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2009/04/25

沈黙

沈黙

 もし神が本当にいるのならば、神はどうして沈黙しているのか?
 これは、昔から、神学上の非常に深いテーマの一つだった。
 ビッグ・バンとともに、私たちの現在住んでいる宇宙ができあがったとしよう。その誕生の瞬間に、神が介在していた、すなわち、宇宙自体は神が創造したとして、その後の宇宙の発展は、自然法則に従っているように見える。
 科学者は、神の沈黙を前提に仕事を進めている。もし、神が気まぐれに時折宇宙の中の物事の進行に介入してきたら、自然法則など考えることができないからだ。
 もし、神が人間が善良であることを望むのならば、なぜ神は人間の営みに介入して、善行だけが行われるようにしないのか。なぜ、様々な社会的不正や、暴力、矛盾をそのままに放っておくのか? 神が万能だというのは、うそに違いない。なぜならば、神は、人間が悪を行うのを止めることができないのだから。
 これは、子どもでも思いつくような素朴な疑問だ。実は、神学の専門家の間では、このような素朴な質問は解決済みに違いない。専門家は、たいていの問いに複雑でそれなりに筋の通った解答を用意しているものだ。何しろ、現実とは離れた観念の世界で、ネジを巻くようにギリギリと観念と観念をこすりあわせるのが、神学の役目なのだから。
 いかに上のような素朴な問にうまく答えるかは神学者にまかせておこう。
だが、神学の専門家ではない私にもわかることがある。それは、神の沈黙が、全ての宗教にとってとてつもなく大きな問題だと言うことだ。なぜ、神は沈黙しているのか? なぜ、神など存在しても存在しなくても同じだと言うように、宇宙は自然法則に従って勝手に時間発展していってしまうのか? 
この問題は、神の存在を信じるか信じないかに関わらず、宗教的なものに興味を持つ全ての人間にとって、とても大きな問いだ。
 異教徒に迫害される信仰深いものにとって、神の沈黙は自らの生死に関わる、とても大きな問題だったろう。
 遠藤周作の作品「沈黙」では、江戸時代に長崎で奉行に迫害され、踏み絵を迫られるキリスト教徒たちを描いている。
 なぜ、神は、宣教師たちが信仰ゆえに踏み絵を拒み、それゆえに死の苦しみを味わっているときに沈黙しているのか? なぜ、宣教師の処刑を命ずる奉行の上に雷を落とさないのか? なぜ、あたかも何事も特別なできごとはなかったかのように、雲は流れ、海は波打ち、鳥は鳴いているのか?

 このような疑問は、もちろん、神の存在を認めない立場からはナンセンスだ。神などは存在しないのだから、宇宙がかってに進行していくのは当たり前の話だ。自然法則自体を「神」と名付けるのならば別だが、あたかも自分の意志を持ち、その意志に基づいて行動するような「人格神」が存在するかのように考えるのは、間違っている。そのように考える人もいるだろう。
 だが、ここで重要なことは、立証も反証もできない以上、人格神の存在を信じるか信じないかは、その人その人の自由だということだ。かって、科学哲学者カール・ポッパーは、間違っていると反証できることが、科学が科学たるゆえんであると言った。その意味では、人格神がいるかどうかは、科学の対象ではない。人格神の存在を信じるか信じないかは、まさに、その人その人の自由なのである。電子の質量が陽子の質量よりも大きいと信じることは、明らかに事実に反しているのだからナンセンスだ。だが、人格神の存在を信じるのはナンセンスではなく、あり得る立場なのである。
 確かなことは、人格神を信じる人たちに、宇宙は今日も沈黙を守っているということだ。「神よ、なぜ私を見捨てるのですか」とキリストが十字架の上で叫んで以来、長い人類の歴史の中で、神はなぜか沈黙を守ってきた。おそらく、これからも神の沈黙は続くだろう。
 神が沈黙し続けても、なお信仰を続ける人間の強さは、いったいどこから来るのか? それは、単なる無知から来るのか、あるいは、かたくなさから来るのか。信仰の内部にいる人間の心の中には、信仰を続けていれば、いつか神が沈黙を破るだろうという思いがある。「祈り」という行為は、神の沈黙を破ろうとする動機に基づいている。信仰の内部にいる人間にとってはもちろん、私のように外部にいる人間にとっても、神が沈黙を破ることを望む気持ちが心の奥底にある。神の沈黙の問題は、神の存在、不存在にかかわるというよりは、人間という存在の持つ精神性と、そのようなものに無頓着に進行していく宇宙の成り立ちの間のずれにその本質があるように思う。

