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2009/02/07

「真実の瞬間」

 ここのところ「お守り」として
レクラム文庫を持ち歩いている。

 岩波文庫発刊に当たって、
岩波茂雄さんが記した
「読書子に寄す」の中に、
「吾人は範をかのレクラム文庫にとり」 

とある。

昨年の今頃は、「これからは全部英語でやるんだ」
と言っていた。

今でも英語でどんどんという気持ちには
かわりがないが、ドイツ語でしか表現できない
ことはあり、レクラム文庫にしかないクオリアが
ある。

むろん、スペイン語でしか表せない
こともある。

たとえば、「真実の瞬間」(La hora de la verdad)
のように。

世界の数千の言語のそれぞれの中に、
熱帯雨林の豊饒がある。

その間でカオス的遍歴を繰り返す。
_________
「真実の瞬間」

 スペイン語で、「真実の瞬間」(La hora de la verdad)とは、闘牛の最後に、闘牛士が牛にとどめを刺す時を表す言葉である。そのことは、曖昧には知ってはいたが、実際にその意味をはっきりと認識したのは、セビリアで闘牛場に出かけた時のことだった。
 学会の帰りに、セビリアで半日だけ空いた。何も期待せずにぶらぶら出かけたら、その日がたまたま開催だった。もちろんチケットは売り切れていて、会場の周りに、何人かのダフ屋がいた。何回か往復し、人相を評定して、この人なら何とかなるだろうと当たりをつけた。向こうは英語が不自由だが、こちらのスペイン語も形無しである。とは言っても、そのような時に交わす言葉など決まっている。値段を確かめて、それから、「良い席なのか?」と尋ねたら、男は、誇らしげに「プレジデンテ!」と叫んだ。「プレジデンテ!」と言うからには良い席なのだろうと入ってみたら、スタジアムの最後列から3列目だった。
 スタジアムの通路は、真っ白で、その上の青空が目に染みた。舞台となるフィールドは赤みを帯びた土だった。4月末の太陽はすでに強く、白い円柱をまばゆく照らしていたが、私の座ったひさしの下の石のベンチは、ひんやりと冷たかった。
 闘牛場のように、見せ物としての殺戮のプロセスを経なくても、牛は現代社会において大量に殺されている。牛が殺されること自体に対して、センチメンタルになる権利など、よほどの徹底したベジタリアンでもなければ持ち合わせていない。だから、私の前に座ったアメリカ人のカップルが、闘牛が始まるとすぐに落ち着かなくなり、やがて女が立ち上がり、男がその後を追った時にも、私は決して同情などしなかった。それでも、闘牛士と牛の生の軌跡が、目の前で相手を殺すか殺さないかというのっぴきならぬ形で交錯していることには、それなりの感慨を抱かずにはいられなかった。
 闘牛では、全てが儀式化している。トランペットが鳴り、フィールドの中に牛が飛び込むそのタイミングも、騎馬の槍方が牛を追い回し、槍を突き立てるその様式も、プロトコルとして確立している。そのプロトコルが進むに連れて、次第に、闘牛の(そして時には、闘牛士の)死の瞬間が確実に近づいてくる。その瞬間がすでに神によって予告されたものであるかのように感じられる。確かに、その場に居合わせた全員が催眠にかかっていたのかもしれないが、勇気さえもてば、流れを止めることはできそうだった。
 私たちの意識は、予め決まった行為の選択肢を、実行するか停止するかを決めることしかできない。選択肢自体は、無意識によって用意されるのだ。自分がある行為をしようとしているということは、脳の中でその行為の準備活動が始まって約一秒後に初めて意識される。意識は、拒否権(ヴィートー)だけを持つのである。
 闘牛場を巡るしつらいと歴史が、闘牛士の無意識の中に行為の選択肢を用意させる。その行為の枝分かれの豊饒とダイナミクスに対して、観客は賛美のハンカチを振る。しかし、先に進むこともできるならば、止めることもできるはずである。全てはなかったことにして、牛は放免にし、牧場で平和な余生を送らせる。闘牛士はいたずらに自らの命を危険にさらすことなく、愛する女の元に帰る。別に、文明人面して席を立ってしまったアメリカ人カップルの肩を持つわけではないが、そのような生への転換は確かに可能なのではないか。贔屓の闘牛士の名前を大声で呼ぶスペインのおばさんの隣に座って、私はそのようなことばかり考えていた。

