文明の星時間 母国語の恵みと呪い
サンデー毎日連載
茂木健一郎 歴史エッセイ
『文明の星時間』 第50回 母国語の恵みと呪い
サンデー毎日 2009年2月15日号
http://www.mainichi.co.jp/syuppan/sunday/
抜粋
このような状況下で、私たちは日本語を母国語とすることの恵みと呪いを、どのようにとらえれば良いのだろうか。久しぶりに帰郷して見る親の姿に心を動かされるように、一度は母国語離れをしてみて、それから還ってくるしかないのではないか。世間から見ればちっぽけに見えても、親は親である。そう思うしかない。
私自身、かつて英国に留学し、またふだんは科学というグローバリズムの競争の中で英語の世界と取っ組み合う中で、ふと日本語の宇宙に戻ってきた時に改めて気が付くことがある。
それは、日本語の「文字」の多様性と豊饒さ。ヨーロッパの主要言語には、基本的に26種類のアルファベットしかない。ドイツ語の「ウムラウト」、フランス語の「アクサン」のような装飾記号はあるものの、大本としては、少数の表記という「元素」で森羅万象を表している。そのモノカルチャー的な風景に比べて、日本語の表記の、いかに豊饒なことか。
漢字がある。ひらがながある。カタカナがある。もちろんアルファベットも使う。このような日本語の表記の多様性こそは、私たちの母国語の恵みであり、そして呪いなのではないか。この世のさまざまが一筋縄では捉え切れないということを教えてくれる意味では、「恵み」である。一方、教育課程で長い時間をかけて漢字を習得しなければならないように、覚えるのに苦労するという意味では「呪い」である。「恵み」にしろ「呪い」にせよ、そのような母国語の下で生まれたのだから、引き受けるしかない。
全文は「サンデー毎日」でお読みください。
2月 2, 2009 at 06:27 午前 | Permalink
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コメント
茂木さん、こんばんは。
「文明の星時間」を読ませていただきました。
何だか、不思議な後味が残りました。
母国語も親もとても愛おしい存在であり、行ったり来たり
しながら、交流をしていくことが大切だと思いました。
日本語も随分と変わってきていますが、どうしてその時代
の流行語が生まれるのか、また、「ら抜き言葉」がまかり
通る様になったり・・・そこを考えると‘言葉が流れていく’
事や、‘若者言葉’だとか、コピーライターによって生まれ
る‘新語’が絶えないというのは、面白いものですね。
言葉は‘生きている’・・・と日々、実感しています。
茂木さんがおっしゃる様に、表記上、日本語は実に多様で
ひらがな、かたかな、漢字、ローマ字と私たちは使いこなして
います。
「恵み」であり、「呪い」と言われればそうなのかなー。(笑)
発音においてもたくさんのルールがあり、例えば、清音、濁音、
鼻濁音などなど・・・実に複雑ですね。
茂木さんがおっしゃる通り「母国語の下で生まれた」・・・言葉。
親がいて生まれてきた・・・自分。
どちらも「引き受けるしかない。」ですね?!
私なんぞは未だに親を超えられず・・・超えている部分もある
とは思いたいのですが、かなわないなぁ~!と思ったり。(笑)
パートナーの両親は二人とも既に他界いたしましたが、元気な
時も、また、介護を通しても多くのことを学ばせていただきました。
「生きている」「存在感」があるから!言葉も親も有難く、愛おしい。
親は居てくれるだけで十分じゃーないですか?!
結婚をすると‘義理’の関係が生まれますが、仲を取り持つ
パイプ役として大事なのは、人。
違う言語を繋ぐ言葉と言葉のパイプ役も同じ事が言えそうですね。
行き来しなければ!
