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2008/10/25

ぱあぱあ言いながら

池上高志が教授に昇格したというので、
お祝いの電話をした。

Hello? Can I speak to Professor Ikegami?

Yeah, speaking.

PROFESSOR Ikegami? PROFESSOR Ikegami?

何だよ、茂木かよ。

So you have been promoted to professor!

That's right.

When was that?

October 16th.

That's great. we must celebrate.

Thank you very much.

Do we keep talking in this strange language, or should we switch to our local tongue?

ははは。

朝、雨の中を埼玉県立浦和高校まで
講演に出かける。

学生たちを前に、思い切りアジった。

銀座へ。

吉井画廊の吉井長三さん、白洲信哉さん。
白洲明子さん。

信哉を見ると、何だか日焼けしている。

「あれ、焼けているね」

「いや、ちょっと、オープンカーでの
レースに出てね。」

「へえ。ちゃんとしたやつ?」

「祖父の乗っていたベントレーに乗って、
1000マイル。」

「それは本格的だなあ。赤信号は止めて
くれるの?」

「首相じゃないんだから、それはやってくれませんよ。」

維新號に入ると、信哉が担々麺を頼んだ。

それで、ボクも辛いものを食べたいと
思っていたことに気付いた。

どうやら、銀座に向かう道すがらが、
体調の「底」だったらしい。

ソニーコンピュータサイエンス研究所
着いて、田谷文彦にからかって、
東京工業大学の学生たちと議論を始めた
頃には、ずいぶん気合いが入ってきた。

朝日カルチャーセンター。
人の心の不定に触れることこそが
生の実感を与える、という話をする。

『意識とはなにか』(ちくま新書)で論じた、
自己の社会的構成のことを思い出す。

増田健史(たけちゃん)と、ぱあぱあ
言いながら作ったなあ。

人に歴史あり。本に歴史あり。

茂木健一郎
『意識とはなにか』 
(ちくま新書、2003年)

 以上のようなことを考えても、また、他の様々な日常生活の体験を考えても、人間にとって、自分が何者であるかという認識は、徹底的に他者の視線を前提にしたプロセスであると言える。成人になって、個が確立したように思われる場合にでも、私たちの自己の認識は、他者との関係によってかなり左右される。さらに進んで言えば、自己という「同一性」は、他者との関係性によって生み出されるものであるとさえ言えるくらいである。
 私たちは、成人した後は多かれ少なかれ「本当の自分」という個が確立していると考えがちである。しかし、実際には、他者との関係性によって、まるで魔法のように新しい自分が生み出されるという現象が普遍的に見られる。関係性の数だけ自分があると言っても過言ではない。一つの「ふり」からもう一つの「ふり」へと切り替えるとき、そこに新しい自分が生まれるのである。
 例えば、前の章で例として挙げた、タクシーに乗った時に運転手さんと会話を交わすとといった状況では、それまでになかった新しい自分がその関係性の中で生み出される。友人宅で、友人の赤ん坊が泣き始めて、よしよしとあやす時、外国人に日本語で道を聞かれて、なぜか外国なまりのような日本語でしゃべってしまう時。私たちは、関係性に応じて、その場その場で新しいパーソナリティを立ち上げるということを、日常生活の中で常にやっている。
 Aという人が、Bという他者に接する中で、A'というパーソナリティー(ふり)を立ち上げる。すなわち、スキームで書けば、

 (A)A' →B

のようなことを、私たちは常にやっているのである。私たちの脳の中には、このようなことを可能にするメカニズムがあらかじめ組み込まれているのである。
 この時、Bから見れば、Aではなく、A'こそがAという人の属性であると認識されるわけであり、また、Aにとっても、自分の中にA'という属性があったのだと自己認識されるわけである。
 どのような他者と関係を結ぶかによって、その時に立ち上がる新しいパーソナリティーは、異なるものになり得る。例えば、B、C、D、・・・という異なる他者に対して働きかける場合、それぞれ、