茂木健一郎『生きて死ぬ私』(ちくま文庫)より

4月 25, 2009 at 09:17 午前 |

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コメント

神は常に・・・語りかける

                聞く耳 持たぬ者のもとへ

      ちから持ち 頼らなければ ただの隣人


            決意 忘れた日傘 取りに行こう 。・

投稿: | 2009/05/08 8:24:02

5分話しをすると、1回は「茂木さんはね・・・」と
茂木さんの話を引用する63歳の茂木オタクです。

ここに書かれた
>もし神が本当にいるのならば、神はどうして沈黙しているのか?
>これは、昔から、神学上の非常に深いテーマの一つだった。

ということの答えが、今日(5月7日)にNHKで放映された
テイラー博士の闘病体験談の中に出てきましたね。
脳の言語野が故障して、初めて取り払われる垣根のようなものが
存在しているようです。

どんな天才も、脳の2割ぐらいしか使っていないそうですが、
それは、言語的、論理的に分析した場合であって
8割の部分は、それ以外の方法で偉大なる何者かと、
常に対話をするために存在しているのだと、私は思います。

投稿: | 2009/05/08 0:09:33

>もし神が本当にいるのならば、神はどうして沈黙しているのか?もし、神が人間が善良であることを望むのならば、なぜ神は人間の営みに介入して、善行だけが行われるようにしないのか。なぜ、様々な社会的不正や、暴力、矛盾をそのままに放っておくのか? 神が万能だというのは、うそに違いない。なぜならば、神は、人間が悪を行うのを止めることができないのだから。

神は人間を自分の造ったものとして愛しているからこそ、人間に自由を与えているのだと思います。アウシュビッツ、原爆、9.11を例にあげて神が現実世界に介入しないと神を否定する人がいるかもしれませんが、神は聖書を通して雄弁に語っていると思います。人間が神に背をむけて自分を神としてしまった結果がこの世の悲劇をひきおこしている、そう思います。

>何しろ、現実とは離れた観念の世界で、ネジを巻くようにギリギリと観念と観念をこすりあわせるのが、神学の役目なのだから。

神学は観念とは違うと思います。学問であっても、信仰がなければこの学問は追及していくことができないと思います。神に聴く、神との対話という行為ぬきには学ぶことができないと思います。

神は観念ではなくて、今も生きて働いていると信じるのが信仰だと思います。私もかつては、信仰とは、弱い人間が作り出す幻想なのではないか?と思うことがありました。また、私がリンゴを食べたわけでも、私がイエス・キリストを裏切ったわけでもない、と思っていました。でも罪をおかさない人間はいないですし(人間誰しも自己中心的だということ、それが罪です)、本当の意味で罪を赦すことのできるのは神しかいないのではないでしょうか。
 
>神が沈黙し続けても、なお信仰を続ける人間の強さは、いったいどこから来るのか?

