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2008/10/19

『プロセス・アイ』 スペラティヴ

最近の出来事で、
『プロセス・アイ』(徳間書店)
に書いた「スペラティヴ」のことを思いだした。

茂木健一郎『プロセス・アイ』(徳間書店)
第4章「スペラティヴ」より

 一分後、軍司とトムは、清王朝風の背の低いテーブルを挟んで向かい合って座っていた。
 軍司が切り出した。
 「あなたは、私が、どのような人物だか、知りたいと思っている。そうでしょう。」
 トムは、うなずいた。
 そのリアクションを待つか待たないかくらいのタイミングで、軍司は喋り出した。
 「まず、揺らぎの話から始めましょう」
 「揺らぎ?」
 「ええ、揺らぎです。私たち、金融屋がやっていることの本質をつかむには、まず、揺らぎの話から始めると良い。」
 「と言うと?」
 「例えば、ピザを売るイタリアン・レストランのオーナーは、昨日は100枚ピザを売った、今日は120枚売れた、明日は130枚売れるかもしれないし、90枚しか売れないかもしれない、そんな、揺らぎの中で生きています。」
 「つまり、平均値の周りに、ある幅をもって、日々の売り上げが分布するということですね。平均値から少しずれる確率は大きい。一方、平均値から大きくずれる確率は小さい。」
 「ええ、そうです。海の中の貝は、回りの海流の揺らぎを感じながら生きているし、森の中の蝶は、回りの風の揺らぎを感じながら生きている。私たち金融屋も、揺らぎの中で生きているという点では、全く同じであるということです。」
 トムには、軍司の意図が読めなかった。
 「金融屋も、結局、やっていることは、そのように揺らぎの中で生きるということだけなのです。実際、金融屋の扱っている揺らぎは、コンピュータの中の、ビットの表す数値の揺らぎに過ぎない。その揺らぎが・・・」
 ここで、軍司は、秘書が持ってきた良く冷えた最高級のジャスミン茶をトムに勧め、自分も一口含んだ。
 「現実世界の、マネーのフローにつながるような暴力的な装置を持っている、そのことだけが、金融屋の扱う揺らぎを、特別なものにしているのです。」
 トムが黙って聞いているので、軍司は、続けた。
 「イタリアン・レストランのオーナーにとっては、揺らぎはピザ1枚5ドルというように翻訳される。だから、売れたピザの数が10枚変動すると、50ドル、売り上げが変動することになる。一方、金融屋の場合、例えば対ドル円相場の1円の揺らぎが、100億円、1000億円と翻訳される。ここに、スケールの不条理、スケールの暴力があります。」
 「しかし、ピザと円相場では、扱っている事象が全く違う。それを、同列に議論するのは、少し無理があるのではないですか。」
 軍司は、にやりと笑うと、二人の間のテーブルの下にある引き出しから、何やらを取り出して、テーブルの上にごろんと置いた。
 それは、この上なく精巧にできた、地球の模型だった。衛星の写真を用いたのだろう。直径3インチほどの球の上に、陸と海のパターンが精細に印刷されていて、その上に、薄いガラスのコーティングがされていた。似たようなものは、何回も見たことがある。しかし、今目の前にあるものは、本当にそこに息づく生命の星があるかのような、生々しさに満ちていた。トムは、感嘆の声を上げて、その小さな地球を拾い上げた。
 「我に支点を与えてみよ、そうすれば、地球さえも動かしてみせよう。こう言ったのは、アルキメデスでした。あの頃から、すでに、人間は、てこの支点さえ与えられれば、地球規模の大規模なマニピュレーションをすることは可能だと、そんなことを考えていた。ただ、実際には、そのようなてこの支点を与えるテクノロジーがなかったのです。」
 「美しい。こんなに美しい地球の模型は、初めて見たよ。」
 「結局、人間は、その一人一人の身の丈に合った、人間的なスケールの動作しかできません。一人の人間が、24時間のうちにできることは、所詮限られているのです。」
 軍司は、トムが、すっかり地球の模型に魅せられているのを嬉しそうに見つめながら、レクチャーを続けた。そうしながらも、トムが、しっかりと、自分の言うことを聞いていると分かっていたからだ。
