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2009/01/04

ニーチェの言葉

どこで読んだのか、ニーチェの
書いたものの中に、「古代ギリシャの人にとっては、
『専門』という言葉には意味がなかった」
という文章があって、高校生くらいの時に
とても感激したのを覚えている。

「専門」などということは、そもそも
ないのだと思っている。

たまたま、ある分野の活動を長年にわたって
やっていて、その結果精しくなっている
ということはあるかもしれないが、
人間としての存在がそれに限定される
はずもない。

だから、「脳科学者としてどう思いますか」
とか、「脳科学者としての見解を聞きたい」
などと聞かれると、以前は時折
むかっ腹を立てていたものだった。

何だか、ある特定の目的のために
自分が使われているような
気がしたのである。

最近では、割り切っている。
世間というものは、そもそも、ある個人を
判別する時に特定の旗を立て、それで
認識したがるものである。

自分だって、他人に対してそう
しがちである。
そう期待されている文脈では、応える
しかない。

肝心なのは、自身の認識と行動に
おいて、自分がある「専門」だなどと
思わないことだろう。

ニーチェの言葉は、未だに、私の
中に一つの理想としてある。

ところで、そうは言っても、科学
に取り組むことによって精神が得る
「恵み」のようなものはあるように思う。

柳川透君と議論しながら論文をいろいろと
組み立てている時にそう思う。

柳川くんの中には、神経細胞の自発的活動に
ついてシミュレーションしてきた
長い時間がある。これを学会に伝えたい
という熱い思いがある。

問題は、それをいかに客観的に、論理的に
筋道を立ててまとめるかであって、
その際の心の配り方は、とかく自己中心的で
井の中の蛙になりがちな人間にとっての
精神の修養としてかけがえのない価値が
あるように思う。

大学院で科学に取り組んで得られる
もっとも普遍的な能力は、自己の
客観化であろう。世間を見ると、そのような
魂の技術はあまり普及していないように
思われる。

昨日のQualia Journalに塩谷賢のことを
書いたら、Oliverがコメントをくれた。

Oliverはニューヨーク在住の数学専攻の
大学院生。

これまでも何回かコメントをくれている。

Oliverが同意してくれたように、
何の組織にも属さない塩谷の在り方は、
一つの理想というべきものであろう。

組織にかかわると、どうしても自分の
専門が何なのか、旗色を鮮明にせよという
圧力を受ける。

私などは、ある程度適応能力があるから、
組織とかかわっているが、
塩谷のように全く適応能力がない、
というのも、これは立派なことだと思う。

伊達や酔狂で言うのではない。本気で
言っているのである。

このところ、
柳川くんとは一日に十も二十もメールを
やりとりしているけれども、
もらったメールの一つ。

From: "Toru Yanagawa"
To: "Ken Mogi"
Subject: Re: paperのpatch

interpolationは、パッチを抽出するためにおこなっています(Fig1(e))。
周囲8マスのニューロンの平均を計算しています。
なので、速い成分は、平均化によってつぶれてしまいます。
膜電位は、NMDAの時定数が80msecぐらいなので
スパイクをうけとると、それぐらいのtime intervalで上下しています。
そういうコンポーネントが、平均化することによって失われてしまっているので、
raw dataにおける速い周波数のパワースペクトルは減少しています。



柳川透氏


1月 4, 2009 at 08:16 午前 |

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受信: 2009/01/05 8:04:20

コメント

茂木健一郎さま

ニーチェは、ルサンチマンを生命哲学に反するものとして徹底的に嫌った
読んでる私の書籍!と
問いかけのようで茂木健一郎さまの

ニーチェの言葉

ひらめきの導火線、より

今、ひらめきの導火線、拝読させて頂きまして
とても拝読しやすく
あれ?数ヶ月前と違う
そして
今までと全く違うこと

茂木健一郎さまの書籍

脳にいいことだけをやりなさい、でしたか

昨日、どこかで紛失してしまい
今ででしたら、どこで?と、考え込み
ですが
考え込んで紛失した書籍が出てくる訳ではない

紛失した書籍は、それはそれ、と!ですね
はい!
紛失した書籍を考えるのは、これで終わり
それでも?でしたら
私、買い直せば良いだけのことですね。

投稿: TOKYO / HIDEKI | 2009/01/08 21:07:18

こんにちは

生活帳に感動しました。
健一郎くんはいまと変わらずがんばりやさんだったのですね。。

先生はドイツにいらっしゃるのですか..
世界史で習ったワイマール憲法を思い出しました。

こちらはきのう、きょうと冬らしく冷たい空気です。

彼の地の新年はどのようでしょう。。
新鮮な気分になれそうですね。

投稿: M | 2009/01/08 17:21:31

はじめまして。いつも勉強の合間に読ませていただいています。

「専門」という言葉について今まで深く考えたことがありませんでした。
茂木さんのおっしゃる通り、みんな知らず知らずのうちに、「専門家だから」とか「ああいう職業だから」とか、言葉で人を縛り付けていることがありますね。私自身も気付かないうちに偏見?を持って人と接してしまっているかもしれません。
人を立場としてではなく個人で見ていけるようになりたいです。