茂木健一郎 『脳のなかの文学』 
より。
_____________

2月 7, 2009 at 09:14 午前 |

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コメント

茂木健一郎さま

「今、ここから すべての場所へ」

拝読させて頂くことが叶い、幸福です
モヤモヤでした

セレンディピティのこと
私はセレンディピティに矛盾を感じてましたので
投稿でも事実、偶然の幸運など信じないと投稿も私には真実なことですが
拝読させて頂きセレンディピティへの記述

人間存在の大いなる矛盾を感じる感性

まさに、私は、それに近い感情ですので

ブログで紹介されています 白サギ沼 その記述が全文の中間に
茂木健一郎さま、助かりました

拝読を止めて数日後に読み始めようかな、と、いう微妙でしたので

白サギ沼の記述で
目が覚めた?と言いますか、白サギ沼の、その後のことで。

拝読を進め参りますと

「今、ここから すべての場所へ」

私はピラミッドの中の壁画を連想しました本書の中、茶色の表装より 、ですから

本文中に
ピラミッドのようなどっしりとしたモノの持つ継続性に比べて、

その記述に
茂木健一郎さまの書籍は
あたかも私にはピラミッド内部に進み入った神聖な気持ち良い心境です

そして
セレンディピティの本質
セレンディピティのクオリア 要素

本文中の記述

セレンディピティだが、本当は成功主義に着地させられるほど生やさしいものではない。
セレンディピティは、潜在的には自我を脅かし、破壊することさえある。
恐竜たちを絶滅させた地球への巨大隕石の衝突が良い例だ。

茂木健一郎さま
つまり偶然の幸運
セレンディピティは恐竜を絶滅させた隕石衝突
これこそが
セレンディピティ

私は納得です
この論理でしたらセレンディピティは、あり得ます

セレンディピティが起きたからこそ、そうでないと人類ではなく今でも恐竜が
新宿、渋谷、原宿を闊歩しているのでは!

人類を主とした論理ですけど

セレンディピティが起きた、この論理は明瞭な感覚です

私は軽々しいセレンディピティに違和感を感じていましたので

本文中には他にも

電車内のことにも

私は日曜日の新宿から町田へ、好きな感覚が

日曜日午後の急行電車内で、立っている方はいない、ポカポカした車内
私も他の方々も、うたた寝

新宿から乗車で目的地はバラバラでも、なんか不思議な仲間意識に似た感覚

この、うたた寝の電車内の空気を壊さないようにしたい!という
私だけだったかも、しれませんが
印象的でした

茂木健一郎さまも電車内のことで、お心にとの記述

私は、ほっと、させて頂けましたことも

「今、ここから すべての場所へ」

購入、拝読が叶ったことに 幸福を覚えます

投稿: TOKYO / HIDEKI | 2009/02/09 0:24:55

高く上がった太陽に照らされて、白く乾いて浮かび上がる闘牛場。

金糸銀糸のモールで飾られた勝負服を着て、颯爽と入場するマタドール。狂ったような観衆の熱狂的な大歓声。

黒く猛り狂った雄牛の登場。

カーキ色の砂埃をもうもうと舞い上がらせ、赤い裏地のマントを翻らせて、槍を一つ二つ突き立てて、猛り狂う牛と闘うマタドール。

飛び散る血潮が、毒々しいほどに真っ赤な薔薇の花びらを思わせる。

息も詰まるほどの格闘の末、牛は倒され、マタドールは歓呼の声のシャワーを浴び、英雄とたたえられる。

牛が倒れずマタドールが倒されると、闘牛場は阿鼻叫喚の声に包まれる。

流れる血、凄まじい歓呼、色とりどりの花、カーキの砂埃。闘牛場を訪れたことのない私が思うに、受難と情熱の入り混じる“血と砂”のクオリアは、闘牛ならではの「真実の瞬間」そのものなのに違いない。

投稿: 銀鏡反応 | 2009/02/08 17:03:27

おはようございます。

今回の文章を拝読中、私の頭の中では

アーサー・C・クラーク 「幼年期の終わり」

という、タイトルが何度も出てきました。

どんな関係性があるのかわかりませんが、それを確かめるために、この本を読んでみます。


いつもヒントを与えてくださり、ありがとうございます。

投稿: たーじい | 2009/02/08 9:23:09

私の場合は十数年前、セビリアでなく
バルセロナで初めて闘牛を見たのですが、
六回、La hora de la verdad を迎えるんですよね。
つまり六頭死ぬわけですが、