 「ピザ屋にとっては、自分の手の熟練が、顧客を満足させるピザを作る「てこの支点」になっている。一方、金融屋にとっては、自分の目の前のコンピュータのスクリーンを見て、マウスでビットを動かす、自らの手の熟練が、「てこの支点」になっている。どちらも、自分の身の丈にあった、人間的なスケールの動作をしている点には変りがない。ピザ屋の「てこの支点」は、小麦粉の塊をこねまわすのに使われるのに対して、金融屋の「てこの支点」は、100億、200億という金を動かすのに使われている。そして、それぞれの「てこの支点」がつながっている揺らぎの世界が、それぞれの熟練者に全く違うスケールの報酬をもたらす。」
 軍司は、少し前のめりになった。
 「私はね、人間は、結局、それぞれの身の丈のスケールで、それぞれの熟練した仕事をしているだけだと思う。その結果の報酬が、何桁も違うのは、まさにスケールの暴力だと思うのです。世の中にそのようなスケールの暴力があることを、私は、良いことだとは思わないのです。」
 トムは、地球の模型をテーブルの上にそっと置いた。
 自分の中の、皮肉屋の気分がむらむらと高まってくるのを感じた。
 「そうは言っても、あたたは、タカダ&アソシエーツのCEOとして、巨額の資金を動かす「てこの支点」を持ち、巨額の利益を華僑の顧客にもたらし、自らも天文学的な収入を得ているのでは? あなたは、ピザ・レストランのオーナーではないでしょう。あなたの言っていることと、あなたの行動は、矛盾していませんか?」
 「私はね、トム、アメリカがキャッチアップされ、抜き去られる、そんな時代が近いと思っているのですよ。」
 軍司は、トムの顔をちらりと見て言った。
 「確かに、20世紀はアメリカが覇権を握っていました。金融技術もそうだ。しかし、21世紀は違う。アメリカにとって代わる可能性の中心は、この中国にある、そう考えているのです。」
 トムの眉毛が釣り上がった。
 「この、人々が自分の指導者を選ぶ自由もない国が、世界の中心になるというのかね。」
 「確かに、随分長い間、中国の文明が、停滞期にあったことは確かです。共産党による支配も、皇帝の名前が、『国家主席』に代わっただけだという人もいるかもしれません。しかし、中国の文明は、このボトル・ネックさえ超えれば、爆発的に発展すると思うのですよ。」
 「そうかね。」
 トムは、中国の将来については、かなり懐疑的だった。
 人々は、自由や個人の尊重といった価値を、一晩で学ぶわけにはいかない。もっとも、大平洋戦争後の日本は、かなりうまくやったようだが・・・
 軍司は続けた。
 「21世紀の人々は、共産主義だとか、そのような抽象的なイデオロギーによって動かされるのではありません。むしろ、美しいもの、偉大なものへの欲望によって動かされるのです。私は、中国には、アジアのイメージをチープなものから、普遍的な美しいもの、ヨーロッパやアメリカの白人でさえ夢中にさせるものにさせる、ポテンシャルがあると思っているのです。」
 「私には、正直に言うと、あなたの言っていることが、今一つ良くわからないのだが・・・」
 「例えば、中華料理にしても、世界各地でイメージされている「中華料理」のイメージは、大衆的なものです。しかし、実際には、宮廷料理の偉大な伝統がある。高級な料理と言えば、人々はフランス料理を思い浮かべる。しかし、実際には、素材のバラエティも、料理法、盛り付け、プレゼンテーションの洗練も、中国の宮廷料理は、フランス料理のそれを、遥かに凌駕しているのです。」
 「その点については、私は、そうかもしれないと認めるよ。」
 「私は、だから、中国文明の持つハイ・カルチャーの部分を強調することが、これからのアジア全体の文化戦略において重要だと考えているのです。世界の皆が、アジアに憧れるようにすれば良い。そのためには、中国の宮廷で、歴史的に、どれほど豪華で優美な文化が培われてきたかを世界に分かりやすい形で提示すれば良いのです。」
 「なるほど、私には、中国のハイ・カルチャーというのが、どういうものか、判らない。だが、あなたは、中国の隣の日本で生まれ育ったから、中国の伝統的文化について、ある程度の直観が働くのだろう。」