関係のない話ですが、
私は今中学生で、茂木さんの母校である学芸大学附属を受験します。
頑張ってきます(^^)

それでは、さようなら。

匿名さん

受験、がんばってください!
自分を信じて、少しずつハードル
を高くしてそれを超えていくのです。

茂木健一郎

投稿: 匿名 | 2009/01/05 18:06:04

 僕の小さい頃は、『何でも良いから、一つ自分の得意なことを極める』事が、美徳とされていた感がありますねぇ…

 自分の専門以外のことには、常識でも首を傾げるような「専門バカ」像に憧れていたというところもありますね。

 そんなわけで、高校辺りから、「僕は理系だから…」と英語を切り、「僕は物理学者になりたいから…」と化学を切り、「物理に必要な数式さえ分かればいいから…」と数学を切り、「僕は理論物理学者になるんだから…」と実験を切り…
 だいぶ勉強が出来なくなっていた時期とはいえ、振り返ってみれば、見事な逃亡人生です(苦笑)。

 何とゆーか、余裕がなかったとは言え、それすなわち「メンタル弱ぇなぁ…自分…」って事だよなぁ…

投稿: 岡島 義治 | 2009/01/05 16:26:16

茂木さん おはようございます!!
今日も美しい朝ですね。

素晴らしい一日が開けている気がします!

いってらっしゃーい!!

 ―――行ってきまーす!!

投稿: 光嶋 夏輝 | 2009/01/05 7:45:01

ゴールド色をゴールド色だと感じることと、文字の意味を感じることは、クオリアの中のクオリアの聖域では、構造(想像)が違うのかもしれません。

投稿: NHK | 2009/01/05 0:27:20

あけましておめでとうございます。初めてコメントさせていただきます。いつも携帯にてブログを読ませていただいています。あまり更新しない自身のブログに、本日ニーチェについて書いたら茂木さんのこのブログにも彼が登場し、嬉しくなってコメントしてみることにしました。しかも、客観の話だし。こちらが書いた話はまたちょっと違う方向性のものですが… こちらが主に書いているのは舞台俳優に向けたなんやかんやです。あ、演出家として自分の劇団を持っているので、結果的にそういう話ばかりになるのですが… 
実際に劇場にて観客席を持ち、具体的に人間が他人を演じる舞台演劇という世界では、客観と主観の問題は永遠のテーマです。常にそれと格闘している感じです。これからもこのブログを読ませていただき、インスピレーションを得たりさせていただきたいと思います。
あ、演出家、と書きましたが僕も肩書きとやってることが多すぎて、一つにしろ、とか、はっきりしろって言われ続けています(笑)

投稿: 長堀博士 | 2009/01/04 22:16:16

茂木健一郎様
神経細胞には、自発的活動があるのですか!不思議です、どの様な活動なのかとても興味があります… 楽しみにしております☆

投稿: mak | 2009/01/04 20:04:06

職業の名前の中に、専門、というのが入る仕事をやっていますが、それは私がこの狭っ苦しい世界に入ったばかりの頃、一緒に働いていた人から あなたは専門職じゃない つまり立派な資格を何ひとつ持ってないと馬鹿にされたことが原動力になったと思います。こんな諦めの早い私がくねくねやりながらも同じ世界にいることはもはや奇跡的!
だとすればあのとき、へへーんだ専門ばか!とは言い返せなかった自分の意気地の無ささと彼女の暴言にも何の感情もも必要ないわけですね。チクリと刺さる小さいトゲトゲが私の面積を増やしている気がするんですが、厄介なことにそれらすべてに何かの感情の袋がくっついてるんですよね。

投稿: プンスカ | 2009/01/04 19:58:48

茂木健一郎さま

しがらみ!

恰好良いですよね

しがらみがあって!と

何か組織の一員みたく
周囲にさりげなく示す

私のスキーでは
しがらみ、は、全くなく
スキーブーツのラング、スキー板のデイナスターのテスター、松ノ木さまのスキークラブに所属の時でさえ

松ノ木敏雄さま

高木くん、僕がラング、デイナスターのテスターだから、で、義理人情でラング、デイナスターにしないでくれ!高木くんが使いたいブーツとスキー板に!
分かりました!
当時、当初、ラングのを買った後にヤマハというメーカーがスキーブーツを生産していてヤマハを購入、周囲から、高木さん、さすがに、まずいよ!

