名なosira様でいらっしゃいますね。
ご礼拝させていただきました。

投稿: Yoshiko.T | 2009/04/11 2:21:46

茂木健一郎さま

ばしっと

半井小絵さんの気象解説を拝見し決めました

北海道のゴールデンウイークはスキーではなく釣り!

函館の沖堤への渡船さん
長良丸さん

携帯電話の連絡先で過日は、つながりでしたが
留守電
それが、あれですね
電話番号 留守電に残るんですね、私、帰宅後、留守電に私もしてましたが、長良丸さんから折り返しの電話を頂いてました

必ず函館に参ります

日本航空さまの行きの便は羽田から函館
ですが、帰りが千歳から羽田しか取れなく、キャンセル待ちで函館から羽田は
でも
私の心意気として
千歳から羽田を一度買い
函館から羽田が取れたら千歳からのは払い戻しで手数料を払ってでも
日本航空さまも、ご承知して頂け私の心意気

いざ!旅行代理店さまに買いに

お待ちを!
との
実は私の場合の買い方
乗る時間の20分前まで買えばよいので千歳から羽田の
ですのでギリギリまで買うのはお待ちを!と旅行代理店さまより

優待券を使う場合のメリットとして

さて、でも函館には必ず参り釣りです
揺るぎません。

茂木健一郎さま

仕事の流儀

番組の方向性がクラシック音楽の演奏会のごとく
ご出演されました皆様の全体として

番組が壮大な作品のように。

お一人お一人を見るのではなく

分かり易くですと
クールという表現?でしたか

第1クール 第2クール

それで ひとつのクールで全体的なメッセージがとか

羽田空港の管制官の皆様を取材と同時に建築家の方も取材

これは本当
カラヤンの録音と同じ
平行に数曲を録音同時時期にのカラヤンみたい

ふと思いました。

投稿: | 2009/04/11 0:50:36

           コ 曖昧さ回避 コ

イマ ココ コノ 一人
             何故 イマ ココ コノ 一人

行ってはいけない  場所に行き
会ってはいけない   人に会い
言ってはいけない    事を言う  何故 イマ ココ コノ 一人

          人の在り方  イマ ココ コノ 一人

          事 始りの  イマ ココ コノ 一人


                 今 ここ 

         

投稿: | 2009/04/11 0:31:30

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