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2009/02/16

文明の星時間 未知の贈りもの

サンデー毎日連載
茂木健一郎 歴史エッセイ
『文明の星時間』 第52回 未知の贈りもの

サンデー毎日 2009年3月1日号

http://www.mainichi.co.jp/syuppan/sunday/ 

抜粋

 自分の今までの世界観では対処できない何ものかに出会った時に、どのような態度をとるか。頑なに拒絶してしまうのか、それとも、心を開いて受容するか。その魂の態度に、人となりが現れる。
 南アフリカ生まれの生物学者ライアル・ワトソン。その著書『未知の贈りもの』は、読む者をインスパイアする力にあふれている。インドネシアの島を調査していたワトソンは、ある夜舟で海に出る。気が付くと、自分たちの下の海が輝いている。発光するイカの群れであった。
 この世のものとは思えない美しい光景に圧倒されながら、ワトソンは考える。イカの眼球のレンズは精巧に出来ている。一方、その中枢神経系は貧弱である。映る世界の一部分しか認識できないのになぜ、イカはそれほどまでに立派な目を持っているのか。
 ワトソンは思い至る。イカたちは、きっと、自分たちよりもっと大きな何ものかに代わって夜の海のありさまを見ているのだろう。だからこそ、その貧弱な脳に比べて立派すぎる眼球を持っているのであろう。
 この夜の海での体験が、ライアル・ワトソンにとっての一つの転機となる。その後『生命潮流』、『スーパーネイチュア』、『風の博物誌』など、数々のベストセラーを著すことになるナチュラリストがここに誕生するのである。
 ワトソンの考えたことが、科学的仮説として正しいかどうかということが問題なのではない。ただ一つ確かなのは、夜の海の体験のリアリティ。ワトソンは、それを信じた。未知の何ものかを自らの世界観の中に取り込もうという開かれた感性。全く同じ風景を見て、「ああ、イカが光っているのか」と片付けてしまう人もいるだろう。それでは、出会いの本質は失われてしまう。

全文は「サンデー毎日」でお読みください。

2月 16, 2009 at 06:58 午前 |

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コメント

茂木健一郎様
はじめてお便りさせていただきます。
30年まえに当地ニューヨークに流れ着いていすわり、そのくせ日本の文化に異常にあこがれつづけている者です。読ませていただいたご著書の数冊と「プロフェッショナル」の番組DVDで、実に広範囲で、斬新で、かつ深いご考察にいつも感激しております。

当方ブログ「NY金魚」で、惑星「ソラリス」の物語と、ライアルの「未知の贈りもの」そして中沢新一氏の「イカの哲学」という3冊をテキストに、『惑星ソラリスの海に泳ぐイカ』というタイトルで長い連載を書いています。とくに「未知の贈りもの」に深くとりつかれてしまい、自分の解釈をいろいろ足し算してどんどん延びてしまって、収拾がつかなくなりながらも、楽しんで書いております。
http://nyckingyo.exblog.jp/10661991/
http://nyckingyo.exblog.jp/10705932/

この記事にトラックバックを試みたのですが、うまくいかなかったので、お便りさせていただいています。超ご多忙なのに、長すぎるのでたいへん恐縮ですが、「未知の贈りもの」の稿だけでもご覧いただければ、光栄のつき当たりであります。
いまさら言うまでもありませんが、この本はライアル・ワトソンが30数年まえに書いたとは思えないほど、21世紀の現代が必要な発想にシンクロしていると思います。言い方を変えれば、それからたった30年で地球への認識は、ライアルの思いとは逆にますますおかしな方向に奔っている、とも考えられます。