 (A)A' →B
 (A)A'' →C
 (A)A''' →D
 (A)A'''' →E

と異なるパーソナリティーA' 、A'' 、A''' 、A''''が立ち上がるということがあり得る。例えば、結婚している女の人が、子どもに対しては母親の、夫に対しては妻の、母親に対しては娘の、そして友人に対しては一人の女の子のパーソナリティーで接するなどというのはありふれた現象である。それぞれのパーソナリティーである「ふり」をすること(そうしないこともできるのに、そうしていること)が、A' 、A'' 、A''' 、A''''・・・・という異なるパーソナリティーとして現れてくる。
 これらのパーソナリティーには、もちろん、一人の人間の異なる側面としての共通点があると同時に、その関係性の中でしか生まれてこないものもある。一人の人間という個が、他者との関係性に依存して生み出されてくるというプロセスを理解する上では、一つのパーソナリティーが貫かれていると考えるよりは、関係性に応じて異なるパーソナリティーが生み出されるという現象の方が本質的なのである。
 もちろん、多面性があるとは言っても、最終的にはこれらの異なるパーソナリティーは、<私>という単一の人格に統合される。右のスキームで(A)と書いたのが、その仮想される<私>という単一の人格であると考えても良い。そもそも、そのような単一の人格が存在すると考えるべきなのかどうかということは、興味深い問題ではあるが、このことはもう少し後で議論したい。

10月 25, 2008 at 08:56 午前 |

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コメント

興味深く拝見させていただきました。
生まれから完全に出会いが無く何も学習しなかった場合、その者は誰でも無いですね。

投稿: 大阪の一般人 | 2008/10/27 3:58:05

娘の高次脳機能障害と向き合いながら、無意識の中の意識についてよく考えるようになりました。壊れた脳がどんな風に働きどんな行動に出るのか…?沢山の精神の薬を飲んでいる娘の本当の人格は何処にあるのか…?葛藤する日々もありました。
『意識とは何か』じっくりと考えながら読んでみたいと思いました。

投稿: blog0708 | 2008/10/26 20:49:18

茂木さんこんばんは。

では突然ですが、私AがBとCとで3人がいる時
私はA' で居ればいいのかA’’で居ればいいのか
に迷ってしまい
なにも喋れなくなってしまいます。

そんな時Aはなにになるんですかね。

投稿: キン | 2008/10/26 18:26:20

日記を拝見させていただいていて、茂木先生やコメントのみなさんの滑らかな「多面性」側面を感じていました。
『意識とはなにか』を読み、「多面性」側面、角度を実感しながら、明るく強くしなやかに、窮屈ほぐして、もっとやわらか脳にならないといけないなあと思いました。有難うございます。本当に、有難うございました。

投稿: nishimura | 2008/10/26 16:21:07

茂木さん、立て続けにコメントをさせていただきます!
池上さんが教授になられて、英語でお話を・・・。
いつもの難しい英語ではなくて、ほっといたしました。(笑)
どの分野にせよ、専門用語が沢山ある英語はわかり辛くて・・・。
このくらいの英語でしたら、この私にもOK!です。(笑)
改めまして、池上さんへおめでとうございます!

茂木さんにはいろ~んなお友達がいらっしゃるのですね。
オープンカーでレースに出られるって、凄い!
その世界は想像もつきませぬ。
「体調の底」?!お仕事でお疲れが溜まってしまったので
しょうか?睡眠と食事は大事です。しっかり摂っていますか?
どうぞ、ご自愛ください。

「人に歴史あり、本に歴史あり」ですか?!
後で「朝日カルチャーセンター」での音声ファイルの感想を
送らせていただきますが、「意識」の問題は、今、じっくり
と読ませていただきましたが、茂木さんがお書きになって
いらっしゃる通りだと思います。
例えば私も既婚者ですが、家人との関係、友人との関係、仕事
仲間との関係・・・いろいろとありますが、その関係性において
同一人物が使い分けている?!わけですね。生きていく上で、その
しがらみはどんどん増えていき、そこには思いがけない出会いも
あったりして面白いものです。

