« 水成論と火成論 | トップページ | 小林秀雄の響き »

2008/11/11

智恵の象徴


サンデー毎日
2008年11月23日号

茂木健一郎 
歴史エッセイ
『文明の星時間』

第39回 智恵の象徴


一部抜粋

 1954年6月。チューリングがベッドで死んでいるのが発見される。死因は、ベッドの横に置かれた食べかけのリンゴに混入した青酸化合物による中毒。自殺をしたものと公式に推定された。チューリングの母親は、「化学実験をしている間に誤って混入してしまったのだろう」と息子の自殺を最後まで信じなかった。
 チューリングがゲイでなかったら、コンピュータが人間のふりをするという「チューリング・テスト」を考えつくこともなかったかもしれない。純粋な数学と論理の世界を突き動かした、あまりにも人間的な物語。
 「智恵の象徴」であるリンゴを残し、「コンピュータの父」はこの世を去った。その「思い」の残照を受けて、私たちは生きている。

全文は「サンデー毎日」でお読みください。

http://www.mainichi.co.jp/syuppan/sunday/ 

11月 11, 2008 at 07:42 午前 |

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 智恵の象徴:

コメント

チューリングという人が、40代の若さで亡くなっていたことも、
自殺だったかも知れないことも、同性愛者だったことも、
記事を読んで初めて知りました。
当時の英国で、同性愛が正式に「違法」だった、というのも驚きました。

自殺という推定が正しいとしたら、歴史に残るような天才的な人が、
なぜ、死を選ぶほど絶望したのだろう、と思います。
うつ病のような状態になっていたのでしょうか?
もし、同性愛が認められていたら、彼は新しい人間関係を築き
絶望から救われていたのでしょうか?

人間である以上、他者と関わらずに生きている人はいないと思います
(関わり方の種類や量が違うだけ)。
チューリングの場合は、時代が彼の自然を許容しなかったわけですが、
昔も今も、何らかの理由で、自分の望む人間関係を築けない人々が
どうにか希望を見つけようとしてきたのだろう、と思います。

私の職場では、誰もが「正しいチューリングマシン」のように
ふるまうことが必要とされている気がします。
職場以外に社会的交流の場を持たない「本名の私」は、
社会的には (生き生きと他者と関わる人間としては)
存在していないも同じ、
とまで言うのは言い過ぎですが、
時には、そのような思いがしなくもありません。
生き生きとした「本名の私」は、今や、母と過ごしている時のみ
安定して存在している、とは言えるかも知れません。
自分ひとりでいるときは、本名も何も関係ないですから。

「本名」というのは、ある一つの表象に過ぎない。
自分の全存在を投げ入れる覚悟で書くなら
本名も筆名も意味は変わらない、と常々思っています。

私だって、家族以外の他者と、生き生きとした本名の私として接する、
ということの大切さは解ります。
でも、私には、そのような選択肢が選べる、という希望が持てません。
「本名の私」は、他者と関わっていないように見えるのでしょうが、
実際は逆です。
他者を無視しているのではなく、他者を強く意識しているからこそ、
他者と深く関わらない、という関わり方をしている、と思うからです。
そしてそのような関わり方は、
関わり方としては、幸福なものではない、とも思います。
でも、関わることによって生じる違和感や誤解や失言や軋轢に比べたら
深く関わらない不幸のほうが、害が少ない、と、
神経経済学的に 脳(意識)が判断しているものと思われます。
しかし、無意識は、別のことを志向しているのではないかと
思うときもあり、そういうとき、私は、
憂うつになるような気がします。

無意識は、意識にとって、内なる他者である、という思いが最近、強いです。
無意識の私は言葉を喋ることもできず、ドーパミンや、
ノルアドレナリンやセロトニンといった、伝達物質でしか意識に伝えられない。
意識から無意識へと、フィードバックしていくものはあっても、
互いに完全にコントロールすることなど決してできない。
そんな、他者どうしのような思いがしてきます。


投稿: MiznoYuli(u-cat) | 2008/11/13 3:13:11

コメントを書く