 「近代史の中では、中国は、列強にやられっぱなしだった。ハイ・カルチャーの伝統が、広まるチャンスがなかった。一方、共産中国は、豪華さや優美さを、悪とみなした。少なくとも、表面上はね。近代文明における中国文明のハイ・カルチャーは、中国に返還前の香港において最初に立ち上がったのです。」
 「上海でも、高級ホテルでは香港出身のコックを雇っていることが多いそうだね。ところで、私は疑問に思うのだが、日本にも、ハイ・カルチャーがあるのでは? あなたは、日本人だ。中国ではなく、日本のハイ・カルチャーが、ワールド・モデルになるとは思わないのかね?」
 「駄目です。日本の場合、「豪華さ」はプライベートなもので、不特定多数の人々に触れることがないのです。そのような状況では、大競争が起こりにくい。だから、世界の誰にでも受けるような、分かりやすさを獲得しにくい。唯一の例外は、豊臣秀吉の時代のバサラだったのでしょうか。」
 「トヨトミヒデヨシ? バサラ?」
 「ええ、彼は、徳川時代の前の、戦国時代の将軍です。黄金の茶室を作った人物です。日本では、戦国時代を除けば、複数の権力が、豪華さを競うということは、あまりなかったのです。一方、ヨーロッパでは、複数の国家の宮廷がお互いに豪華さを争う「豪華さの競争」があったから、誰にでも受ける、ハイ・カルチャーが成立した。何しろ、ヨーロッパの王室は、殆どが血縁関係で結ばれていましたから、女達の間で、「あそこの内装の方が豪華だった」、「あの国では、こんな素敵なモードが流行っていた」、「あの宮廷では、うっとりとするような音楽をやっている」というような噂が立つ。そんな女達の歓心を引こうと、男達が、競って美術家を雇い、音楽家を囲い込む。もし、日本の王室が、韓国や中国の王室と「豪華さの競争」をしていたら、日本のハイ・カルチャーも、もっと普遍性を獲得していたでしょう。今頃、ヨーロッパの人々は、一生懸命ジャパニーズ・モードを追い求めていたかもしれませんよ。もっとも、私は、エルメスのジャケットが好きですが。」
 「確かに、上海は、不思議に、エルメスが似合う都市かもしれないね。」
 トムは、タカダとの会話を楽しみ始めていた。だが、タカダのペースにすっかり巻き込まれないうちに、ここに来た要件だけは済ませておかなければならない。トムは、いよいよ、本題を切り出すことにした。
 「ところで、あなたの「スペラティヴ理論」ですが、差し支えない範囲で御説明いただけませんか。」
 タカダの口元が左右非対称に歪んだ。
 「マルクスは、勘違いをしていたんですよ。」
 「マルクス?」
 「ええ、資本論のマルクスです。マルクスの理論体系は、重大な見落としをしていたんです。」
 「しかし、グンジ・・・」
 トムは、皮肉な口調にならないように注意しながら言った。
 「カール・マルクスの体系が間違っていたということは、君が改めて指摘するまでもなく、共産主義国のほとんどが崩壊、ないしは変質してしまった今、もうすでに明らかなことだと思うが。」
 軍司は、怯まなかった。
 「あなたは、アメリカから来ている。アメリカでは、そもそも、共産主義運動は存在しないも同然だった。だから、アメリカ人であるあなたのマルクスの体系に関するアセスメントは、皮相的なものである可能性があります。私が指摘したいのは、私たち人間のつくる経済システムの、ある本質的な部分が、マルクスには見えていなかった、あるいは、見えていても、無視したということなのです。」
 「ほう。皮相的なアメリカ人の一人として、ぜひうかがいたいね。」
 「マルクスの労働剰余価値説では、労働者の生み出す価値の上前を、資本家が搾取するという構図になっていた。そこで仮定されているのは、労働者の労働と、資本家の労働が、同じ平面上で比較できるものだという前提です。」
 「それは、そうだね。だが、労働者でも、資本家でも、一人の人間が24時間でできることは、同じだと、君はさっき言ったじゃないか。マルクスは、そのことを言いたかったのだろう。あまりにも、ナイーヴな考え方だが。」
 「私は、その点を、もっと理論的に詰める必要があると考えます。私が注目したいのは、経済システムに限らず、生命現象、情報システムなどの全ての有機体の特徴は、そこに、「メタ」なコントロールの要素が入っているということです。」