私はこれからもお友達をた~くさん、増やしていきたいですし、
よい意味で影響し合えたら・・・と思いますね。
では、この後、もう一つの音声ファイルを聴かせていただきます。
では・・・。


投稿: 茂木さんの崇拝者より | 2008/10/26 15:49:19

こんにちは!初めてコメントをさせていただきます。
つきのまほうのぼーです。茂木先生よろしくお願いいたします^^

最近茂木先生の「脳を活かす勉強法」を読みました!
こういった分野に素人の僕でも分かりやすく書かれていて、
読んでいる最中、本当に有意義な時間を過ごさせてもらいました。
本当に感謝です。

またこの本を読みいろいろな気付きを得ることが出来ました。


人は、「何で生きているんだろう」「人生の目的とは」など…
人生に対する漠然とした問いを一生をかけても答えを導きだせないまま
死んでいきます。
もちろん信念のもとでその疑問に答えられる宗教もたくさん
存在していることは確かですが、それが定かかどうかということは
この先も証明できる人は出てこないものかと思います。

今でも自分の人生への存在意義を見いだせることも出来ず、
自殺してしまうような人も大勢いらっしゃることかと思います。

しかし茂木先生の学ぶことによって脳のドーパミンが増え、
喜びを得ることが出来る。この良い循環は、そのような漠然とした
問いにも答えられるようなものがあるんじゃないかと思いまして^^;

なぜなら人が最も人生を生きる意欲を失う時というのは、努力もせず、
自分は今まで何をしてきたのだろう。何が残っているのだろう。
といったような空虚感から生まれる絶望感からがほとんどのような気がします。
それは「あの頃同じスタートラインだったはずの同級生と久々に会ったとき…肩書き、物事への姿勢、しゃべり口調、ボキャブラリーなど自分より明らかにうわてになっている」など、以前の自分と比べられるような対象が現れたときかと思います。

茂木先生の本を読み、人は学ぶことで人生をよりよく楽しく生きることが出来る。
これは絶対的な事実だと僕は思いました。
つらくても努力して以前は超えられなかった壁を超えて得た教養は
後に、何かのきっかけで自分の人生を振り返った時に、
大きな生きる力となります。
以前はチンプンカンプンだったことが、勉強して苦労を乗り越えて、
理解出来た時のあの感動は、誰もが感じることの出来る快感だと思います。

そして明日もまた、今日を学びそれを糧に生きていく。

僕がもし寝て食べてを繰り返し、なんの教養も得ないまま、
比べられる対象と接してしまった時、僕は…考えただけでゾッとします。
自分は自分、他人は他人。この考え方は大切だと思っています。
ですが、それは自分が努力によって得ることが出来た確固たる信念が
あってからこそだと思います。
自分に対する自信も信念もないのに、他人と比べては駄目だといっても、
それは人間の特性から考えても、無理な注文なんじゃないかなって思います。また、他人と比べることで喜びを得ることだって少なくともありますから^^;

結論とまでは言えませんが、
人の脳はどんな動物より明らかに複雑ですし、
人生のことなんか考えちゃいますし。
物事を比べる動物なんだと僕は思っています。
それならば、以前の自分から進化した自分を比べ、楽しみながら
生きていく他ないんじゃないかと思ったんです。
モノなんかじゃなく頭(脳)に刻まれるものを^^

これからも、学ぶことによって得られる快感を楽しみながら、
ポジティブに生きていきたいなっと思います★
毎日ご多忙なのに長文を書いてしまい申し訳ございませんでした。
読んでくださり本当にありがとうございました。
これからもブログ毎日拝見させていただきます。
これからも面白い情報を期待してますね(^_^)♪