強さは信じる人自身がつくりだすものではなく、神の支えがあって、神から与えられるものであると思います。強さはどこからくるか、それは罪深い自分を赦していただいたという、神の憐れみに感謝するからこそ、その神に応えたいと思うからでしょう。また、再臨信仰(終わりの日にイエス・キリストが現れるということ)を確信しているからだと思います。ただ、信仰を持っていても罪を犯さないということではありません。罪を犯しても、赦す神がいるから立ち直っていけるのだと思います。

>「祈り」という行為は、神の沈黙を破ろうとする動機に基づいている。

ほんとうに神を信じているならば、神を自分の思い通りに動かそうとは考えないと思います。また、祈りは神との対話です。一方通行ではなく、双方向的なものだと思います。「大切なものは目にはみえない」と『星の王子さま』のなかで、キツネも言っていました。神、愛、信仰、希望、すべて目には見えないものです。茂木さんがしばしば触れられる、「偶有性」のなかに神は働いている、と私は思います。

投稿: | 2009/04/30 0:21:08

 人格神の存在を仮定すると、同時に「神は何処から来たのか、神は何者なのか、神は何処へ行くのか」という命題が発生してしまい、無限ループに陥ると思われます。

投稿: 岡島 義治 | 2009/04/28 10:01:27

寄り道させて頂ました。
昔神を信じず、今は信じている者です。遠藤氏の「沈黙」も愛読しました。

私からすれば、神は沈黙ではなく隠密に働かれています。時にはイエスやお釈迦様など人を通し、万物を通して。

確かに自然の法則は自動システムで動いてると思われます。
でも神様の働きに気付かないと、プレゼントをくれた人ではなくプレゼントだけを有難がるように、自然万物をだけを拝んだりしてしまいがちです。

新井由実さんの「やさしさに包まれたなら」ではありませんが、神様のメッセージは目を開けば、あちらこちらに満ちています。

聖書に「神は霊である」とあります。人も霊があるから神様を感じることは可能です。ニーチェは神が死んだと言いましたが、死んでいたのはニーチェの霊(精神)だったとも言えます。

奇跡を見ないと神を信じないという人は多いです。でも人間というごく平穏な奇跡に気付けば、神様は遠くないと思います。
もしくは・・何十万という殉教や宗教戦争の愚行をしながらも、信仰が廃れなかった歴史が証明することでもあります。

どちらにせよ、対象が神様でなくても、人間にとって信じることは呼吸のように大切な行為。でも現代は人間さえ信じるのが難しい、希望を持ちにくい時代。

そして日本では神様など口にすると敬遠される社会。茂木先生のように「ナンセンスではなくあり得る立場」と言って頂けれるのはありがたいことです。

今後とものご活躍を祈っております。

投稿: | 2009/04/27 19:07:46

茂木先生はじめてコメントさせて頂きます

これだけ有名になっても
コメント欄を作ってあるのは
素晴らしいです

どの神について言及するのか難しく
そんなに宗教を詳しく勉強したこともないですが
沈黙の神が沈黙ゆえに存在するのは聖書なのかなと考えました
(これは人間が書いたのはという意味で)
しかし全能の神が聖書を存在させたとするなら理由が解りません
ほぼ茂木さんのブログに書かれてることと同じですが
面倒で回りくどいです
神は我々を試しているというのは全知の力からするとあり得ませんし
「どうも~」って出てこないかな~(笑)
なんかダラダラ書くのはなんなんでこのくらいにします

ちなみに僕は
けっこう出来ないことのある
ひねくれ者のスゴイ能力をもった神がいるか
宇宙の全てを構成するもの+自然法則を神と呼ぶかの
どちらかかと考えています


投稿: | 2009/04/27 18:36:42

 先日、ふと考えていました。
 人類はその歴史の中で、自らが生まれ持った力や能力を遥かに超える道具やエネルギーを作ってきました。もし神が存在するとしたら、敢えて自らよりも小さな存在を創造するでしょうか。そう考えてみると、我々の創造主は、我々が考えるより遥かに小さくて非力な存在である可能性はないでしょうか。その定義であれば、神は仮想ではなく確実に存在し得るのではないかと…。