 「メタ?」
 「ええ。つまり、あるレベルに対して、別のレベルが、一つ上のレベルからコントロールするということです。例えば、細胞分裂を制御する遺伝子は、細胞の中の水分子に対して、メタなレベルにある。水分子が動き回る空間は細胞膜によって定義されますが、その、細胞膜の空間的な位相は、細胞分裂によって決まってくる。つまり、水分子は、一つメタなレベルにある、遺伝子が決めた細胞膜の空間の中を動き回っているということです。」
 「なるほど。水分子が労働者で、遺伝子が資本家ということか。」
 「先程のピザ・レストランと金融屋の比喩で言えば、金融屋の方が『メタ』な立場にいる。ピザの枚数も、金融屋の前のコンピュータの中のデジタル情報も、「ビット」としては同じ「ビット」に過ぎないが、金融屋の扱っている「ビット」は、ピザの枚数を表す「ビット」にくらべると、メタな位置にいるのです。なぜなら、お金は、全ての経済活動に対してメタな位置にあるから。このようなメタなメカニズムが導入されてしまうことは、経済システムでも、生物でも、有機的なシステムにおいては不可避なことです。マルクスは、このような、労働のレベルの違いを、十分に考慮していなかった。金融屋が、自分のコンピュータの中のデジタル情報を動かして、巨額の利益を挙げられるのは、別に金融屋がピザを作るシェフよりも偉いからでも、悪意があるからでもない。単に、金融屋の扱っている情報が、ピザ屋の扱っている情報よりも、メタな位置にあるからなのです。」
 「そのあたりの君の議論は、納得できるものだ。」
 「私は、二年前に、『経済成長とは何か』という本を、出しました。私は、経済成長率が、単なるマスの増大だととらえられていることに、前から疑問を持っていた。経済成長とは、単なる量の拡大ではなく、どんどん商品やサービスの自己同一性が革新されていく、そういう創造的過程だと思っていた。例えば、携帯テレビ電話は、以前には存在しなかった。あるいは、インターネット・ベースの、高い評価を得る大学は、英国のオープン・ユニヴァーシティとオックスフォード大学との連係の前には存在しなかった。そのような、新しい商品、新しいサービスが登場することが、経済成長の本質であって、単なるマスの増大として経済成長をとらえることは間違っている。『経済成長とは何か』は、自己同一性の革新過程としての経済成長が、今お話した、「メタ」な情報によるコントロールによって、いかに実現されるかを論じた本です。」
 「あんたの本から、どのようなブレイクスルーが起こるのか、そのうち聞かせてもらえるのかな? ところで、「スペラティヴ」なのだが。何か、話してもらえないだろうか。この金融技術は、本当に存在するのかね。それとも、あなたは、詐欺師なのかね。」
 トムは、少し攻撃的な口調になった。
 「トム、全ての社会的プロセスの中で、一番「メタ」な位置にあるものは、何だと思いますか?」
 「さあ。君がさっき言ったように、経済システムの言語である通貨、それを扱う我々金融屋が、もっともメタな位置にいるのではないのかね。」
 「それは違います。最もメタな位置にあるのは、政治なのです。なぜならば、金融制度を変更することができるのは、政治だから。社会という細胞の分裂の枠組みを決めるのは政治で、我々の扱っているマネーは、政治が決めた枠組みの中を、ランダムに動いている水分子に過ぎないのです。」
 「なるほど、興味深いメタファーだ。しかし、いくら政治が、もっともメタなレベルにあるからといって、我々金融屋が直接政治に関与するわけにはいかないだろう。我々は、民主的な社会に生きている。政治を担えるのは、投票によって選ばれたリーダーだけだ。」
 「それはそうです。しかし、自らが政治プロセス自体を担うことができなくても、自分のとる行動を、政治プロセスと関連させることはできるのです。社会の中で最もメタな位置を占める、政治の要素と、自らの行なう金融オペレーションを関連させればいい。政治と金融オペレーションの連関こそ、タカダ・アンド・アソシエーツの「スペラティヴ」のテクノロジーの核心なのです。」
 トムとタカダの間に、沈黙が流れた。
 トムは、ジャスミン茶の入ったカップを取り上げると、ひとくち飲み込んだ。