投稿: つきのまほうのぼー | 2008/10/26 12:14:07

「自己」は不変なものではなく、自分とは異なるものたちとの出遭いで幾らでも新しく生まれて変わっていくもの…。

“ダイヤモンド”ではなく、他者と触れ合うたびに姿を幾度も変える“アメーバ”、きっとそうに違いない。

一昨日の朝カルの講義を聞いたあと、しばらくして、そんなイメージが浮かび上がってきたのでここに書いています。

投稿: 銀鏡反応 | 2008/10/26 10:02:04

茂木さん、ようやく自宅へ戻ってきました。早く音声ファイルをお聴きしたいのですが夫が今、デスクパソコンで大掛かりな仕事をしていまして聴くことができず。明日、ゆっくりとお聴きしたいと思います。ところで、池上さんという方は教授になられたのですね!誠におめでとうございます!それから「アジった」とは?全く、言葉がヤング!私はついていけてませんョ。(笑)それから「体調の底」って、大丈夫ですか?しっかりと栄養のある物を食さないといけませんねー。最後に「意識とは何か」、ゆっくり読ませていただきます。ではおやすみなさい。

投稿: 茂木さんの崇拝者より | 2008/10/26 0:14:59

茂木健一郎さま

そういえば かなり以前 FM東京さまの いわば伝説のラジオ番組

『 坂上みきの FMソフィア 』

ちなみに

井上陽水さま 平成6年9月から 答えが出なく

『 坂上みきの FMソフィア 』でゲストの時

ちなみにのちなみ あれ?坂上みき様 僕のFAXメッセージ この部分とはあえて書かなくても オープニングの時 読んで頂け そして
『 坂上みきの FMソフィア 』番組さまから色々 Tシャツとか美術館切符などなどプレゼントに感謝でした ただ番組自体でプレゼント募集はされてなかったのに毎週 届いていたのは少し気になりましたが 朝、番組が始まる前にFAXが楽しくて楽しくて 朝、その瞬間に考えて
FAXしていて事実 あれ!やはり!!僕が読んで欲しいキーワードとしてのを坂上みき様 偶然に偶然で偶然 放送スタートの際に。


そんな時期の井上陽水さま 『 坂上みきの FMソフィア 』にて

僕が言いたいことを短く文章にFAX 違うんですよ!井上陽水さま!!

の時 町田市の高木英樹さんが言いたいのは判る!と 坂上みき様が言い出され まさに それ!と
その時
井上陽水さま
「 うーん、この人 ボクと同じ シュールな人!」

これが 実は今でもシュールな人? え?? 
あれから考えていますが答えが出なく
そして今
『 脳とクオリア 』 拝読させて頂いてで ますます、いろいろ

ただ いつも考えている訳ではなく事実 そうです

あ!半井小絵さん素敵だ!と お天気解説 拝見しドキドキ感

ふと です考えるのは

井上陽水さまの お言葉 平成6年9月
私の文章に
「 うーん、この人 ボクと同じ シュールな人!」とラジオにてと

茂木健一郎さまの

『 脳とクオリア 』

ただ 大変です 
答えを出されて つまり これはこう!と言い切られだと実は楽
そうか!と
でも
茂木健一郎さまの書籍は特に 考えさせて頂ける  それも答えが正解だか判んないです 

どうしょ? 迷える子羊状態 参ったな です、実際 そうなので。

投稿: HIDEKI TOKYO | 2008/10/25 23:23:41

こんにちわ

反応選択性ニューロンは、成長するのでは?、と、考えました。

たとえば、子供が犬を指差して「ワンワン」と言い始めます。他の犬にも「ワンワン」と言い始めます(同一性認識拡大化)。そのうち、「家のワンワン」、「隣の家のワンワン」と、と、区別が付くようになります(分化認識細分化)。この意味で、反応選択性ニューロンは、成長するのではないでしょうか?