一頭目、とにかく悲しかった。
あんなに元気に飛び出してきた牛が段々追いつめられ、何度も刺され、弱っていく。牛が可哀想で見ていられませんでした。
とどめを刺され、馬に引きまわされてから去っていくときに、
牛が残した砂の跡をはっきりと覚えています。
どんどん流れる涙をハンカチで拭きました。

二頭目、可哀想なのですが涙は出ず、
頭でいろいろ考え始めていたような気がします。

三頭目、だんだん大きい牛が出てくるなと気づき、
ボードに出る牛の体重などを気にし始めました。

四頭目、もう悲しく無かった。

五頭目、牛の死に慣れてきたのか、ときおり笑って友人と話しながら見たような気がします。

六頭目、完全に興奮してスポーツ観戦のように「ヤレ!ヤレッ!」という気持ちになっていました。

終わってから闘牛場の裏では牛が吊され解体されていました。
湯気の立つほどまだ温かい血。
さっきあんなに生き生きとしていた牛が、
こんな肉のかたまりになってしまった、と、
また再び本当の自分が戻ってきたような…。
でも、どちらも自分なのでしょう。
そして、戦争や殺人というものがこんな感じでエスカレートして、感覚も麻痺し、やめられなくなるものなのかなと思いました。

闘牛を初めて見る人たちの脳の変化を調べると面白いかも知れませんね。ホラー映画も同じでしょうか?
やっぱり生き物が死ぬのを見るのは辛いですね。
でも…、男女の感覚の違いはあるのかも…。
ある線を越えれば女性も残酷になるのでしょうか…。

でもお肉を美味しく食べています。
目の前で殺されたのでない命を、モノとして。
本当は謝りつつ感謝しつつ、自ら収穫したものだけを食べる生活をしていれば、きっと平和なのでしょうが…。


投稿: ゆきーた | 2009/02/08 1:46:21

茂木健一郎さま

今、テレビを見ていて

フジテレビさまのスポーツニュース

アイスホッケー日本代表
貴人主将が最後の最後に決めて

一勝一敗

茂木健一郎さま

物事、潰すのは簡単ですよね、しかし
新たに構築、それを
それには何倍の経費と情熱と受難

つまり、西武アイスホッケー部を廃部は簡単ですよね
でも、再構築への
情熱と受難を考え欲しいプリンスホテルさまに

プリンスホテルさまには

プリンスホテル札幌予約センター所長さまでした小川所長さまの、お言葉が印象的

高木英樹、お前、俺の悪口を言ったな!

はい、乱暴な口調をされたので、しかし、実際は心、暖かな方さまと解り、済みません

おい、おい、高木英樹!普通はな、僕、そんなこと言ってません!誤魔化すのに、言いました?

気に入った
実は、コクド本社からの指示で独身の一人で単身、英樹が北海道でスキーの中心にする、面倒を見てくれ!コクド本社からの指示

俺はコクド本社からの指など、俺が高木英樹を気に入らなかったら面倒など見たくもない、

しかし
おい、俺のこと怖いとか周囲に言ったこと、高木英樹、お前は認め謝った
気に入った

逆にコクド本社からの指示がなくても、高木英樹、お前の面倒をみる!

そういう社風がプリンスホテルにはあったのに

今だからこそ

異国で

西武の看板を背負い、胸には日本の国旗を

そんな貴人主将がゴールを決めて

日本のアイスホッケー界を潰すことが正しいとは思えません

西武だけで維持が困難の事実であれば
他企業とともに
大きな志として

コクドアイスホッケー部出身の鈴木貴人主将

全員で一つのパックに集中し 貴人主将や全員の
これが日本のアイスホッケーだ!

最終戦で全開で!!