投稿: 月の人 | 2009/04/27 5:56:09

はじめまして。

上記の「自然法則こそが神の正体である」の意見に賛成です。

曹洞宗の開祖である道元の著わした「正法眼蔵」も自然法則こそ「仏」でそのことに気付くことが「悟り」であると読めば容易に理解出来ます。

密教の大日如来もその正体は自然法則そのものだと思われます。

神は人間を守りません。自然法則の秩序を守ります。
しかし、自然法則を守ることと人間を守ることは同じ事です。

投稿: | 2009/04/27 0:52:21

明治神宮の光の川こそ神の存在に思います。深くこの事についてさ迷いまだわからない、求めてはいます。少しずつ思うのは無意識のうちに感じる日常の在り方なのかなと。一生懸命信仰を持ってそこに固執するよりも宇宙から地球、地球規模から世界、日本、そして東京、ぐーんとちっぽけなミクロの自分を感じると感覚はまたぐるりと過去に戻り渋谷の街に歴史を感じ、過去の魂と共に存在しているのだとその息を吸い込み木々を、午後の木漏れ日に神の温かみを感じています。今春を迎えまるで大木だった木々が見事に生命を感じさせるその様に人間とはと日々思います。そこで自分を立ちすくさないのは人生はドリームタイムだと。そこに自分を戻すように日々生きています。日本という国は一心教でなく今は色々混ざりあってしまったけど、古来のと繋がる今に対して思いを馳せる。この方法が答に近いのかと思います。

投稿: | 2009/04/27 0:38:59

もし神が本当にいるのならば、神はどうして沈黙しているのか?ーーー
どうしてあなた程のロマンティストがこんな愚問をされるのか、あえてブログでわいわい書かれるのか、わかりません。神は規定を超えた愛だから。。。だからこそ言葉で定義して表現したり、べらべらと理屈で語られるものではないでしょう?奥様と抱き合うとき、その大海原であなたが探すのは理屈や言葉ではなく、深い沈黙でしょう?ねこが一番よくわかっているはず!(爆)

投稿: | 2009/04/26 15:38:05

茂木先生 こんにちは♪
自然=神、だと思います。自然の脅威は凄まじく、あたかも誰かが操作しているように思えるので、人格神、が出来たのではないのでしょうか?自然も、操作している位だから、人間のやるいろんな出来事も、解決してくれるのではないかと、お願いしているのだと思います。人格神派、の方達は…?神はなぜ見ているのに、人間の悪事を止めないか、と言う問題ですけど、たとえば、浦島太郎が竜宮城から帰ってきたら、何百年も地上では時間が流れていましたけど、竜宮城では、たしか何日か、何ヵ月位でしたよね?神が宇宙を作ってから、神の中では数分しか立っていないのに、地球上では、速い時間の流れがあって、いろんな出来事が起こっても、神の中では、まだ何も起こっていない状態なのです!最後まで、時間のズレは続くので、結局、何もしてくれない!と言うことになり、人類は滅びてしまうと思います!私の頭も少し、ズレているでしょうか…笑♪

投稿: | 2009/04/26 14:06:22

茂木さん初めまして(^-^)天音(あまね)と申します。

心理学を学ぶ中で茂木さんを知り脳科学に興味を持つようになりました。

河合先生との対談では、大きな気づきをもらった気がします。ありがとうございます。

神の沈黙。

神が沈黙していることに嘆く人がいるならその人は、自分についてまだよく知らないだけだと思います。

私は時に祈りますが、信仰する者でもありません。

私は茂木さんの世界が大好きです。これからも応援しています。ブログも拝見しますね。

投稿: 天音 | 2009/04/26 3:21:30

親愛なる茂木先生様。

太陽は神だった。
太陽は雄弁に語り掛けていた事でしょう。
しかし、現在では自然法則により出来上がったもので誰も神だとは思わないですね。

アダムとイブが知恵の実を食べてエデンを追放されたと言う聖書の言葉は古代神学者の皮肉なのでしょうか?