 ご著書「思考の補助線」で、クオリア(感覚質)という、以前には聞き慣れなかった言葉の意味が大分理解できてきました。若いときからアーティスト(をめざしていた)思考だったので、「こころ」と「もの」を考えるときに、いつも自然にクオリアという補助線を引いていたのではないか、などと不遜なことを考えてしまいました。もちろん茂木様やライアル・ワトソン氏のように、自然科学で裏打ちされた質の高い、整合性のあるクオリアとはかけ離れたものだと思いますが、やっていることのジャンルを問わず、これからの世界をいい方向に変えていくのは、こういった精神と物質の感性的な問題で、人間の脳をとりまくことの解明をするしかない、と強く感じています。このあたりを僕なりに多方向から考えた過去の記事がたくさんありますので、興味のある方はぜひぜひ「NY金魚」をお訪ねください。

茂木様の言われる「断片化した現代の知」という認識には、まったく同感ですが、気がつけば僕もその断片をつなぐための補助線を無意識のうちにたくさん引いていた気がします。奇しくもライアルもこの本のなかで言っているように「われわれひとりひとりが時空ホログラムの破片であることを忘れてはならない、イカ的なるもの」であるわけですから、無理をしていまさら「総合性」など追っかけない姿勢で望んでいます。

「プロフェッショナル」の番組についても、書きたいことがたくさんあります。またお便りさせていただきます。
ことしも更なるご活躍を — たくさんのイカの住む海の向こうより、イカたちといっしょになって、期待しております。 NY金魚

投稿: NY金魚 | 2010/01/31 11:57:50

心動かされた時に、深く考えずに感情で表現してきたばかりだった。
ひとつづつの新しい発見との出会いに向き合えるようになってきた。
頭を使えと上司にいつも言われていた意味がわかった
目の前にあるリアルを自分の本当の心をさぐりながら理解していけると気持ちがいい 
まだまだ起きてる時間の10分の一ぐらいは妄想で過ごしているけど、、、今夜のライアル・ワトソンとの出会いにも感謝!

投稿: 栗原幸子 | 2009/02/17 4:58:18

僕は将来、天文学者、物理学者、化学者、生物学者、地球物理学者、地質学者のいずれかになりたいのですが、このような職には理系の学問のほかに具体的にどのような学問が必要なのでしょうか、また理由も含めて教えてください。茂木先生が以前テレビでダーウィンは天才だけど変人になる訓練をしなさいと言いましたがどのようにすればよいのでしょうか?

投稿: 豚丼君 | 2009/02/17 2:26:08

イカのあの美しい光は、独特ですね。

色の無い世界に存在する、色彩と形状の美。
小久保氏との対談も、思い起こされますね。

暗い闇に、海水が光を反射したり、時にはさえぎったり
僕達のあいだに存在して、記憶に深く訴えかけてきます。
これまでの 美 とは何だったのかと。


幼い頃から、人間と動物の違い、などということは、ほとんど考えず、
目の前にある すべての美しいものを、ありったけの力を使って
受け取り、自分もその一部になりたいと、努力してきたので、
一人でも多くのサイエンティストが、眠れる脳を覚醒してくれるのが嬉しいです。

投稿: 木田ひこの | 2009/02/17 2:15:16

>ワトソンの考えたことが、科学的仮説として正しいかどうかということが問題なのではない。ただ一つ確かなのは、夜の海の体験のリアリティ。ワトソンは、それを信じた。未知の何ものかを自らの世界観の中に取り込もうという開かれた感性。全く同じ風景を見て、「ああ、イカが光っているのか」と片付けてしまう人もいるだろう。それでは、出会いの本質は失われてしまう。


茂木健一郎様

茂木先生は、泣かせじょうずと言われているのではないでしょうか?
ガツン!と同時に泣けてしかたありません。

そうなんだ、そうなんだ、そうなんだ、そうなんだ、そうなんだ、
出逢いの本質。 魂の態度。

未知をもっともっと知って行こうと思います。ありがとうございます。

投稿: Yoshiko.T | 2009/02/16 22:50:28

本文と関係なくて恐縮ですが、週刊西洋の巨匠は、毎回情報更新なさらないのですか??
好きな画家を選んで買っていますが、確か次はフェルメールだったような…???