 たった今、タカダは、ついに、「スペラティヴ」とは一体どのようなオペレーションなのか、そのヒントのようなものを出した。
 金融オペレーションと、政治的要素を連関させる?
 トムの頭の中を、様々な連想が駆け巡りはじめる。
 タカダの言うように、もし、「スペラティヴ」が、政治的なプロセスとの結びつきをそのオペレーション・モデルの核心においているとすれば、それはある意味では大変危険なことに違いない。
 例えば、ある政府発注の大規模開発の受注企業がどの企業になるか、あらかじめ分かっていれば、その企業の株に投資することで、莫大な利益を上げることができる。あるいは、中央銀行の貸し出し金利の上昇、下落をあらかじめ知ることができれば、国債、株の売買オペレーションで、さらに莫大な利益を上げることができる。だが、これらのオペレーションは、インサイダー情報を利用した違法取り引きだ。もしそのようなことをしていることが明らかになれば、関係者は検挙され、会社は罰金を課せられ、パブリック・リレーションズにおける損失は重大なものになる。場合によっては政界を巻き込んだ、汚職事件に発展する可能性もある。近代的な金融制度の確立したアメリカや日本のような国家では、政治的なインサイダー情報を利用したオペレーションは、事実上不可能だ。
 あるいは、ここ中国では、そのような例外的なオペレーションがまだ可能だというのか? タカダのいう「スペラティヴ」は、そのような、違法なオペレーション、黒魔術(ブラック・マジック)に過ぎないのか。
 タカダは、中国政府高官との間に、黒いコネクションを持っているのだろうか。
 もっとも、少ない情報から、こんなことをいくら連想しても、駄目だ。タカダの話は、雲を掴むようだ。そもそも、この男は、「スペラティヴ」がどのようなオペレーションなのか、その実態を明かすつもりがないようだ。
 来週出る『タイム』マガジンの特集号は、どれくらい、タカダ&アソシエーツのオペレーションの実態を掴んでいるのだろう。
 トムは、テーブルの上の地球の模型を見つめて、時間をつぶした。タカダの視線がどこに向かっているのか、顔を上げて確かめるのがはばかれた。
 トムの思考を読んだかのように、タカダが口を開いた。
 「御心配なく。私は、違法なオペレーションはしていません。上海の中国共産党幹部に賄賂を贈っていることもない。私と私の会社は、むしろ、彼らに睨まれている方だ。幸い、大陸の外に有力な華僑のコネクションがあるので、それほど面倒なことにはなっていませんがね。」
 トムは、地球の模型に目を落としたまま、顔を上げようとしなかった。
 「せっかくニューヨークから上海までいらして下さったのだから、もう少し、「スペラティヴ」について、ヒントを差し上げましょう。」
 軍司は、トムの額の上の茶色い生え際のあたりを見つめながら、続けた。
 「1997年、アジアを金融危機が襲いました。はじまりは、タイの通貨、バーツの暴落だった。ソロスらが率いるクォンタム・ヘッジ・ファンドが、大量のバーツ売りを仕掛けたのがきっかけになったと言われている。このバーツ暴落をきっかけに、タイ経済は大混乱に陥り、その混乱は、アジア全体に広がりました。当時のマレーシアのマハティール首相は、人々を苦しみに落とすことによって、金もうけをしていると、ヘッジ・ファンドを非難した。それに同調する意見も多かった。しかし、ヘッジ・ファンドを一方的に非難するのは少しおかしい。もともと、タイのバーツは、対ドル相場で、過大評価されていた。その、不自然な相場が、タイの中央銀行の設定したレートによって、固定されていた。それに対して、ヘッジ・ファンドは、バーツの真の対ドル相場は、遥かに下の水準にあると判断した。大量のバーツ売りによって、ヘッジ・ファンドは、単に、バーツを、真の対ドル相場の水準まで下げただけなのです。そもそも、マーケットが機能し、不自然な相場が固定されることもない状態では、ヘッジ・ファンドも、大規模なオペレーションを仕掛けることはできません。政治が、不自然な相場を強制し、真の相場と固定された相場の間の乖離が激しい時、ヘッジ・ファンドがオペレーションをする余地が出てくるのです。このような視点から見れば、ヘッジ・ファンドの投機は、単に、本来実現されるべきマーケットの状態を実現するエンジンに過ぎません。エンジンを得たマーケットが実際にどのような方向に動くかは、マーケットが決めるのであって、ヘッジ・ファンドが決めるのではないのです。」