私個人の見解は、ずばり地球は神であると信じております。自然崇拝に近いものですね。リアクションもするし、全ての人間は神の懐で死ぬ。

神は超越した万能の存在だと考えるのは、神学者ならではの発想。人間の無知を隠すための連綿とした陰謀の様な気がします。この先の時代ではますます窮屈になるでしょうね。ですが、キリストが現在に生きておられればきっと違う筋道を説いたはずです。彼は自分が神であるとは一言も言っていないし、神の本質を知っていたでしょう。

嘗てのキリストの純粋な絶え間ぬ努力が人々にもたらした恩恵と神聖は永遠だと思います。彼は話の最初に、いつも「神は語られた。」の出だしで精神の幸福を説いていた事でしょう。

私は独自の神を定義しましたが、信仰心の無い人間故かも知れません。
しかし、私の神は森を歩けば春の暖かい風と満開の桜で幸せな風景を見せてくれる。私の神は雄弁です。

私は神学者のいわゆる信仰心の無い人間ですが、神も自然法則の中に共に在って良いのではないでしょうか。

私は私の神の構造を良く知っています。ですが、その神聖は永遠なものです。申し訳ありませんが、今は深夜で眠いので、自分の言葉の真理を探る事ができませんが、私はこの先も神に感謝しながら、神と共に宇宙の成り立ちや自然法則の追及に精進していくでしょう。

最期に、何かに囚われ本当の神を見失っている現代社会。山の頂から見る景色は下界と異なり神の威光を感じます。では、お休みなさい。

投稿: | 2009/04/26 1:29:07

何ものにも依ることのない
単独なものが存在することは
縁起の法則に当てはまらず
初めに人ありき、
悩み苦しむ私達がいて
その為に仏が生まれた

以前ある先生から、
そんなお話を聞いた事があります。

南無阿弥陀仏は、声となって
わたしの口から出る。
沈黙されない仏様です。

いま味わっている宗教です。

茂木さんの中の、不在は
エイヤと飛び込んでみることで

新たな何かに出あうかもしれず

実はもう既に、出あっておられるのかもしれず

すべては感じられるままに、、。

投稿: 月のひかり | 2009/04/26 1:07:58

神の沈黙
茂木先生、私も若い頃からずっと神の存在を疑ってきました。
神さまがいらっしゃるならばどこに…?
アウシュビッツで殺戮された数知れぬユダヤの人達。
あの人達がガス室に裸で送られ、毒ガスを浴びせかけられたその瞬間に神は存在しえたでしょうか…?
広島・長崎で原子爆弾が炸裂し、無数の人々を火焔地獄に陥れたその瞬間、神は存在しえたでしょうか…?
慈悲深い神が存在するならば、何故凄惨な殺戮を止めなかったのでしょう?
マザーテレサが晩年残した印象的な書簡があります。
「私はイエスを探すが見いだせずイエスの声を求めるが聴こえない。自分の中の神は空虚だ」

マザーもイエスと同じ神の深淵に絶望したのです。
神に呼びかけても神は永遠に答えてくれません。
しかしその絶望こそが、マザーテレサがイエスその人と同化した証といえないでしょうか?
つまりイエスやマザーテレサが呼びかけていた「神」は外に存在するのではなく、内に存在するのだと。
外に呼びかけても、神が自分自身であるならば、自分で答えない限り、永遠に答えはないのです。
死という「受難」によって人は自らが信じるものに生まれ変わるのかもしれません。

投稿: | 2009/04/26 0:35:50

茂木さん、始めまして。茂木さんの番組を楽しく拝見しています。
「神は愛なり」と聖書は言います。「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられた」(Ⅰコリント15:3~4)
このことを、「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:10)
そして、イエスキリストは再臨されます。(マタイ24:30~31)
しかし再臨はいつなのかは誰も知りません。「ただ父だけが知っておられます。」(マタイ24:36)
キリスト教の神は私たちを愛していますよ。

投稿: テラシマ | 2009/04/26 0:00:55

茂木健一郎様

この書籍にも、
日々わかっていたようで
わかっていなかったことを、
言葉にしていただけて
楽にしていただいています。
茂木さんのご経験を、感性を通して
表現してくださることって、
わかりやすくって感謝しています。

