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2009/03/12

意識とはなにか 重版

ちくま新書『意識とはなにか』 
は重版(13刷、累計55000部)
が決定しました。

ご愛読に感謝いたします。

筑摩書房の増田健史さんからのメールです。

From: 増田健史
To: "'Ken Mogi'"
Subject: 重版のお知らせ(ちくま増田)
Date: Tue, 10 Mar 2009


茂木健一郎さま

お世話になります、ちくま新書編集部の増田です。
今年もランチビールが美味しい季節がやってきましたね。
こちらは相変わらず地べたをはいつくばりながら働く毎日
ですが、茂木さんはいかが
お過ごしですか。

さて、本日は良いニュースがあってご連絡を差し上げました。
お蔭さまをもって、ご著『意識とはなにか——〈私〉を生成する脳』
が重版になったのです。
今回は5,000部の増刷で、累計は13刷55,000部になります。
このご本は、茂木さんのストレートど真ん中で勝負いただいた
一書だけに、こうして
長く読み継がれていることに、私としても歓びは一入です。

ところで、新たにお気づきになられた修正箇所はございますか?
カバーのプロフィール等も含め、修正すべき箇所がありましたら、
ご指示いただくようお願い申し上げます。

まずは要用のみ、御礼旁々お願いまでに。

【追伸】
たまには接待らしいことをさせていただきたいので、また一度、
浅草あたりで飲みませんか?
すごく、いい店が、あります。
三月から四月にかけてご都合のつく夜があれば、
お時間を割いていただくよう願い上げます。


株式会社 筑摩書房 編集局 第2編集室
増田 健史(Takeshi Masuda)


増田健史氏

『意識とはなにか』より
__________


*「私」が「私」であることと「クオリア」の関係

 私たちが、世界の中の個物や、自分自身の心の中の表象を「クオリア」という形で認識していることは、私たちの住むこの世界に関する最も基本的な事実である。「ただいま」という音が、まさに「ただいま」でしかあり得ないように、あるいは、暗闇の中の「ギラギラ」した光が、まさに「ギラギラ」した光でしかあり得ないように、私たちは、意識の中で感じるもの全ての「あるものであること」を、ユニークな質感(クオリア)として感じている。私たちは、ギラギラ、キラキラ、ピカピカといった言葉による分節化以上のこまやかな「光の輝き」のニュアンスを、主観的体験の中でクオリアとして感じている。私たちが感じる世界の個物性を支えているのは、いわゆる言語ではなく、クオリアである。
 私たちにとって、無意識は測りがたい。私たちが意識の中で直接感じ分け、記銘し、言分けるものすべては、すべてそれぞれユニークな質感(クオリア)を伴って感じられている。もちろん、私たちは、意識で感じられるもの以外にも、膨大な無意識の情報処理が脳の中で進行しているということを知っている。しかし、私たちが意識できる世界は、すべてクオリアから成り立っているのである。「Aさんがこの時間は家にいることを知っている」という心の状態と、「Aさんがこの時間は家にいることを信じている」という心の状態の差は、クオリアとしての差である。このような、微妙なニュアンスの差を通して、私たちは世界を認識し、理解している。
 私たちが世界をクオリアを通して感じ分けているということは、「私が私であること」(自我)の核心部分に触れることのようである。私たちが、心の中で、「キラキラ」、「ギラギラ」といったクオリアを感じる時、あるいは、「ただいま」という言葉の不思議なひびきに注意を向けている時、「あるものがあるものであること」がどのように成り立っているかという問題は、そのことについて真剣に考えることを始めた瞬間、私たちを不安にさせる。第1章の最後でも触れたように、「私が私であること」の不安と、私たちがクオリアを感じるということを突き詰めていった時に生まれてくる不安は、どこか深いところで通じている。暗闇に光るオートバイのヘッドライトを見るとき、私たちはそれがあたかも世界の中に最初から存在していたように思ってしまうが、あくまでも、その「キラキラ」、「ギラギラ」というクオリアを感じているのは「私」である。クオリアはという同一性の構造は、それを感じる「私」という主観性の構造と対になって、はじめて意味を持つのである。

