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2008/10/19

「文学」を貫く意志

サンデー毎日

2008年11月2日号

茂木健一郎 
歴史エッセイ
『文明の星時間』

第36回 「文学」を貫く意志

一部抜粋

 隠密であろうとなかろうと、生ける芭蕉にはさまざまな思惑や、悩みがまとわりついたであろう。聖人君子でも、世間の思惑から無縁であったはずがない。ましてや、人の心の機微に通じる文学者である。絡め取られていたはずだからこそ、『奥の細道』の純粋なる境地はかえって心を打つ。
 芭蕉の筆からは、敢えて多くのことを語らない、強い意志のようなものが感じられる。自分の内側に惹起するさまざまをそのまま表現するほどうかつなことはない。そもそも、文学にならない。私たちは皆、諸事情に対する「隠密」となってこそ表現者としての「生」を全うできるのだ。
 平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した歌人の藤原定家は、その日記『名月記』の中で、「紅旗征戎わが事にあらず」という言葉を吐いた。初の武家政権が成立する時代の激動の中、定家がさまざまなことを見聞きし、知らなかったはずがない。ただ、それらは語るに足らぬと思っただけである。

全文は「サンデー毎日」でお読みください。

http://www.mainichi.co.jp/syuppan/sunday/ 

10月 19, 2008 at 09:56 午前 |

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コメント

こんばんは。
最近のブログは、神殿の列柱のようですね。お忙しいところ、いろいろとお疲れ様です。

以下にささやかですが、「紅旗征戎~」について、コメントいたします。本文全体を拝見していないため、不適切な表現もあるかと存じます。その場合は、容赦なく削除・非公開でお願いいたします。

「紅旗征戎~」の語句は、定家が19歳の時に書かれたものではなく、彼が60歳頃に、日記(に書かれた故実やしきたりなど)を子孫に伝えるために清書した折、加筆されたものであるという論があります。

実際に『明月記』における、当時の定家の戦乱に関する記述は相当な量があるため、それなりの関心を彼は持っていたのでは?という指摘も。

いずれにせよ語句の意味は、宮廷政治や夷狄征伐は自分の関知するところではない、ということにはなりますが、それが若者ゆえの気負いから生じたものなのか、それとも、ずっと後に醒めた意識で付け加えた語句なのか、では、彼にとっての文学の意義はかなり異なるように思えます。現代ではどうしても、この一句だけがクローズアップされがちですが、やはり人間、そうそう簡単には割り切れないものかも…とも思わせられます。

文学者も、行動する作家タイプや背を向けるタイプなどいろいろで、定家はさしずめ、ヘンリー・ミラー型の文学者(ジョージ・オーウェルによれば、「ローマが燃えていても手をこまねいている」奴ではあるが、「手をこまねいてはいても、目は炎を直視している」作家だそうです)ということになるのでしょうか。一種のヒロイズムに抵抗した彼らのような存在は、勿論尊敬に値しますし、彼らは、目前の事態に対して我々にはどのような選択肢があるのか、についてなどを考えさせる存在でもあります。

話は変わりますが、こちらのエントリにみえる芭蕉や本日の『猫』など、禅との関わりが深い文学者の作品が続けて採りあげられているところも、興味深く拝見しました。いずれ、まとまったお考えを音声なり文字なりでうかがえましたら幸いです。

本日のエントリはまた、若紫@北山のようで、なんだかかわいらしい?ですね。ご覧になっていたお母様もご立派に成長されたことを喜んでいらっしゃることでしょう。
ということで、遅ればせながら、お誕生日おめでとうございます♪
今後も常人離れした?感性をお持ちになった知のアスリートとして、のびのびとご活躍になりますよう、お祈り申し上げます。

投稿: コバヤシアヅミ | 2008/10/20 21:14:13

茂木さん、こんにちは。

藤原定家、この言葉を記したのが19歳のとき。おそるべきティーン・エージャー。「世上乱逆追討、耳に満つ」けれども「之を注せず」。かっこよすぎ。

源氏vs平氏の「ナマの現場」では血なまぐさい激動の時代に公家がヌルイことを、というのはたやすいですが、これは、若き定家の、この時代を歌で生きる「生き方宣言書」、「覚悟」の言葉、かと。血で血を洗う争いに明け暮れているそっちのほうがおかしいだろう!と。

そして、これを書いてわずか6年後、

「見わたせば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮」(新古今・363)

が誕生。「彼の一代代表作」(塚本邦雄)とも言われ、既にして超絶技巧、マックス状態。

「見わたせば~」と高々と歌い上げ、「花も~」「紅葉も~」、と歌言葉の2大ブランドを投げ込みます。

そして、読み手が、おお、定家さんが「花」と「紅葉」を詠んだのか?どんなすごい歌になるんだ?と、「絢爛たる「花」と「紅葉」を頭に想い浮かべた、その瞬間!「そんなものは存在しないよ」と。

な、な、なんですとー!!

「花」と「紅葉」の「不在」と「喪失」を詠み、読み手の頭の中には「花」と「紅葉」の「仮想」をしっかり残す・・・。

超絶技巧の極致。

「源氏物語」の「明石」の「なかなか春秋の花紅葉の盛りなるよりは」以下を下敷きにした歌であり云々、ということを踏まえると更に味わいが深まりますけど、書誌学的評釈など、もう、吹き飛んでしまう鮮烈なパワーを見せつけてくれます。

もちろん、この歌への評価はいろいろで(茂木さんゆかりの方では、本居宣長さん、小林秀雄さん、松岡正剛さんら)、特に、正岡子規さんという人は、この歌に猛然と攻撃をかけるわけですが、こういうバトルが後年、巻き起こるであろうことは、メタファーの天才・定家は予定していたのかも、とも。

そして、文人としての覚悟を記した定家としては、こういう無血バトルならもとより本意であり、大歓迎ですよ、と・・・。


投稿: 砂山鉄夫 | 2008/10/19 23:18:20

私は最近茂木健一郎氏の『脳と創造性』を購読しました。

これまで、実を言うと熱烈なファンではなかったのですが、

この本で開眼しました。

茂木健一郎氏の何が凄いかというと

人間が 言語 でなかなか表現できなかった認知のプロセスを

いとも簡単に言語化してしまうこと。

だと思います。

この感情を誰かに表現したいのに、どう言っていいのか分からない

かゆいところを徹底的に言語化して下さる茂木健一郎氏の

今後のご活躍をお祈りいたします。

投稿: submillion | 2008/10/19 15:09:09

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