 トムは、顔を上げた。
 「なるほど、それは、そうかもしれない。だが、ヘンジ・ファンドが、本来実現されるマーケットの状態を実現するエンジンであるというあなたの認識と、「スペラティヴ」は、どう関係しているのか?」
 「今、ちょうどそのことをお話しようと思っていたところです。」
 軍司は、立ち上げると、部屋の中を行ったりきたりし始めた。
 「実現されるべき状態と、現実の状態が乖離しているというのは、政治の世界において、もっとも顕著です。」
 軍司は、感触を確かめるように、窓際にあった深紅のカーテンに触った。
 それにつられてトムもカーテンを見た。トムは、毛布を手放せなかった自分の子供時代を思い出した。
 軍司は、部屋の中を行ったりきたりしながら、話を続けた。
 「誰でも、一つの党、一つのイデオロギーが全ての権力を握るよりも、様々なアイデアを闘わせて民主的に選ばれた政権が政治を担当する方がいいと思っている。だが、一度ある政治制度ができてしまうと、権力者は、それを維持することに、腐心する。権力は自らの権力を強化するためには、あらゆる手間を惜しまないのです。その結果、そもそも、出発点にあった理想が忘れられてしまう。台湾海峡を挟んでは、共産党の一党支配国家と、中国語圏で初めての民主主義国家という、二つの政治制度が対立している。誰が見ても、どちらの政治制度が望ましいかは、一目瞭然です。しかし、人々の期待がどうであれ、政治的変化は、迅速には起こらない。その結果、政治制度の「望ましい落ち着き場所」と、実際の政治状況が乖離してしまう。この乖離は、随分長い間、固定化されることもある。」
 「私たちが必要とするもの、それは・・・」
 グンジは、立ち止まり、トムの方を振り向いた。
 「金融マーケットにおいて、ヘッジ・ファンドによるオペレーションがマーケットを「望ましい落ち着き場所」に導くエンジンになるように、政治状況を「望ましい落ち着き場所」に導くエンジンなのです。」
 「一体、あなたは、革命をやろうと言うのですか?」
 「スペラティヴは、金融マーケットにおける変化のエンジンとしての金融オペレーションと、政治制度における変化のエンジンとしての政治的なオペレーション、この二つのオペレーションを組み合わせた技術なのです。その結果、金融マーケットにおいても、政治制度においても、社会が「望ましい落ち着き場所」に向かうことを目指すのです。」
 軍司は、机に向かうと、机の上にある書類をまとめ、鞄に詰めはじめた。
 どうやら、どこかに行こうとしているらしい。 
 トムが時計を見ると、すでに、約束の1時間は過ぎていた。
 「私は、経済も、政治も、それを動かすものは、「物語」だと思っています。この世界で、一番大切なもの、それは、物語なのです。・・・・物語は、人間の世界の、最も美しいものも、最も醜いものも生み出す、原動力になっている。「スペラティヴ」とは、経済と政治が一緒になった、「物語」の操作のことなのです。・・・・私は、物語を作りだすことによって、お金を儲けるのです。それと同時に、政治的正義も実現する。私は、お金という言葉で出来た物語を紡ぎ出す、物語作家なのですよ。」
 軍司は、鞄をつかむと、再び、清王朝風の背の低いテーブルを挟んでトムと向かい合って座った。
 「どうも、君の言っていることは良く判らない。きっと、君は、意図的にスペラティヴの詳細を隠そうとしているか、それとも、誇大妄想狂かいずれかだ。」
 軍司の表情がふっと弛んだ。
 「たぶん、その両方なのでしょう。」
 「確かに、君の言うように、政治も経済も、その時々に人々の心を掴む物語によって動かされている。だから、君の言うように、物語を描いてやれば、ある程度、政治や経済を動かすことは可能なのかもしれない。」
 「物語は、お金以上に、人々の心を動かすものなのです。そう、例えば・・・例えば、湾岸戦争の時に、アメリカのPR会社がやらせをやりましたね。」
 「やらせ? 何だろう。あの、海岸で油まみれになった鳥の映像がやらせだったというのか?」