投稿: Yoshiko.T | 2009/04/25 19:17:02

無頓着は、公平でフラット。。。だから、神なんだと。。人間の思考の中の善悪、幸不幸、を超えていると。。。人格神という考えから言えば、ひとつの人生の死ではなくて、もっと大きなサイクルでの、愛の完成を、考えているのかと。。。そして、宗教のもつ信仰心の中の、強い執着に基づく思考が、かえって、神から離れてしまってる、そんな気もします。。でも、、、ほんとは、よくわかりませ~ん。すみません。

投稿: | 2009/04/25 18:10:36

茂木さま
忙しい日常の合間に、時々のぞかせていただいては、いつも意識を遠くに飛ばすことを助けてくれるのが、茂木さんの文章です。とても感謝しております。
神がいるかいないかは、私もわかりません。でも本質的には、宗教も哲学も思想も芸術も、専門家のためのものではない。「人」が生きることについて考えることは専門家の仕事ではない。自分の問題です。神は沈黙を続けるでしょう。それが神の仕事だからです。神は「遠くの眼」であることが、その役割であり、その距離感が神であり、神もまた、私にとっての茂木さんの文章と同じように、必要なときに人々の意識を遠くに飛ばし、思考の確かな継続、あるいは修正、あるいはリスタートをするための装置なのだと私は考えています。
そしてその「距離」は、ときに喜びとなり、ときに悲しみとなる。「距離」そのものが変わっている訳ではないにも関わらず。人は不思議ですね。ではでは。

投稿: tamaph | 2009/04/25 17:38:57

某私立大学の物理学科B3の者です。
この記事を読んで思ったことを書きます。


>もし、神が人間が善良であることを望むのならば、なぜ神は人間の営みに介入して、善行だけが行われるようにしないのか。なぜ、様々な社会的不正や、暴力、矛盾をそのままに放っておくのか? 神が万能だというのは、うそに違いない。なぜならば、神は、人間が悪を行うのを止めることができないのだから。(茂木さんのブログより)

私は人は自由意志をもつものだと考えています。
(学部生の教養哲学程度の知識ですが、自由意志についての論争などがあることは一応知っています。)

つまり、[人⇔自由意志を持つ]と定義するならば、「人間に善行だけを行わせる」というのは“無理”なはずです。
しかし、無理というのは私の考えに反します。
(全能の)神を神と定義するならそれを“しない”と考えたほうがいいのかもしれません。
さらに、(全能の)神ならば人が(全能の)神の考えを知ることなど人にはできないはずです。

このように論理的な飛躍(仮説における段階で)があることは事実だと思います。


>だが、ここで重要なことは、立証も反証もできない以上、人格神の存在を信じるか信じないかは、その人その人の自由だということだ。かって、科学哲学者カール・ポッパーは、間違っていると反証できることが、科学が科学たるゆえんであると言った。その意味では、人格神がいるかどうかは、科学の対象ではない。(茂木さんのブログより)

私もそう思います。人格神がいることに関してはどちらでもわかりません。調べようもありません。

___________________________
しかし、神がいないとは思えないこの気持ちはいったい何なのでしょうか??
私の場合、すくなくとも物理をやっているとき、この宇宙が偶然にできた産物とは思えない。

しかし、宗教に関しては別の話です。
おそらく、ある宗教が崇拝する神を選択することは信仰によるものだと思っています。


___________________________
いろいろと考えさせてもらいありがとうございました。

投稿: | 2009/04/25 16:53:02

大昔、人間が自然の不思議に向き合った時、その森羅万象のありかたを尊いものと見出した時、人間の中に自然への尊極に対する畏敬が生まれた。それが「神」そして「信仰」というものの始まりだったはずだ。

少なくともわたしが思うに、神が沈黙を破る時、というのは、信仰を持つ持たざるに関わりなく、人間が、己の信ずるものに基づき、生を生きていく過程で、巻き起こる数々の苦難を次々と克服していく時なのかもしれない(克服出来ない苦悩もあるが)。