*クオリアと「私」の相互依存

 私たちが感じるクオリアが、「私」という主観的体験の枠組みと無関係には存在し得ないという事実は、次のようなことを考えてみてもわかる。
 夜空の星を見上げるAさんの脳の中で神経細胞が活動し、その結果「キラキラ」としたクオリアが感じられたとしよう。このクオリアは、網膜から視床を経て、大脳皮質の後頭葉の視覚領域に至る一連の神経活動によって生み出される。この時、Aさんにとっては、暗闇の中で「キラキラ」光るクオリアのユニークな個物性(あるものがあるものであること)は、それを疑うことができない、切実な事実である。Aさんにとって、その中に星空も含むこの世界は、Aさんの脳の神経細胞が作り出すさまざまなクオリアの個物性によって支えられている。
 一方、Aさんの脳を客観的な立場から観察するBさんにとってはどうだろうか? 仮に、BさんがAさんの脳の神経活動を、何らかの方法で詳細に観察できたとしよう。この時、BさんがAさんの脳を観察しているという主観的体験を支えるクオリア(個物性)を生み出しているのは、Bさん自身の脳の中の神経活動である。Bさんにとっては、Aさんの脳の一千億のニューロンの活動を全て見渡せたとしても、そこに、どのような個物性(クオリア)が生み出されているのか、直接的には明らかではない。Bさんが神経活動からクオリアが生み出される法則についてかなり詳細な知識を持っていたとして、BさんがAさんの脳の神経活動を観察して、そこに「キラキラ」としたクオリアの個物性が生み出されているのを見いだしたとしても、それは抽象的な理論の演繹によって生み出された結論に過ぎない。Aさんにとっては、一連の神経活動が、キラキラという個別性に自然で切実な体験として変換されるのに対して、Bさんにとっては、Aさんの脳の神経活動から自分のクオリア体験への自然な変換は存在しないのである。
 ある人にとって、その人の脳の神経活動が生み出すクオリアがどれほど切実な個物性(あるものがあるものであること)として立ち上がっていても、別の人にとっては、その個物性は存在しない。あるクオリアがあるクオリアであることは、それを感じる主観性(どの人がそれを感じているか)に依存してしか成立し得ない。物理学という世界の見方における最小の単位である、陽子や電子といった素粒子の個物性(あるものがあるものであること)が、どのような視点をとるかということと無関係に成り立つのに対して、私たちが感じる世界の最小の単位であるクオリアは、それを感じる「私」という制度(存在)を前提として、それと不可分のものとしてしか成立し得ない。
 クオリアという個物性は、「私」という主観性の構造に全面的に依存して成立しているのである。
 一方、「私」という主観性は、逆に、その心の中で生み出されるクオリアに強く依存している。朝目が覚めて、脳の神経活動があるしきい値を超えたときに、そこに出現するのは「私」という主観性の枠組みの中に束ねられたさまざまなクオリアの体験である。クオリアの体験の集合そのものが「私」であると言っても良い。何らのクオリアも感じない「私」という状態は、考えにくい。ひょっとしたら、仏教における瞑想体験の一段階として、そのような「私」の状態があるというような考え方があるかもしれないが、そのような仮説を無条件に受け入れることがむずかしいくらい、「私」というものが成立する上で、何らかのクオリアの体験が進行しつつあるということは不可欠であるように思われる。
 どうやら、「私」という主観性の構造と、その私の心の中で生み出されるクオリアは、お互いに強く依存し合い、絡み合っていて、ほとんど一体のものと言っても良いようなのである。

____________

3月 12, 2009 at 07:05 午前 |

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受信: 2009/04/04 21:57:46

コメント

脳のことに興味を持ったのは、5年前からで、
別々の著者さんの本を数冊本を読みましたが、茂木先生の本に出会ったのは、昨年末です。
『~勉強術』『~仕事術』を立ち読みしていたら、とても読みやすいし、わかりやすかったのです。
初めは「ネームバリューで買わないぞ」と思っていたのですが、1冊購入して読んでから、すっかりはまってしまい、3日前『脳を活かす生活術』を本屋さんでふと見つけて買いました。
昨日は、このブログを読んで、わざわざ買いに行きました。
本は好きなので、いろいろ読みますが、茂木先生の本は、まだ6冊目です。

茂木先生の感覚にどんどん惹きこまれているようです。
もっと、知りたいので、全ての著書を読破~するつもりです。
3月は、プロフェッショナルの観覧の参加と、奈良にも行きました。

茂木先生、ブログで書かれてます朝日カルチャーって東京でしか されないのですね。
関西方面で、定期的な講演の予定があればいいのになぁ…。
あぁ…気がつくと…かなり はまってしまってます。
これは脳科学的にどうなんでしょうか…(^_^;)
脳のどこかのスイッチがONになったのでしょうか?
今後offになったりもするのでしょうか?
まぁ、あまり気にしなくていいんですけれどもね。
ただ、興味があることと 好きなことに突き進んでいたら、何か別のことがまた わかるかもしれないので、楽しいですし…。

もう、学校の勉強は、とーーーっくの昔に卒業で、今さら勉強して何になると言う気もしますが、とにかく今は、知らなかったことを知ることが楽しいので…。
このブログを読むことで、ものすごく先生が身近に感じますし
こうなったら、飽きるまで(offになるまで)、とことん、はまってしまおうと思いました。

投稿: ☆ゆぅしゃん | 2009/03/14 2:05:28

『意識とはなにか』の重版おめでとうございます!!