自我認識反応選択性ニューロンがあると考えると、自分を成長させるような、ニューロンの特性の働きがあると考えてみました(^^)

投稿: 反応選択性のクオリアby片上泰助(^^) | 2008/10/25 23:09:12

茂木さん、こんばんは☆★☆

とても興味深いお話ですね!

こちらを拝読しまして、お釈迦様のことが浮かびました。

お釈迦様は、
八万四千の法門を説かれたと言います。

全ての人の個性や悟りの段階に合わせて、
縦横無尽に対機説法されたと言います。

これはお釈迦様の中に、法という軸があって、
それを万人に合わせて説かれたということになると思います。

お釈迦様のなかには、
真理という法が軸としてあり、
それを
多くの人が人間社会の中で
幸せに生きるために
示されたのだと。


さきほど、
ジャッジという、
南の島の裁判官が主人公のドラマを見ていて、
”法”というものの
奥深さを見たような気がしました。
(こちらは裁判の法、ですが、
根底は共通すると思うので)

しかも設定が
南の島に移住してきた家族の
島に溶け込めないという感情が根底に絡んだ
事件を解決するというものだったので
私にとっては
かなり身近で考えさせられる問題で
リアリティありました。

よく、法にたずさわる人は
(性格が)冷たくなる傾向があると言いますが、
法そのものが何かということを考えると
人間社会の中での
混乱を避け調和をもたらすための
秩序だと思うので、

法の象徴でもある天秤、
女神が天秤を持っていると思いますが
感性的な部分と理性的な部分の
バランスがとても大事なんだなあ・・・と
感じ入りました。

脱線してしまいましたが・・・

私自身、自分の軸があやふやな時は、
対する人に無理矢理自分を合わせていました。

もちろん、
無理矢理合わせなくとも、家族や友達など、気心の知れた人には
自然にそれぞれに合わせた
自分が出てきますが、

軸を持たなくても
そのままの自分を受け入れてくれるという
安心感ゆえでした。

つまり、
こちらで書かれているように、
他者の存在が前提の自分ということですね。

私は、自分の軸に自信が持てないころは、
常に他者に合わせないといけないという
まるで自分がないような
非常に不安定な気持ちで毎日を生きていました。

しかし
自分の軸をつかみだんだん安定してくると、
様々な人に対して
自分の軸を崩さず、
自然な対応ができるようになった気がします。


この軸、茂木さんの言葉で言う
”単一の人格”ですが、
これまた掘り下げると
とても深いお話に展開していくと思いますが、

社会の中の人間という視点で考えた場合、
様々な人と接し、
経験による学びの凝縮された個性、
みたいなものかな~と考えます。

軸を持たなくても、
様々な人に
合わせられる方もいますが、

時と場合によっては、しがらみの中で
己を見失い
混乱する可能性があるので、

様々な人に合わせられるという
その繊細さと知性を大切に、
自分の軸を自覚することが大事になってくるのではないかなあと
そんなことを考えさせられました。

(茂木さんのおっしゃりたいことと
違ってましたらごめんなさい。)

ところで、、、

池上高志さんの教授昇格おめでとうございます。

なんとか・・・英会話は理解できましたよ(爆)

投稿: ももすけ | 2008/10/25 23:00:15

まだ読み始めたばかりですが、心にざわめきが起きるのは先生の魂の響きでしょうか。。。
バニヤンの木、まるで先生のようです。
沢山の出会いが人を成長させ、豊かにしていくんですね。
そう思うと、自身も沢山の人に支えられているのだなあと…それでは先生の小説の世界へ。(*´ω`*)