投稿: TOKYO / HIDEKI | 2009/02/08 1:29:15

茂木健一郎さま

闘牛で思い出しましたこと

当然、私は闘牛を観たことないですが

どこかの闘牛は

なんでも、絶体絶命のシーンに牝牛が登場し雄牛とともに帰って行く、らしいこと、どこかで読んだ記憶が、ぼんやりと

ところで、ですが

お守り

私、スキーを滑る時、
あります、これを意識していればコブクを滑ることが出来る、という
ただし、口に出したりしたら効力がなくなる、という意識も

どうこう、という滑る際の意識ではないですが
基本的なことです
単純なこと
でも、それは、それで良いかな、と


前向きになる音楽

スマップさん

オリジナル スマイル

この曲が私は好きです
人間の核心的クオリアの塊みたいな素晴らしい曲と私は思います

さて、牝牛が迎えに来てくれて雄牛も闘牛士も面目を保ちの闘牛

観衆も承知の上

牝牛が迎えに来て帰って行くのが素敵

あれは、なんで読んだのかな?かなり以前に読んだ記憶を、ふと、です

投稿: TOKYO / HIDEKI | 2009/02/08 0:20:36

意識が何かをしようと思う前に、脳は活動状態に入っていて待機しているということを知りました。
これは驚きましたが、自分が生まれてきて、
意識が芽生える年齢になるまで待機していることを考えると、それほど不思議なことではないのかもしれません。(妖怪教授)
また、自我が生じた年齢になっても、
寝ている間は、自己同一性は消えてしまい、ある意味において、体だけの存在になっているのではないでしょうか。
このようなことも指摘していただき、はじめて不思議に思うということを覚えました。

投稿: NHK | 2009/02/07 22:51:25

こんにちは

会話をする事は、クオリアの交換する事ではないでしょうか?(^^)

投稿: 言葉のクオリアby片上泰助(^^) | 2009/02/07 20:57:47

意識は、拒否権しか持たない?それは、何故??
だとすれば…心が動いて、意識しないうちに身体が動くのは、どうしてでしょう??本当の事は、あるところまで行けば(たどり着けば)分かるかしら(^o^)
岩波茂雄さんの文章、読みました。未来への希望を託した、力を感じさせました(^-^)

投稿: 奏。 | 2009/02/07 20:48:01

☆追記☆
旧約聖書の詩を調べたので、ご存知かもしれませんがお伝えいたします。

旧約聖書 伝道の書三章より

天が下 全ての事には季節があり 全てのわざには 時がある

生まるるに時があり 死ぬるに時があり 植えるに時があり 植えたものを抜くに時があり 殺すに時があり   癒やすに時があり 壊すに時あり 建てるに時があり 泣くに時があり 笑うに時があり 悲しむに時があり 踊るに時があり  石を投げるに時があり 石を集めるに時があり 抱くに時があり 抱くことをやめるに時があり 探すに時があり 失うに時があり 保つに時があり   捨てるに時があり 裂くに時があり 縫うに時があり  黙るに時があり 語るに時があり
愛するに時があり 憎むに時があり 戦うに時があり  和らぐに時がある

投稿: 眠り猫2 | 2009/02/07 19:34:09

茂木様
たまにのぞかせていただいているものです。最近気に入っているというか、気になっているPVのことを思い出しました。
http://www.youtube.com/watch?v=3CccPPDe2JU
「真実」の主体は誰なのでしょうかね。もしかしたら「拒否権」を発動しない自分、なのかもしれませんね。だけど「拒否権」を発動するからには、それなりにそのことが意味をなしていかないと、ただの文句たれ、になってしまう。そして、そのことを確信犯的に「ただの文句たれ」にしたがる社会もある。どちらも「真実」なのですね…。

投稿: tamaph | 2009/02/07 17:03:54

親愛なる茂木様

真実の瞬間は、時間がとまる時だと思います。ふだんの日常の時間が横軸で平行に流れているとすると、真実の瞬間はその時間に縦軸でくいこむ瞬間だと思います。
そんな瞬間は、いつまでも保存されるのではないでしょうか?