神よ(あるいは「仏よ」)我をこの苦しみから何卒救い給え、我の内面からこの苦しみと闘う生命力を引き出し給え、と強く念願して祈りながら、真剣に自らと向き合い、現実の苦悩と向き合い、闘い続けていくうちに、苦悩の暗黒は晴れ、苦しみを乗り越えた晴れやかな気持ちと共に、また一つ何かを“悟った”想いになる。

その時、神という存在は、初めてその沈黙を破ったことになるのだろう。

しかし、世間を見まわすに、幾ら戦争や紛争、自然破壊が巻き起こっていても、神は堅く、その大いなる沈黙を守り通している。

それはきっと、その神を信じているはずの人間たちが、欲望を制御せずに争いを繰り返しているからに違いない。

人間それ自体が本当に根本から変わることが出来たなら、要するに戦争や破壊をしたがる欲望を乗り越えたなら、神はその沈黙を破るはずだ。

何故なら、先に書いたように、神は人間の心の、想いから生まれたものだから。

投稿: 銀鏡反応 | 2009/04/25 16:36:46

『 「祈り」という行為は、神の沈黙を破ろうとする動機に基づいている。
信仰の内部にいる人間にとってはもちろん、
私のように外部にいる人間にとっても、
神が沈黙を破ることを望む気持ちが心の奥底にある。
神の沈黙の問題は、神の存在、不存在にかかわるというよりは、
人間という存在の持つ精神性と、
そのようなものに無頓着に進行していく宇宙の成り立ちの間のずれに
その本質があるように思う 』

高校生の頃、岬の丘の教会に通っていました。
カトリック教徒ではありませんでしたが、ルチアノ・マゾワキという
熊のように大きなイタリア人神父がいて、
話がおもしろく友達になりました。
ひとりで空っぽのお堂に入って手を組み、
海に沈む夕陽を浴びながら手に負えない悩みを打ち明けました。
その劇的しつらえの中で、
心の声が「届いた」と思える瞬間がありました。
だれに届いたのか辺りを見回しても、
神父は楽しそうに菜園でスペイン人のシスターと
サツマイモを掘っています。
信仰は、頭ごなしの教義がないほうが、
より素直に切実に不意打ちすると感じさせてくれる経験でした。
何を信じ、刻々の思いや行動の友とするか、
依然として大きな問題です。
人と宇宙の成り立ちの間のずれは、
ときに甘美で果てしない問答を人生に用意してくれます。
 

投稿: | 2009/04/25 16:05:15

私は孫によく質問される、「おじいちゃん、神様のパパとママはどこにいるの?」
あらゆる質問?疑問?の中でこれは究極ではないのかと、、、
私はいつも、わからないな〜
って答えるしかない。
おそらく信仰というのはまず単純に「神」に人類のパパとママの
存在を定義したい試みなのだろうと。
ただ、我々の様な者?が信仰や意味を問わなければ、そこには何も無い、「無」だ。
人類が存在しなくなったら、神も職務?を止めるのだろうか?
それとも1人ぼっちになってしまい、またしても孤独感に耐えきれず人間の様な者?を創る?
ってしまうのでしょうか???
茂木さん、この辺、うまくなにか下さい。

投稿: Damsel | 2009/04/25 15:48:05

>すなわち、宇宙自体は神が創造したとして、その後の宇宙の発展は、自然法則に従っているように見える。

その自然法則こそが神の正体なのだと、私は思っています。
http://meigentonotaiwa.blog36.fc2.com/?tag=%C0%BF%BC%C2

投稿: 本基誠大 | 2009/04/25 15:06:32

 神は万能を手に入れたが故に、その存在を消すのではないでしょうか。

投稿: 大栗 勝 | 2009/04/25 13:06:17

初めて茂木先生の日記を読ませていただきました。

私的には、神は負の感情から逃れて何かにすがりたいという気持ちそのものというか、それと常にともにある意思のようなものだと思います。
すがるものが不安定であるといけないから神は絶対的存在になったのだと。

