「日常」しかない
中心街に向かう。大通りに面した何の変哲もない建物の前で、ブリギットが立ち止まった。
「ここが、作曲家リヒャルト・ワグナーが生まれた家があったところです。1813年の月日に、ワグナーはここで生まれたのです。」
その言葉を聞いたとたんに、自分が今まさに「聖地」を訪れているのだという事実が再び思い起こされた。
ワグナーがライプツィッヒ生まれだということは、もちろん、知識としては知っていた。ところが、次から次へと追われる日常が、さまざまなことを失念させていた。チューリンゲン地方の小さな街を後にして、たどり着いた都会の冴え冴えとした光景。その有り様が、敬愛する作曲家の生まれた場所という「知識」には結びつかなかったのである。
ブリギットの言葉で、心の中でさまざまなものが雪解けを迎えた。気付いてみれば、ワイマールやエアフルトの厳寒に比べた時には、空気の底にあたかも春の気配が忍び寄っているかのようだ。
東ドイツ(GDR)時代に建造されたという簡素な設計の建物。その外観があまりにも粗野だというので、やがてなくなるまでの一時的な対処として、銀色の覆いで包んだ。ところが今度は、その「鉛の箱」のような外観に皆が親しみを持つようになった。ライプツィッヒ市民ならば知らないものは誰もいないという存在になった。それで、今ではかえって撤去しにくくなってしまったのだという。
ドイツ音楽に偉大な足跡を残した作曲家の生誕地の現状が、このような建物だということが無念だとでもいうのだろうか。今は使われていない区画のガラス窓に、「ここがワグナーの生誕地」「リヒャルト・ワグナーはここで生まれた」などとポスターが張られている。
建物をぐるりと回り込むと、そこにもポスターがあった。「この場所に、1886年まで、リヒャルト・ワグナーの生誕した家があった」と書かれている。
さらには、横の壁には巨大な垂れ幕まであった。「リヒャルトはライプツィッヒ市民」という大きな文字の下に、ワグナーの横顔。さらに下には、「リヒャルト・ワグナーは1813年5月22日にライプツィッヒに生まれた。ここに彼の生家がある! リヒャルト・ワグナー愛好会ライプツィヒ支部」と書かれている。
どんな人にも、生活に与えられた時間や空間は平等である。皆、その中でやりくりをして来たのだ。当たり前のことだが、その場所に行けば、聖地は「日常」となる。そもそも、最初から、この世には「日常」しかないのだ。そのような人生の真実は、チューリンゲン地方やライプツィッヒを旅している間、何回か不意打ちのように私の心を打った。
ブリギットに言われるままにライプツィッヒの中心街を歩いていて、開けたスカイラインの中に唐突にその姿はあった。聖トマス教会。ヨハン・セバスチャン・バッハが、1723年にカントールの職に就いて以来、亡くなる1750年までの27年間を過ごした場所。多くの傑作が書かれ、上演された祈りの場。バッハの音楽宇宙の中心だった場所が、ふと見上げるともう自分の目の前にあった。
淡雪に包まれたその姿は、どれほど優美な印象で心に迫ってくることだろう。何よりも目を惹くのは、塔を中心とした、クリーム色を基調としたやさしい色遣いであった。聖堂の主要部の石造りの風合いは、教会というものが心にどのような刻印を残すかという私たちの観念に奇麗に適合している。一方、塔を中心とした白い部分は、「謹厳」よりは「溶解」、「峻別」よりは「抱擁」を旨としているかのようで、若々しい女性的な印象を与えた。まるで石畳の都会を離れて緑あふれる郊外の丘に遊んでいるかのような、そんなうきうきとした心の動きを引き起こす。
一方では『マタイ受難曲』や『ロ短調ミサ曲』のような構えの大きい宗教曲を作り、他方では『コーヒー・カンタータ』のような戯れに満ちた世俗曲を残したバッハ。その日々の仕事の場として、目の前に建つ聖トマス教会はいかにもふさわしかった。
1月 12, 2009 at 07:51 午後 | Permalink
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「○○○○○○○のためのエチュード」
連載第11回
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(『イタリア使節の幕末見聞記』V・F・アルミニヨン
伊国マジェンタ号艦長海軍中佐
1866年訪日)
ごく小さい細工品を仕上げる
精密さと巧妙さという点に... [続きを読む]
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昨日の午後、寒さも少し緩み、