温かい気持ちになり、不思議な余韻が残る内容でした。(*^。^*)
では・・・。
投稿: 茂木さんの崇拝者より | 2009/02/05 21:42:52
マスターYODAの「マンガをもっと読みなさい」を読ませていただきました。
そこで漢字は漫画になるとあります。漢字は「絵」であり、ルビは「吹き出し」の関係だとあります。
ルビや吹き出しは音声なので、実体化はしません。
文字である漢字もやはり風景や人の顔と同じく、映像なのだということが、強烈に伝わります。
母国語で世界を見ているということは、つまり、世界が漫画になったといえるのではないでしょうか。
投稿: NHK | 2009/02/04 0:26:57
問題 次の英語を日本語に訳しなさい。
I
答 私、あたし、僕、ボク、おれ、おいら、うち、わし、手前、我、己、あっし、吾・・・。
日本語とは、全くもって豊饒なることよ。日本語を母語とする私たちは、これらの使い分けや微妙なニュアンスの違いを肌で分かっている(はず)。
しかるに、これを他の言語を母語とする人に教えるとなると、まずは、使い分けを、いわばテクニカルタームとして教えなければならないのであろうか。
例えば、わし(儂)というのは、基本的に年配男子が使うものである、とか、うち、というのは、基本的に若年女子が使うものである、とか。
こういう「定義」で、本当に微妙なニュアンスはどこまで伝わるのであろうか。やはり、茂木さんが外国語習得について提唱しておられる「エピソード記憶」の威力ということを思わざるを得ないのである。
私たちが今まで蓄えてきた日本語のエピソード記憶は、思えば、すごいものではないか。上記の「うち」など、「うちは、小さい頃から・・」なんて話が始まるだけで、何も言わなくても分かることがある。
①今からこの女子の決して幸せではない過去が語られるであろう、②相当長い話になるであろう、③横で、おじさんかおばさんが、うん、うんと頷いているであろう、④この女子は話の途中から涙ぐみ始めるであろう、などなど・・。今の時節なら窓の外にみぞれが降ってくれていると、もう場面としても完璧である。
この「感じ」というのは、テクニカルタームで定型的に伝わるものではなく、日本語を母語としている者が共有、集積してきた言語物語、というべきものかと。(いやいや、あんたが見ていたのがお涙頂戴の安っぽいドラマだっただけじゃないか、というツッコミがコワイ。)
そういえば、村上春樹さんの『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は、1章ずつ「私」と「僕」と書き分けられていた・・・。あれの英訳はどうなっていたのだったか?今、思い返すと、あの時代から村上さんは、この味わいの違いを英語で出せるかな、と「世界」に挑戦しはじめたのかもしれない、と、ぼかあ、しみじみと思うのであった・・・。
おっと、ついつい茂木さんの「ぼかあ」が出てしまいました。そういえば、これも「I」の日本語訳に入りますね。定義。「ぼかあ」というのは、しみじみとした感じを語るときに使われ、基本、幸せなことを述べるときがふさわしく、できれば、加山雄三の「君といつまでも」を知っていると、その使い方に厚みができ・・・・・。
投稿: 砂山鉄夫 | 2009/02/03 1:42:04
確かに、ひらがな、カタカナ、漢字、ローマ字…我等の母国語には、覚える表記文字があまりにも多い。これだけ多様な表記文字をもつ国語は、他には全くといっていいくらい、見当たらない。
けれど、逆に見れば、英語も、中国語も、その他の言語も、それぞれに、その言語特有の「恵み」と「呪い」を含んでいるのだろう。
日本語の複雑さは、母国語としてこの言葉を喋っている私たちでさえ、結構苦労する。多彩多様な表記の他に、丁寧語・謙譲語などといった「敬語」とか、同音異義語(はし=橋、端、箸…などorたこ=凧、蛸、胼胝…など)の多さとか、表記以外でもその複雑さを覚えるのに結構苦労する。
地球に溢れる数多の言語は、みんなそれぞれ、恵みと呪いを裏表一体で、水のようにたっぷり含んでいる。
私たちは母国語を駆使する時、その水をいっしょに飲んでいる。
その水を飲むからこそ、如何に複雑な表記の母国語でも、覚えていけるのだろう。
投稿: 銀鏡反応 | 2009/02/02 22:54:56
茂木さん、本日二度目の投稿で失礼します
集中力をつけるために、タイムプレッシャーをかけて、このブログに書き込みしてます(笑)
日本語って美しいですよね!漢字ひらがなカタカナと3つ使う言語は、世界でも日本語だけだったと思います。組み合わせによる独特の語感がありますよね。源氏物語や松尾芭蕉を母国語で味わえる幸せって考えてみたら凄い。和歌や俳句といった文化も、日本は自然が豊かな国だから美しい言の葉として伝承されてきたのかもしれません…大切にしていきたいです。
日本語といえば、夏目漱石や井上靖だってノーベル文学賞をとれる世界に通用する文豪だと思います!
漱石のこころなどを英文で読んでみると、どこまで英語であの深淵を表現できるのか新鮮かもしれません。英語力つけなきゃ~って、げ!もう行かなきゃ!乱文失礼いたしました~
漱石俳句
別るるや 夢一筋の 天の川
有るだけの 菊なげいれよ 棺の中
春雨や柳の下を ぬれていく
いいですよね
\(^_^)/
投稿: 眠り猫2 | 2009/02/02 14:49:52
大学で
“日本語”を成長過程で学ぶ幼児は、
文法や文字、尊敬語等の用途を自ら分析し試して習得していく、
それはスゴイことなんだと教わりました。
生まれてからその複雑な言語を習得するのに能力を発揮しているのだと。
だから日本語を話し始めた子ども達を見るとホメてしまいます
最近は日本語が特に見直されていますね。
細部にわたり美しく表現のできる日本語を習得し
これからの子ども達にはそうして大人になってもらいたいです。
そのためには先ず、大人がお手本を見せないと
茂木先生
温泉で体調が回復されたのではないですか
投稿: ukulele mom | 2009/02/02 13:46:31
初めまして。初めてこちらを拝読し、コメントさせて頂きます。
同じことを学生時代に感じました。
第二外国語で中国語を選んだ時に、
日本において片仮名で表すものまで漢字で表すことに、
「呪い」を感じました。
「マドンナ」も「ケンタッキー」も
漢字で表す違和感は、なんともむずがゆいものでした。
日本語を勉強される方、指導される方は大変だと思いますが、
私は平仮名、片仮名、漢字、アルファベットを駆使する、
この豊かな四刀流言語が好きです。
投稿: 遙香☆やおしゃん | 2009/02/02 8:57:43