投稿: 眠り猫2 | 2009/02/16 22:41:29

イカの目の性能と、それに繋がる神経の性能
が違うと教えていただきました。
つまり、製品が高級なので、
それに付けるコンセントを間違えているということでしょうか。
 それに
イカは、セカンドブレインである腸が上で、脳が下にあるというようなことを
聞いたことがあります。

投稿: NHK | 2009/02/16 18:53:24

日本にいたときに茂木さんをテレビで拝見して茂木さんという方に大変興味を持ちました。トラックバックだけしたかったのですが、昔書いた記事でトラックバックがうまくできないようなのでコメントに直接失礼します。

人生はRPG(ロールプレイングゲーム)です。
人生は、と言い切ってしまうと反対意見があるかもしれないので、
私の人生は、と言い換えてもいいです。
この間友達にこの話をしたら、私はそういう風に自分の人生をみることはできない、といわれました。

Role Playing Game。“Role” というのは役、役割という意味ですね。
“Play” はゲームをプレイするだとか、お芝居もプレイです。演じることも英語ではplayといいます。遊びもプレイですね。”Game” はその名のとおりゲームですが、ゲームとは何か、ということになってきます。RPG、役を演じるゲーム。ゲームって何かといったらゲームは面白いからゲームをするんですよね。

日本に帰って思う存分最新のドラクエ、いわゆるRPGの代表作みたいなものをplayした私ですが、なぜ私や他の多くの人がこのgameを好んでplayするのか、といえば、面白いからです。なぜ面白いのか。

一応分からない人のために、RPGを説明すると、RPGには大抵ある主人公になるキャラクターがいて、(そのキャラは大抵ゲームのプレイヤーです)そしてそのキャラが存在できる世界があって、キャラクターにはミッションが与えられます。
そのミッションは、例えば世界を圧迫するボスキャラを倒すことであったり、
スーパーマリオのように姫をクッパから救い出すことであったり、仲間を助けることであったり、宝を手に入れることだったりします。ゲームのプレイヤーがプレイするキャラはそのミッションをこなすために更にその準備のためのミッションをこなし、力不足であればレベルをあげ、仲間が必要であれば仲間を探し、自分を磨き、次々にミッションを成し遂げ、ゲームを進めていくわけです。この、ミッションを成し遂げるために行動する、という行為がRPGをする醍醐味であると私は思います。
なぜわざわざ時間を割いてテレビの画面と向き合って何時間もゲームをプレイするのかといったらその世界を疑似体験して、ミッションをこなしていく行為に快感を覚えるからです。

さて、ここで私は人生もこのRPGと全く同じだ、と主張します。
私というキャラがつまり私が演じる役(Role)そのものです。
私はこの身体と心を役として与えられ、そして私には私が存在できる世界が与えられます。この私の存在する世界はだれが作ったのか知りませんが、ドラクエを作った人がドラクエの世界を作ったように、だれかが意思を持って作ったのかもしれませんし、たまたま生まれたものかもしれません。
とにかく私にはこの役と世界が与えられて私にはそれを認識する力があります。
そして私にはミッションがあります。私にとって生きることは様々なミッションをこなしていくことです。
例えば食べたいものがあるのでそれを食べるために食材を手に入れ料理をする。
住みたいところがあればそこに住むためにアパートを探す。
ほしい仕事を手に入れるために芝居のクラスにいって自分を磨く。
ドラクエと私の人生の違いは、ドラクエでは主人公に与えられるミッションは決められていますが、私のミッションは私の、これを手に入れたい、という欲から生まれるものです。それを除けば私の人生は全くドラクエと一緒なのです。
ミッションをこなしていく毎日。そう考えると何でも意外と面白い。
つまらなかったミッションもあります。学校がそれです。
大学を卒業するというミッションは私が先に進むためには必要なものでしたが、
ドラクエでいったら、かけられてしまった呪いを解くためにうろうろ歩いて金集め(単位集め)していた、って感じでしょうか。