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気になっていた、神戸の西にある塩屋のグッケンハイム邸へと向かった。 [続きを読む]
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コメント
先生の日記を拝見し、情景が思い浮かび旅行している気分になりました。偉大な人達の「日常」。先生のようなお忙しい日常。そして、子育てや仕事に追いまくられながら、このアンポ柿は美味しいと言ってる普通の主婦の日常。すべて同じ時間を過ごしていたりするんですよね。
考えさせられます。
この世に名前は残せずとも
「いい人生でした」と最期に言って死ねたらいいなぁ。
投稿: とも | 2009/01/13 22:40:25
茂木健一郎さま
ゲヴァントハウス
カラヤンとBPOも演奏したホール
もちろんゲヴァントハウス管弦楽団の本拠地
クルト・マズアさんの指揮でゲヴァントハウス管弦楽団 東京公演
かなり以前に参ったことがあります。
メンデルスゾーンの 真夏の夜の夢 も演奏されたコンサートに
結婚式で定番の あの曲 パァ・パ・パ・パーアーン
パァ・パ・パ・パーアーン パァ・パ・パ・パーアーン
パァ・パ・パ・パーアーン
パァ・パ・パ・パーアーン パァ・パ・パ・パーアーン パ・パ
ジャーン ジャ ・ジャ ・ジャ ・ジャジャジャ なーんとらかん
こんな感じ
ミラノといえば スカラ
皇帝 ムーティー
イタリアオペラ!! です。
投稿: TOKYO / HIDEKI | 2009/01/13 20:57:04
凛とした空気を感じながら、メッセージ拝見しています。
茂木さんの言葉と写真を通して伝わってくるこの感覚は
なんとも不思議なものです。
きっと、豊かな時間を過ごしておられるのだと思って
おります。
「脳の中の文学」を読みはじめました。
いろんなものが胸にぐさぐさ刺さってくるような、何かが
迫ってくるような感じを自分の中で咀嚼しているところ
です。
茂木さんが旅の途中で送ってくださる言葉と響きあって
います。
投稿: yuzuriha | 2009/01/13 17:20:56
茂木さん、こんにちは☆
ワーグナーの生まれ故郷、
ライプツィッヒに住む人々にとっては
茂木さんが感じたように
ワーグナーの存在もごく自然に、日常になっているのかしら。
バッハのお墓がある聖トマス教会も
実際に足を踏み入れたこともなく
バッハの歴史本などでしか知りえない名前で
遠い音楽史を感じさせる特別な場所。
でもきっとその地に生活する人々にとっては
やはり自然な日常の場なんでしょうね。
茂木さんが見せてくれる風景は
とっても世界観を広げてくれます♪
只今、インフルエンザ回復中ですが
茂木さんも風邪に気をつけてくださいね!
投稿: Loly | 2009/01/13 12:17:29
「生きて死ぬ私」同時に求めた寺田寅彦随筆集を読了。
子供の頃大きな波が次に来る事を知っていたのに
満員電車に揺られている大人の私の日常って・・・・・
見えることと見えないこと
先日勧めて下さった「脳と仮想」を繰るのが楽しみです。
足るを知る・・・知るはまだまだ足りません。
どうぞ良い旅を。
投稿: 黒毛和牛 | 2009/01/13 6:00:25
こんにちわ
音楽は、みんなに同じ旋律のクオリアを持たす事が出来る。
ワグナーやバッハはどれだけ、時間と空間を超え、旋律のクオリアの同一性をみんなに生んだのだろう。(^^)
投稿: 旋律のクオリアby片上泰助(^^) | 2009/01/13 4:23:04
かつて、作家の辻邦生さんは、
「バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームス、シューマン、ワーグナー、ブルックナーとつづく偉大な感性と思索の伝統を考える」と記しました(「モンマルトル日記」より)。
今、茂木さんがその感性と思索の旅の現場に。何か、とんでもないものが生まれる予感が・・・。
「私の人生は、既に音楽の領域に足を踏み入れてしまったのかもしれない。」(『すべては音楽から生まれる』より)
茂木さん、ホ、ホンキだ・・・。
投稿: 砂山鉄夫 | 2009/01/13 1:34:43
茂木先生こんばんは♪ブリギットの言葉で心の中で様々なものが雪解けを迎えた。,空気の底にあたかも春の気配が忍び寄っているかのよう…いつもお忙しくされている先生に優しい時間が訪れたように感じさせていただき、1読者としても嬉しい心持ちになりました。