 「私の言うのは、もっと巧妙である意味では悪魔的なやらせです。湾岸戦争の時、クウェートの「ナイーラ」という女の子が、クウェートの病院でイラク兵が新生児を保育器から放り出したまま放置して、幼児15人が死ぬのを見たと証言した。あれで、アメリカの世論は米軍の介入を支持する方向に一気に傾いた。」
 「そんなことがあったかもしれない。」
 「あの「ナイーラ」という少女は、実は駐米クウェート大使の娘で、イラクのクウェート侵攻の時にはクウェートにいなかったことがわかったのです。そして、それは、アメリカの大手PR会社、ヒル・アンド・ノウルトンの仕組んだ芝居だった。」
 「ああ、そんなことを聞いたことがあるかもしれない。そのような「やらせ」は、倫理的に許されることではないだろう。」
 「私は、必ずしもそうは思わないのです。ヒル・アンド・ノウルトンの仕掛けたやらせは、人々に、イラクの非人道的なやり口についての、判りやすい物語を提供した。それは、実際に独裁的で、人権抑圧的な当時のイラクの政権の、当たらずとも遠からずの描写だった。イラクの野心を押さえることは、当時、実際に必要だった。そのような「最終的な落とし所」を見誤らなければ、その目的にアプローチするテクノロジーとして、ある程度のフィクションの混じった物語を使っても、私はいいと思うのです。ちょうど、ヘッジ・ファンドの投機が、相場を、マーケットから見て自然な「最終的な落とし所」に導くように。」
 「だが、もし、「最終的な落とし所」が間違っていたら? もし、目的を誤ったとしたら?」
 「それは、悲劇になります。例えば、ゲルマン民族の優越という物語を信じた、ナチス・ドイツのように。」
 この話題は、トムにとって、あまり愉快なものとは言えなかった。
 そろそろ、結論が欲しい。
 「グンジ、あなたの言うことは、とてもファンタスティックだ。経済哲学というものがあったら、あなたは、間違いなく、現在の世界における、もっとも独創的な思想家の一人だろう。私に解せないのは、「スペラティヴ」や、「物語の優越」といったファンタスティックな思想を、あなたの会社がいかにキャッシュに結び付けているかということだ。」
 「もちろん、タカダ・アンド・アソシエーツも、通常の金融技術を使用したオペレーションもやっています。「スペラティヴ」が、全利益のどれくらいを稼ぎ出しているかは、申し訳ありませんが申し上げられません。」
 ここで、軍司は時計を見た。
 そろそろ、帰らなければいけない時間らしい、そうトムは思った。
 結論は得られていないが、仕方がない。
 突然、軍司は、トムに笑いかけた。
 「トム、上海までわざわざ来てくれてありがとう。本当は、『クラブ金塀梅』に私が直接あなたをお連れしたいのだけど、時間がない。」
 「いや、気にしないでくれ。私のパーム・パイロットに、上海の地図をダウンロードしてきたし、プライベートGPSもついているから、きっとうまく上海の夜をナヴィゲートしてくれると思うよ。」
 「でも、それは悪いな。そうだ、私のスペラティヴ・オペレーションのパートナーであり、私の親友でもある男に『クラブ金塀梅』を案内させよう。今頃は、まだ仕事しているはずだ。今呼ぶよ。」
 タカダは、机の上にある小型マイクロフォンに向かって話した。
 「ツヨ、まだ部屋にいるんだろう。ちょっと上がってこないか。」
 「はい、すぐ行きます。」
 スピーカーから、湿り気のある、ナイーヴな声が聞こえた。
 「ツヨは、スペラティヴ理論や、通常の金融テクロノジーを実践するための投資プログラムの開発をしてくれています。こう見えても、ツヨは、理論物理学のPh.Dを学部と大学院合わせて5年でとってしまった、伝説的な人物なんですよ。最近の金融技術は、ファインマン・ダイアグラムや、超膜理論に通じる、高度な数学が必要なんでね。ツヨのような人材が必要なんですよ。」
 「サミュエル・ブラザーズにも、たくさんの物理学のPh.Dが雇われているよ。彼らロケット・サイエンティストがいなければ、これからの金融は成り立たない。」
 それが、その夜にトムがタカダと交わした最後の会話だった。
 タカダは、固辞するトムの掌に、これは土産だからと、テーブルの上の地球の模型を押し込んだ。