投稿: smile | 2009/03/14 0:04:53

茂木健一郎さま

脳科学講義

素晴らしい内容で大好きなんです、価格も

ですが、あえて
文庫本としてではなく

脳とクオリア

と同じ製本と申しましょうか

価格的に高めでも

逆に申すと

凄い文庫本です。

投稿: TOKYO / HIDEKI | 2009/03/13 23:23:43

文章に引き込まれる気分でした。
私も茂木さんのような脳科学者になりたい
と思っています。
毎日お忙しいと思いますが、お体には気を付けてお過ごしください。

投稿: ELI-x | 2009/03/13 1:30:37

茂木健一郎様

クオリアのことを意識するようになり
何かふあーっと晴れた気持ちになったことを
鮮明に憶えています。

その感覚がとても幸せなことだわと感じたことも。

茂木さんにとても感謝しています。

投稿: Yoshiko.T | 2009/03/12 22:57:22

増田さんは対極する2つの自分をもってらっしゃる様に私は感じます。増田さんの声や喋り方を聴いてみたいです。
酔っ払って電話したあの時からずっと茂木さんを待ってらっしゃるのではないですか?¿?


 「私」という主観性の構造と、その私の心の中で生み出されるクオリアは、お互いに強く依存し合い、絡み合っていて、ほとんど一体のものと言っても良いようなのである。

控え目に断言なさっていますね(^^)
クオリアがなかったら”人間・生物”として生きていない、まさにコンピューターですよね!

茂木さん、今夜の月、見ましたか¿?
橙がかった濃いヤマブキの満月です。
けぶっててとてもセクシー✯✮ですよ(^^)!

投稿: 夏輝 | 2009/03/12 22:09:43

先生は、とても早い朝の時間に、この日記を執筆している傾向にあると思われますね。。

やっぱり朝という時間帯と脳との関係がなんかあったりするのかなあ。

日々おつかれさまです。

投稿: エミ | 2009/03/12 21:56:34

クオリアで
男女の“愛”の違いを理解できれば良いのに
理解が深まるかも

投稿: ukulele mam | 2009/03/12 20:33:02

親愛なる茂木先生様。
ドロシー・イーディー考古学博士をご存知ですか。
「輪廻転生」は釈迦が説いた教えではなく、密教が築いた思想ですが、大きな思想も哲学も一人の人物が打ち立てたものではなく、様々な人間模様が付着して重みが増していくものなんですね。「光」は本当のところ質量があるものなのか如何なのか?それこそ計り知れないクオリアから出来上がっています。ところで僕も復活したので、期待を裏切ろうともがんばるつもりです。

投稿: cosfeet | 2009/03/12 18:50:32

事物のクオリアを感じ取ることが「私」という意識の生成に不可分に結びついているのなら、現代の病巣の原因は、進みすぎた文明の利器がつくりだす「仮想のクオリア」ばかりに取り囲まれて、真の質感の違いを感じ取ることができにくい、つまりは「私」という意識を確たるものとして持ちにくいことにあるのかもしれません。さまざまな事物の真の質感に出会い驚きつつ「私」の感じ方の多様性を拓いていくこと、感性を刺激することで知識と行為とを「私」の意識で有機的につないでいくこと、そこに現代の教育の課題が存在するのではないかと思います。

投稿: 臼田さかえ | 2009/03/12 10:46:39

だからこそ、『自分という世界』以外の世界のスケールを地道に知っていく努力をし続ける意味があるのかもしれませんね。
対象物が『私』のみなら、(自分ではない何者かを映し鏡にし)己れにある見識の誤りを発見し、考えを軌道修正することが困難になり得るのですから。
いわゆる『一人よがり』の状態と言えましょうか。
自分の中にあるクオリアを肯定するためには、ヒトとの関わりが重要なファクターになり得るのではないのでしょうか。
なんとなく『言葉』に出来ないもやもやした感覚を、他人の言葉や言動に触れることにより、
『あ。これかもしれない』と己れの感覚に辿り着くこともよくあることだと捉えてみました。
『ギラギラ』の定義には、個人差が生じることは多々あることであるのですが、日常生活・仕事・遊びなり他人と交じることにより、真ん中の意味の『ギラギラ』の意味を解釈することが可能になるのかな…とぼんやりと思ってみました。
恥ずかしながら、先生の著書をほぼ読んだことがないので、先生の意図とは全く見当違いなことを綴ってしまっているかもしれないことをお詫び申しあげます。今朝は、脳の反応を言葉であらしめると、そういう流れがあるんだなぁ…と大変勉強になりました。
ホントに、学問は深いですね。

投稿: ゆみっち | 2009/03/12 8:44:13

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