例えば、トヨタの車で日産本社に行きトヨタ最高!それ位の暴挙と言われ
松ノ木さまの元にラングのスキーブーツを買いに、車で移動の際

高木くんスキーブーツは何?

偶然ですが嫌なこと聞かれ 松ノ木さまは私がラングを買った後、くるぶし、が、当たり痛くヤマハのを一週間だけ使用は知らないハズ
でも正直に
今はヤマハですがラングのが良いと判断し再度購入と、今はヤマハです

茂木健一郎さま
車の中、シーンと、時計をみてましたら十分間の沈黙のあと

高木くん、今、スキーブーツは何?

同じこと聞かれ

なんだ!聞こえてないんだ!


ヤマハ!!!ヤマハのスキーブーツです!

聞こえるように申すと

その時は冷や汗って、あんなにも出るんですね、私、びっくりしましたが
しがらみ、などは感じなく、あ!当たり前なんですね!!

スキー板も
今回、ロシニョールさまを選びましたがデイナスターにはモーグルのスキー板がないので
でも、偶然、ロシニョール・ジャパンさまよりロシニョールのモーグルスキーは届かず、代わりにデイナスターのスキー板の新品を貸与で元気に北海道でスキーですが

本当、スキーで
しがらみ、など
一度も感じたことは私はない、です。

しがらみ、が、などがある組織は大変ですね

しがらみ、が、ある、など申したら普通
どういうこと?
組織の長から
ちよっと、目の前に連れてこい!
ウチの組織で、しがらみ?

具体的に教えてくれないかな、しがらみ?あるの?

聞かれないのかな?

私は義理人情ではスキー道具を選んだことないので
当たり前にスキーブーツはラングのです
スキー板はモーグルのが好き。

投稿: TOKYO / HIDEKI | 2009/01/04 19:04:38

親愛なる茂木様
古代ギリシャは西洋の思想や科学の源流だと思いま~す。憧れの世界です。
「古代ギリシャにおいては専門という言葉に意味はなかった」
この言葉に高校の時の恩師が、学問はすべて一つに繋がると仰っていたのを思い出しました。
塩谷さんかっこいいです!フリーランスジャーナリストが存在するようにフリーランスフィロソファーの存在は貴重です。特に思想を柱とする方にとってフリーランスであることの意義は重大なのでは?!と思います。
自由といえば、日本は二次大戦で負けて、運よくアメリカから自由を与えられましたが、ではこの与えられた自由って何?となった時に私は答えられません(汗)
自由って難しい…
さて、今夜は茂木さんの「生きて死ぬ私」をよみきりたいと思います。
それでは失礼いたしますm(_ _)m
追伸
ー学者とは書物を読破した人。思想家、天才とは人類の蒙を開きその前進を即す者で世界という書物を直接読破した人のことであるー
ショーペンハウエル氏の言葉。 茂木さんみたいです(^o^;)

投稿: 眠り猫2 | 2009/01/04 18:16:13

自身の気持ちを自分の言葉で伝えたいですね。
ただ…その時、緊張しているからとか…(自分が緊張していて)沈黙があっても焦らない事。
私から話しかけ、ある種の沈黙があると…ドキドキですし、どうして良いか分からなくなってしまいます。
そして、私は、こう思っていた(今、こう思っている)けれど、あなたは?といった、相手の方への心配りも大切と言うことを考えています。
私は、こう考えいる。だけなら、コミュニケーションが成り立っていかないですもんね。ドキドキしてしまうと、こういった話し方になりがちなので、気を付けなくては!と思います。

投稿: 奏。 | 2009/01/04 17:53:50

茂木先生こんにちは♪深く考えさせられる記事なのだなあ、と拝させて頂きました。以前報道2001にて「学ぶということは生き方を学んでいるのだ」というような先生のお言葉にハッとしたのですが、同じ思いにさせられました。
「専門」などと思わないことは“自分をなにものか決めつけるな”と、つながるのでしょうか。
科学を学ぶということは、自己の客観化を身につけることになるのですね。こういう眼をもつ事はとても大切なことだと思いました。私も自己中な人間にならぬよう、時に客観的に自分を見つめ反省せねばならん、と。先生のお言葉からは、本当にいつも沢山の気づきをいただくのです!
ご著書や脳科学に興味をもったのは(まだまだ理解できていませんが)、やはり大尊敬する茂木先生のお人柄、生きざまに惹かれたに他ならないのです。愛する人達の愛するものには、自然と興味がわき、自分も触発されます。そして、先生の書籍などすらすらと読めない自分の無知さに、ああちゃんと勉強しておけば良かったと幾度も嘆くわけです。だからこそ少しでも勉強しよう!という気が起きるのですが。
先生いつもお忙しい中毎朝の更新、本年に有難うございます。午後からも先生にとって素敵な時間となりま

投稿: wahine | 2009/01/04 15:52:45

おはようございます!
茂木さん、私、昨日その言葉にゲーテで出会った気がしたのです。
「うわっ」と思って大急ぎで探したのですが見つからなかった。
2日前に立ち読みしたニーチェだったのかしら…。
「若い時は、興味が散漫のため忘れっぽく、年をとると、興味の欠乏のため忘れっぽい。」byゲーテ  前者だと思います!