ワグナーの生家の画像、想像していたものと真逆な光景に愕然としました。。初めて京都に行った時にショックを受けた事を思い出します。
聖地は「日常」となる…非常に深いお言葉で、そのような人生の真実大変難しく。聖地が日常にと思うと無常のような虚しさを覚え、また逆に日常の中にも聖地があるのだ、と思うと心も弾みますが。日常というものはそういうものが色々交差しているのでしょうか。まあ現実はシビアですよね。平凡な日々のち時々刺激をが私の理想です。ヾ( ̄∀ ̄)実際は・・・ですが。(笑;)
投稿: wahine | 2009/01/13 0:47:06
茂木さん、こんばんは。
素敵な写真と旅の日記をありがとうございます。
ワイマールでゲーテの生と死を見つめ、ライプツィッヒでは偉大な作曲家の誕生の地と、人生の最後を過ごした場所を、茂木さんのお話し付きで見ることができ、とても嬉しいです。
どんな旅行の本にも勝りますよね。
それにしても、ワーグナー生誕の場所、デカデカとした垂れ幕?が確かに意外で、可笑しくもあり、なんとなくローレライの岩に付けられた字のような感もあり。私も思わず写真に撮ってしまうだろうなあ。。。
そしてやはり、私もドイツ東部に旅してみたくなりました。
ベルリン、ポツダム、ドレスデン、そして茂木さんの訪れたエアフルト、ワイマール、ライプツィッヒの街を、自分の足で。
願わくば実際の陽光溢れる初夏の日に。
ところで、食べ物はどんな感じでしたのかしらん?
ソーセージやパンは、やっぱりものすごく美味しいのかしら。。。
それにドイツと言えばビールやワインですが、茂木さんは存分に楽しまれましたか?
投稿: 楠 | 2009/01/13 0:43:42
茂木さんの言葉…深く深く私の心へ入ってきます。
甘美な響きがします。
聖トマス教会…とても素敵で。ため息が出てしまいます。私も行ってみたいなぁ!
非日常から日常へ。と、戻る。何故だか、この言葉が浮かびます。
ささやかな日常は、ささやかでありつつ、でもそこに流れている毎日の生活は、幸せに満ちているものとしたい!と、ここ最近、考えています。
投稿: 奏。 | 2009/01/12 22:05:45
そうですね、聖地とて「日常」という時間と空間の中にありますものね。そんなことに思いをめぐらすと、毎日が愛しくなりますね。
投稿: ふぉれすと | 2009/01/12 21:46:08
すごいです
こんなとこに座って前の情報にふれていると
リアルタイムな今の情報がとてもここちよいです
今すぐ飛び出してそこへと向かいたい気持ちがうまれてきます
投稿: たか | 2009/01/12 21:23:47
茂木さん!今まさにバッハを聴いてます。リヒターの弾くチェンバロ協奏曲です。
あぁ美しい…
魂が青い清冽な湖で洗われるようです。
リヒター大好きです!バッハの生まれ変わりかもしれませんね?チェンバロ協奏曲の前は無伴奏シャコンヌを聴いてました。シャコンヌは真冬の星空みたいです。
バッハは美しい自然を音に結晶化したのでしょうか…バッハを聴くと永遠の世界への扉が開かれる…そんなビジョンがあります。
聖トマス教会、写真で拝見し茂木さんの文章を読んだら、マリアさまのイメージになりました。うら若きマリアさまがクリーム色のベールをまとって、微笑んでる。そんなイメージです。
投稿: 眠り猫2 | 2009/01/12 21:11:06
茂木健一郎様
何かに夢をみてもやはり、日常しかないのですよね。あぁでもだからこそ、例えばサンタクロースを信じる様な気持ちを忘れたくない。繰り返し繰り返えされる日常を前に。。。
茂木さん、お気を付けて旅を楽しまれて下さいね
投稿: m | 2009/01/12 20:53:34
“すべては日常しかない”…ヴァーグナーも、バッハも、そしてゲーテもシラーも、煩雑な日常と寄りそうなかで、珠玉の言葉を紡ぎ、響きを生み出してきたのだろう。
いや、地球上のすべての藝術家が、日常の一見、何でもない時間の流れの中で、自分の創造したいものを創り続けたのだ…。
日常から完全に離れてしまったところで、魂をゆすり、薫り高いクオリアを、その藝術に触れる者から引き出す「藝術」という名の宝石は、見出せないのかもしれない。日常がなければ、バッハも「珈琲カンタータ」を作曲することはなかったかもしれない。
何気ない日々の積み重ねの中で、営々と、美を作り上げ、あるいは哲理を育ててきた、彼等に学ぶことは、あまりにも多いと感じている。
投稿: 銀鏡反応 | 2009/01/12 20:36:53