あまりよくわからないんですけどねー
長文失礼いたしました

投稿: | 2009/04/25 12:54:48

語るにせよその反対にせよ精神はあるものでも目に見えないのは事実だと。「表現」は少しでも具体化させたいという挑戦かと。それでまたそのすべてはある全体の「システム」の一部の「機能」と言ってしまいたい欲望がある。言い切れたとしてそれはいったい何に属する「もの」なのか?際限は既存の概念から導けないのではないのか?そこで新興も含めって宗教は機能するような。「それでもいいんだよ」といってもらえると、小さな自分が何かに赦されたような安心を得れることも少なくとも私には事実である。しかし、それで問題から離脱できるわけではない。つまり、気持ちの「落としどころ」を見つけて過ぎることができる。大げさに言えば生きていける。危ういバランス、諸刃の刃。これも大袈裟な「表現」。もっと広く深く少しでも遠くへいけるように。私が途中で尽きたとしてもつないでいけるように。東京でくらしだしてから余計に思う。単身赴任者の愚痴みたいなことをつらつら書いてごめんなさい。

投稿: | 2009/04/25 12:44:45

茂木先生、こんにちわ。

今回のBlogを読んで、思う事が有り書かせて頂きます。

私のベストBOOK3の1冊が『沈黙』です。
高校生の時、これを読んでから
常に心の戸棚の中に有り出入りの多い本です。

『沈黙』は私にとって
いつもQuestionと言う感じでマトワリつきます。

それに対して、芥川龍之介さんの『奉教人の死』は
いつもAnswerと言う感じでマトワリつきます。

そして、もう1冊は『方丈記』です。
特にあの冒頭部分を思い出すだけでも
ケセラセラになります。

すべて、学生時代に読み
今も概念を探求する時に意識します。

私は、無宗教ですが“神”は好きです。
それが言葉の響きなのか、意味なのかは、解りませんが、とにかく好きです。

日本にも外国にも色々な神様が沢山います。
そして、様々な人間が沢山います。

なんか、同じ様に感じます。

そんな事を読んで思いました。

              m(_ _)m

投稿: ぱろっと | 2009/04/25 11:27:08

モギー先生おはようございます。今日も先生が好きです。笑。

信心深くないひとでも存在を疑わないならば、袋小路になったときに神仏に縋るのは、期待からくるのかな、と。
なんとかしてくれる人格神を信じたい、なんとかしてくれるはずだという期待。存在を
裏切られたと感じるのも利己的な期待のせいで、実際には問い掛けにも答えない非情な存在だとそのとき知る。
そうして存在を疑うようになる。

それは神も、愛や正義のように、抽象的な概念にすぎないということでしょうか。
人の行動の礎になり、信念にもなるもの。そのまた信念も概念で無形であるけれど、自然発生でもない、経験的なもの。
具現化しようと人間が何度も試み、それをまるでそのものであるかのように信じたくなるもの。
無形であると潜在的に理解していながら、有形であること誤解してしまうもの。

選択する自由を、ヒトの脳はいただきましたが、私には動物や虫のほうが幸せだと感じます。
なぜなら、本質を見失うことなく生きてるからで、見失ったときは悩むことなく受け入れるからです。


概念だから傍観者なのでしょうか?

朝から私にしては脳使いました。
Choco食べます。笑
ごきげんよう、先生。いい一日を。

投稿: | 2009/04/25 10:25:21

不在 沈黙より   出る

              真の渇望   普遍の個


                      対峙


      らしき沈黙  らしき不在でも   可

      真意不在で  連休沈黙 ・・・・。でも 可

               

投稿: | 2009/04/25 10:17:52

茂木健一郎さま

ワーグナーの

パルシファル

まさに。

投稿: | 2009/04/25 9:42:10

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