私も、専門なんて意味を成さない と思います。
先日ラジオで「社会経済学から考えると…、社会経済学の立場からは…。」と、質問の度に「社会経済学」をくっつけているナビゲーターがいました。同じ言葉を繰り返し聴く事でさえ我慢が必要なのに、なぜ、「あなたは社会経済学者で、その事で必要としている」のだという事を一々確認させられなければならないのか。
その人・人格が先で、技能・能力はそれに付随したものではないのか。
私は ″茂木健一郎″ という全体が先で、″脳科学者・またはそれら周辺に考えを巡らす人″という事は 茂木さんを形成する大きな一部 であると捉えています。
だから、少なくとも私は″脳科学者″だから茂木さんを慕っているのではありません。
他人の認識に応える茂木さんは歳を経て寛大になっているのでしょう。
それは、茂木さんの顔や姿を見たら分かります。

私はこの先、茂木さんと柳川君が議論している内容は理解しません。
もうそれについては、任せる他ないと思います。
「憧れと努力が行為と能力につり合わぬ様な人間」になりかねないからです。
興味の赴くところに個々の世界は広がっているのですよね。

投稿: 光嶋 夏輝 | 2009/01/04 11:05:45

茂木健一郎さん

確か本で読んだと思うのですが、ある人物が職業を聞かれて私の職業は、人間ですと。そういう発想、そう言えるという事は。。。。

投稿: mak | 2009/01/04 10:51:50

おはようございます モギー先生

標識…
カギカッコ好き…
仕方なしなんですかね。
組織に属さなくても、ご身分シールは貼られますよね。
本人については知らないが、この専門に分布されてますよ、てな感じの専門マップシール。
おおざっぱな出来のシール。
通りすがり人の道しるべにはなりますけども。
「あー、このことはあの人あたりに聞いてみよう」的展開がしやすくはなりますが。
個人の叫びは蓋される記号化かな…あ。
複合したもろもろをいろんな角度から個別に認識するより、
単純化したほうが情報処理しやすいからですかね。

認識の仕組みを目指すところは知識そのものをえることじゃない、事物をわがものにすることだー。ニーチェは哲学者シールを貼られたことを悔しがってるかなあ。

自分がどんな種類の分布マップかはわかりませんけど、世界マップなら皆や先生と、同じ上におります。
だれもが気軽に、夢追い人シールとか芸術愛好家シールとか、自作シールを貼れる場所がブログなんでしょうかね…。


膜電位やらニューロンやら大好きなのに、受験勉強となると拒否反応がでます…。
暗記セントラルドグマ。

モギー先生。
今日も一日笑顔でお過ごしくださいね。

投稿: | 2009/01/04 10:20:46

おはようございます。

世間と言うものは、おっしゃるように一個人を認識する時、そこに「特定」の旗を立てたがるもので、そうしないと認識できないと“思いこんで”いるのかもしれない。

一般人がまるっきり何の専門性に心まで縛りつけられず、完全なフリーランスで生きるのには、ある意味大きな覚悟と勇気が要るようにしか思えない。

ある特定の専門性に精神まで縛りつけられず、如何なる組織にも与しない生きかたを自分のようなものが貫くのは、今のところ非常に不可能に近い。

ただ、ひとつの考えかたがある。それは「何処へ行こうと、何処そこの組織に属していようと、魂だけは『自由』なのだ」ということだ。

身体は社会に、組織に属しているけれど、心まではそれに縛られたくない、と思っている。

それに一口に「組織」と言っても、属することによって人間性をスポイルされる組織と、そうではなく、人間性を深く涵養する組織もあることだろう。

どうせ組織に属するなら、後者のほうに属したいものだ。

何処へ行っても、心はフリーランスでいたいと、常に思う。

柳川さんへの茂木さんの思いの中に、何処までも愛弟子の成長を見守っていこう、そして立派に育てていこうとする「慈愛」をみる思いがした。

どんな人でも、厳しくも暖かい「慈愛」のシャワーを注いで育っていくと、人間的にも素晴らしい人材に育っていく。

茂木さんはまさに、その慈愛のシャワーを若者たちに注いでおられるのだなと、改めて感じた。

さて、正月休みもそろそろエンディング。きょうが博士や、皆様にとって無事故でよい1日でありますよう…!

投稿: 銀鏡反応 | 2009/01/04 9:31:25

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