旧約聖書の伝道の書で、天が下すべてのわざには時があるという詩が好きです。
どのような真実の瞬間も、その瞬間にいたる銀色の時の河の流れがある…
そんなことを思いました。
そして、私はそんな時の流れをさかのぼって、ある真実の瞬間に戻りたいと思う時があります…
まぁしかし、生きるってこんなもの思いがつきものかもしれないですね…(^^ゞ

投稿: 眠り猫2 | 2009/02/07 15:42:22

先日、朝本を読みたくなって、
以前、読んだ「脳を活かす勉強法」を読み返していました。

前回、読んだとき、気がつかなかったのか、
読み流してしまっていたようですが・・・
「細切れの時間を有効に使う」のところを読んで、
ハッとしたことがあります。

ずいぶん前、あることで全国優勝したことがありました。
私は、子供の頃から「びりっかす」で、
才能があるわけではないし、
その頃は、今の10倍くらい忙しかったので、
勉強は「細切れ時間」にしかできなかったのです。
今思えば、物凄い集中力だったと思います。

「瞬間集中力」のすごさ、実は、経験していたんだって
気がつきました。
もっと活用しようと思います。

投稿: とも | 2009/02/07 12:42:06

おはようございます!(^^)!

『La hora de la verdad』……
スペイン語では、闘牛のその瞬間のクオリア。

私は『真実の瞬間』と、日本語で今日認識したので、
茂木さん語録に登録されました。
そして、私の『真実の瞬間』とは、人と人が目で会話する時です。
もしくは、

何かしらの気持ちが疎通している瞬間だと感じます。
直接で無くても、気持ちは通じあうと、私は毎日の中で理解しているつもりです。
それには、嬉しいことも、悲しいことも、ムカつくことも、滑稽で面白いこともあります。
きっと、先日感じた茂木さんの帯に寄せたコメントの謎が解けた瞬間は、
私にとって一つの真実の瞬間だったと言ってよいと思います。
『真実の瞬間』は私にとって目に見えず、本当はそこらじゅうに潜んでいます。

レクラム文庫のUniversal-Notizbuchs 。
あの書き留められたメモは好きだった!!!!
写真にうつしたい衝動に駆られました。我慢しました。

お守りを私もたくさん持ち歩いていますよ。
むしろ、私の周りのコレクション全てがお守りです(*^^)v
私は必需以外、愛あるプレゼントや手紙、一目惚れしたものやらで構成されています。
それらに囲まれている感覚が幸せです。

茂木さんだって、そうでしょ!??( ^^)♡~~♡♡♡
今日もとってもいーお天気ですねっ!!!!
素晴らしいっ!!!!

投稿: 光嶋 夏輝 | 2009/02/07 12:28:55

茂木さん、こんにちは!

2007年の5月。マドリッドの大きな闘牛場。
約2万5千人の熱気の中に、わたしはいました。

でも。座席で30分待つも、雨で中止に。しぶしぶ退散。

用意された選択肢がありながら
実行も拒否も、許されない、、。

人生には信じられないような、そんな瞬間もあり。

良くも悪くも、意識は縁の内側にあるのだと思います。


けれど、茂木さんが言われるような
『生への転換』『転じる』という事が

わたしたちの人生において
『とても大きな意味』を、持っているのだと思います。


ちなみに、殺された牛はどうなるのかと
ガイドさんに尋ねたところ。

すぐ硬くなるので、闘牛場内の解体場で解体、
闘牛の牛と明記した上で、食用に売られるとのことでした。

・・・なぜ「真実の瞬間」と言うのでしょうね、、。


茂木さん著書『脳のなかの文学』
興味深く読ませていただいています!!

投稿: 月のひかり | 2009/02/07 12:26:44

こんにちは。

日記の内容とは若干ずれることをお許しください。

土曜の昼下がり、暖かい日差しを浴びて、全てが明るい光をおびているようにみえる。待ち遠しかった春はもうじきそのヴェールを脱いで、私たちにそのはつらつした姿を見せてくれるのだろう。

時折吹く空っ風を浴びるのは、その時までの、ほんの少しの辛抱だと思えばいい。

名もなき路地を歩き歩き、道端を眺めれば、かわいらしい蘩蔞(はこべ)などの振り向きもされぬ雑草の芽が、淡い緑も鮮やかに、生き生きと瑞々しく生えている。

若草色、お納戸色、浅葱色・・・。これらの色の名前は、日本語にこうして表わすと、とても風情がある。

それぞれの中に、日本語でしか表わせない、細やかなクオリアがある。そのクオリアを春夏秋冬、目や耳で味わいつつ、自然への私たちの、デリケートな感性は長いこと磨かれ続け、またこれからも磨かれていくのだろう。

寒暖の差が激しい時期がまだまだ続くと思われるので、くれぐれもお体に気をつけてください。

投稿: 銀鏡反応 | 2009/02/07 11:54:10

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