10月 19, 2008 at 04:03 午後 |

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コメント

お誕生日おめでとうございます
今後のご活躍とご健康をお祈りいたします

投稿: 三浦ふじ | 2008/10/20 21:56:49

おたんじょうび おめでとうございます。・・ ☆  

      ♪ ♪
     ・ 脳     健やかなる時も       
       へ             どんな時も

             クオリア降臨   


      

投稿: 一光 | 2008/10/20 6:33:45

拝啓 茂木健一郎博士

Happy birthday to you~
お誕生日、誠におめでとうございま~す

ご健勝にて、益々味わい深き
素晴らしい日々をお過ごしなさいますように

明日の『プロフェッショナル仕事の流儀』
100回記念 特に楽しみにしております

投稿: 《緑の葉》 | 2008/10/20 6:15:35

いつも茂木先生のブログを興味深く拝見しております。

個人投資家として行動している自分にとって、トムと軍司の会話には引き込まれるような面白さを感じてしまいます。
(>w<)

>そんな女達の歓心を引こうと、男達が、競って美術家を雇
>い、音楽家を囲い込む。

>21世紀の人々は、共産主義だとか、そのような抽象的な
>イデオロギーによって動かされるのではありません。
>むしろ、美しいもの、偉大なものへの欲望によって動かさ
>れるのです。

何やらゾンバルトの『恋愛と贅沢と資本主義』、ジョゼフ・ナイの「ソフト・パワー論」を彷彿とさせる各文ですね。
ヴェーバーが指摘した「プロテスタントの禁欲的精神」から出発した米国資本主義が、金融動乱で大きく傷ついている現状と今回のブログの内容を重ねて見ると
新しい物語に基づいて人々の「欲望」を捉える新資本主義が登場してくるのか?
それとも従来の資本主義が変わらず世を覆い続けるのか?
そして新旧の資本主義の主要な担い手はどんな勢力になるのか? といった疑問が浮かんできます。
ニュースを楽しむ観点がまた一つ増えました。( ̄ヮ ̄)

投稿: 点額法師 | 2008/10/20 2:39:58

茂木さん、お誕生日おめでとうございます!せめてものお祝いのメッセージをと思いまして・・・。お忙しいとは思いますが、お身体にお気をつけてこれからもご活躍を!小説第二弾も期待しつつ待っています。ところでこの「プロセスアイ」は、ほんの一部分を読ませていただいただけですが、随分と真面目に書かれているのですねー。茂木さんがこのような小説を書かれていたとは驚きました。ここに「報酬」のお話があるのですね。私の仕事の世界はその幅がかなりあるのですが、私は納得しながら仕事をしていますが、「スケールの暴力」と言われればそういう部分もあるのかもしれませんが、切磋琢磨しながら「昨日の自分を今日は越えられる様に・・・。」一所懸命、働いていればよいのです、きっと。あまりギャラのことを言ってはいけません。(笑)「物語」のこともありますが、また、ゆっくりとコメントをさせていただきます。取り敢えず、お祝いのメッセージをと思いまして・・・。今日の日が、佳き一日となりますように!では、おやすみなさい。

投稿: 茂木さんの崇拝者より | 2008/10/20 0:17:00

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