投稿: WAHINE | 2008/10/25 22:15:43

こんばんは。生の実感私なりに考えさせて頂きましたが、先日の記事で先生が書いて下さったように苦しみや喜び、魂をがさがささせるようなものが自分の中で渦巻く時にやはり感じるのではないかと思います。
普段全く気にしていませんでしたが複数のパーソナリティーから私という個人が成り立っているのか!と考えると大変面白いです。職場、友人、家族、他者との関わりの中、無意識のうちに良く見られたいという働きがそうさせるのでしょうか。
姉と親友の前では私は飾らず造らず、本当のわたしだと思っているのですが。
ありのままの茂木先生はどんなお方なのでしょうか…(妄想中です(笑))
今日やっとプロセスアイを拝読させて頂きました。まだ読み始めですが、表紙裏のお写真、自然体でとても爽やかです。(*^ω^*)
解放された瞬間に次の不自由が始まっている…パーソナリティーというものの核は透明に震えるゼリーのようなもの…宇宙の成り立ちも分からず、自分の意識が何に由来するかも分からずいきなりこの世界に…死すべきものとしての生の中でかすかに永遠の楽園の気配を感じることのできる、そして喜んで有限の生の中に戻っていくことのできる、そんな明るい希望を感じさせるものがたり…

投稿: WAHINE | 2008/10/25 21:57:46

先生の 友達との やりとり いつも こちらも 友達仲間になった気分に させてくれます。

投稿: 邦之 | 2008/10/25 21:15:23

思い切りアジった・・・ぱあぱあ言いながら・・・
面白い表現をされるのを、いつも感心しています。

言葉の表現の深さは、絵筆を重ねる深さと似ている所が有り
魅力ある作品に出会えば嬉しくもなります。
文章から音楽を感じ 美術作品からも音楽を感じられるものが好きですし、人からも魅力的な音楽を感じれる・・・そういう豊かな創造性は、
全ての人への希望から自分の生きる希望にも繋がります。
魅力を磨く毎日は素敵です。

投稿: 穂 | 2008/10/25 16:06:46

異なるパーソナリティの集合から、「私」という概念が抽象され、
異なるパーソナリティの集合が<私>なのかなと考えてみると、
「私」という概念は、他者との具体的な諸関係を通して抽象されたものであるので、
確固とした「私」は具体的には存在していないのかもしれません。

しかし<私>という単一の人格というのは、単に、パーソナリティの集合であるはずがないという思いもあります。
たとえば、妻や子に接する私のパーソナリティは、あらかじめ<私>という集合の元として存在していたと考えるのはやっぱり違うような気がします。むしろ集合という形で静かに横たわっているものではなく、集合を集合ならしめている活動、要素を生みだしている活動そのもののような気もします(それはもう集合とは呼べませんが・・・)。

他でもない、この<私>が<私>であるはずなのに、よくわからない。
身近であるはずなのに、到達できない遠くの存在のようにも思えます。

投稿: 金田恭俊 | 2008/10/25 13:17:00

最近の若い人たちは、良くも悪くも いい子ちゃんが多すぎるので、
これからも様々な折に 思い切りアジってあげてください。

昨日の日記のモチーフの1つでもあった
「人の心の不定に触れることこそが生の実感を与える」という投げかけは、そういう若い人の心を大きく揺すぶる可能性が高い言葉ですね。

人格・・・・自己の人格の同一性に真剣に悩む人は少ないので、表現型の多面性・多様性と 1つに収束させる力である人格統合とのバランスが、うまく取れているのでしょうね。多くの人は、無意識的にやっていることでしょうから、こういう投げかけで バランスを意識した途端 ぎくしゃくしてくる人も 中にはいらっしゃることでしょう。
霧の中で知らずに崖っぷちを堂々と歩いていた人にとって、霧がはれることの効果に近い状況を創り出す可能性はあるかもしれません。
これまた 若い人に投げ掛けてみたい命題の1つです。

投稿: GenunSai | 2008/10/25 12:28:29

そのような、単一の人格が存在すると考えるべきなのかどうか。普段私は、一体自分自身はどれが本当の自分なのだろうかと不思議に思っています。是非もう少し後での議論をお願い致します。楽しみにしております。

投稿: 渡部真喜 | 2008/10/25 10:43:34

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