先日この話を友達にしたところ、私にはそういう風に考えるのはむりだ、といわれました。なぜか、と聞くと、彼女はいいました。「私は自分の人生をそこまで客観的には見られない、」と。おっと、漢字~、客観的、っていうのもよく見ると芝居から来た言葉でしょうねえ。客が観ている、って書きますね。お芝居を見ている人は舞台で起こっている他人の人生を傍から冷静に見ているわけです。
私は私の人生を芝居のように舞台で起きている出来事として考えている、ということでしょう。
私のこの考え方は、みなさんもよく知るこの人物によって支持されています。

“All the world's a stage
And all the men and women merely players” (As you Like It)
「この世は舞台、男も女もみな役者(player)である。」(お気に召すままより)


それからこんなのもあります。

“Life's but a walking shadow, a poor player
That struts and frets his hour upon the stage
And then is heard no more. It is a tale
Told by an idiot, full of sound and fury
Signifying nothing.”  (Macbeth)
「人生は歩きまわる影法師、あわれな役者だ、
舞台の上でおおげさにみえをきっても
出場が終わればそれまで。
怒りでうるさい馬鹿がしゃべるおとぎばなし、
結局何の意味もない」
 (マクベスより)

もうお分かりですね。かのシェイクスピアは人生は舞台、の精神を彼の作品にちりばめています。
これは私の人生観にとてもマッチしています。この、自分は役者で世界は舞台、っていうのは、
私という存在は自分の認識以外ではどうにも定義できないものであって、
私それ自体は特に何の意味もないという思想から来ています。
私は小さいころから自分が認識できる自分という存在が不思議でなりませんでした。考えるにつけ結局は自分の認識以外では世界も自分も何も存在せず、
自分自身も世界ももともと空虚な存在なので、私というのはたまたま与えられた世界でなんらかの役を演じているに過ぎないのです。
私はこの私という役を演じることによって初めて、何か、になれるのです。

私は私という役(Role)を(Play)演じる、または遊ぶ(Game)ゲームをしています。そういうわけで私は人生はRPGである、と思います。


まあ私にとって次々とミッションをこなしていく毎日はドラクエのようにたのしいわけです。

投稿: yoko | 2009/02/16 18:06:26

茂木健一郎さま

今 ここから 全ての場所へ

においても印象的な記述

私、気に留まっていましたのは正しい方向性と確認できまして幸運です

投稿: TOKYO / HIDEKI | 2009/02/16 13:08:19

茂木さん、おはようございます!

文明の星時間を少し読ませていただいて
ちょうど昨日、ちらっと読んだ
天岸先生という方の、著書の一節と結びつきました。

『一滴の「水」に、無限のすばらしさ、
尊さを感じ取ることのできるこころ、
それを「さとり」といわれたのです。
それに対して、尊い恵みを受けながら、
何一つ尊さを感ずることもなく、当然のように「水」を
使っている、鈍感な感性を「迷い」といわれたのです』

まさに茂木さんが言われる通り、

心を開いて受容することができて
出会いが、真の出会いとなり。

気づかされることで
本質を、垣間見ることができるのだと思います。


投稿: 月のひかり | 2009/02/16 10:05:49

初めまして、茂木さん。 『プロフェッショナル』では知っていましたが、ブログも書かれていることを知り、初訪問させて頂きました。
今、僕は転職活動中なのですが、年齢が高いのと肩書き(役職)が低いことがネックになり、なかなか決まりません。
自惚れではなく実務能力では誰にも負けないのですが、スポーツの結果でも解りますが、若いから勝つのではなく、またキャリア(タイトルホルダー)が世界チャンピオンでも負けます。
つまり強い者が勝つのです☆
その為には気づきが必要です!!問題点をいち早く見つける能力であり、あるバラバラな事象をパズルの様に組み合わせて商品をバージョンアップする能力です☆
道が行き止まりになった時に大部分の人々はそこで諦めますが、それをトンネルを掘るなり、ダイナマイトで爆破するなりして突破する行動力(能力)が必要不可欠です♪
僕はアハ体験に似て非なるアタ体験で能力が開花しました!!

投稿: ケン | 2009/02/16 8:38:44

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