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2008/10/15

メスグロヒョウモンの日

さまざまな仕事に追われていて、
日記をゆっくり書く暇がありません。

おわびに、『生きて死ぬ私』
から、「メスグロヒョウモンの日」
をお送りいたします。

願わくば、あの時のような胸のときめきが、
いつの日にもありますように。

<メスグロヒョウモンの日>

 ある少年の日、私は高尾山に採集へ行った。沢沿いの道に今まで見たことがない黒い蝶がいた。道の上に吸水に降りてきたところを見ると、メスグロヒョウモンという種類の、見事な雌の個体であった。
 メスグロヒョウモンは、石ころの上に止まり、その黒光りする羽根を平らに広げて、太陽の光を受けていた。
 私は、心臓が胸から飛び出そうだった。何しろ、メスグロヒョウモンを見るのは、生まれて初めてだったのだ。図鑑の中で何度も嘆息して眺めた力強い羽根のパターンが、私の前にまさに今生きるものとして存在していた。羽根が、小刻みに揺れていて、それはまるでその蝶の生命の息づきそのもののようだった。

 飛び立たないでくれ。

 私は、そのように祈りながら、少しづつ、そのメスグロヒョウモンに近づいていった。近づきながら、私の目は、その個体の美をくまなく味わっていた。私の頭は、冷静になろうとつとめながら、どうやったらこの素晴らしいものを手に入れることができるかと回転し始めていた。唯一の手は、メスグロヒョウモンの上から、捕虫網をかぶせることのように思われた。私は、頭の中で一連の動きを思い浮かべてみた。
 ひゅつ。
 私の振り下ろした白い捕虫網のシルエットの横を、黒い稲妻が走った。補注網をかぶせるよりも早く、メスグロヒョウモンは舞い立った。そして、力強い羽ばたきで、初夏の青い空の中へと消えていってしまった。
 私は、呆然としてまわりを見渡した。いかに強いあこがれの心をもってみても、メスグロヒョウモンは二度と現れなかった。
 私がメスグロヒョウモンを見たのは、後にも先にもこの時だけである。あの初夏の日に、メスグロヒョウモンを見つめた私の眼差し、胸のときめき、そしてメスグロヒョウモンが消えていった空の青さは、素晴らしい思い出として私の心に残っている。
 私がこの体験について文章を書くのは、これが初めてである。この体験について、今まで誰かに話したこともない。また、メスグロヒョウモンは逃げてしまったのだから、今、私の手元にメスグロヒョウモンの標本があるわけではない。すなわち、私がメスグロヒョウモンに出会った初夏の一瞬の出来事は、言葉や標本といった、流通するメディアに乗ることなく、私の中に「流通しないもの」として存在していた。今、私の経験がこうして言葉になり、その結果ある程度の「流通性」を獲得したとしても、そのことで何かが本質的に変わったとは思えない。私のメスグロヒョウモンの体験は、私の胸の中に「流通しないもの」として存在していたときに、それで十分であり、完結していたように思われる。何よりも、あの初夏の日に私とメスグロヒョウモンが高尾山で出会ったという事実は、この宇宙の悠久の歴史の中で消去することのできない事実なのであり、何者も私からあの初夏の日を奪うことはできないのである。
 誰にでも、私のような「メスグロヒョウモンの日」はあるのではないだろうか。いや、むしろ、人生の一日、一日の全ては、実は「メスグロヒョウモンの日」なのではないだろうか? そして、これらの輝ける日々を、その一瞬一瞬を、「言葉」というメディアで記録することは、そもそも原理的に不可能なのではないだろうか?
 人生というものは、たとえそれが「言葉」や「映像」といったメディアで残されなくても、その人の生きた人生の1秒1秒が、そっくりそのまま「歴史」としての価値を持つ。そんなことが、あるのではないか? 私のメスグロヒョウモンの日が、そして、未だかって生き、今生き、これから生きるであろう人類の一人、一人の「メスグロヒョウモンの日」が、その歴史が、どこかに密やかに、大切に記録されているのではないだろうか?
 そんなことを、私は時折考えてみる。

10月 15, 2008 at 06:38 午前 |

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コメント

はじめましてこんにちは!
私も3週間前に、この【生きて死ぬ私】を買って読みました。
茂木さんと同世代の私は、自分の若い頃の日記を読んでるような、
小さい頃の甥と似てるようにも思って、(蝶のところなど)
茂木さんの言われるように、匂いや、手触りのように
今、目の前で見てるような感じの文章でした。

昨日(10/21)偶然、NHKのプロフェッショナル仕事の流儀を見ました。
質問に間髪いれず答える茂木さんには、ビックリ。
その中で【脳には個性がある。他の人と共通のものもある。だから
分かり合える。】という言葉に、共感します。
【創造的な先延ばし】と言う言葉にも、感動しました。

全く、学はないですが【エネルギーは物質より先に移動する】というような
哲学にも通じるような、ウキウキすることを知るとうれしくなります。
5次元の話も面白いです。

投稿: メルモ | 2008/10/22 8:21:07

私事で恐縮ですが、たまたま私も名古屋へ行っていました
(私は14・15日でしたが)。
帰りの、「ムーンライトながら」の中で、
そういえば今日はまだクオリア日記にアクセスしていなかった、
と、携帯サイトを開き、これを読みました。
美しい表現とあいまって、その内容が、
そのとき、その時空の私の気分に、迫るものがあり、
泣きたいような気持ちになりました。

茂木先生は何故この文章をこの日の日記にアップされたのだろう、
などと思って直ぐ、
まったく人間は偶然を必然に置き換えたがる動物だな、
と訂正しつつ。

投稿: MiznoYuli(u-cat) | 2008/10/17 3:01:45

はじめまして、マリネと申します。
‘メスグロヒョウモンの日’深く頷けるものを感じました。

言葉は、曖昧ですね。
‘赤’というたった一つの言葉にしても全ての人が違う色を連想するでしょうし、チューリップという言葉もそれぞれの人の中で違うものを写しだす。
記憶も曖昧で…。
いらないところを取り除き、欲しいことだけをディフォルメしていて‘自分勝手ないいとこ取り’という気がします。

やはり、‘メスグロヒョウモンの日’を言葉にして記録するのは難しく思えます。
けれど、言葉にすることで‘記憶のおすそ分けは出来るのだな’と感じました。
茂木先生の見た青い空、ドキドキの体験。
けして同じ形ではないけれど、メスグロヒョウモンを知らないはずの私も茂木先生の体験のおすそ分けを頂き‘私的青空の下、私的メスグロヒョウモン’に合えました。
もちろん、先生の感動には到底追いつきませんが。

投稿: マリネ | 2008/10/16 0:38:22

美しい自然の中で、美しくひらひらと飛び回る蝶を捕獲する・・・
という感覚が 私は解かりません。
蝶などの生を止めるのが、自然感覚の観点から今一つ納得出来ないです。
食べる為の捕獲は、納得します。
 
標本にする・・・欲しい・・・という感覚は
一種の恋愛感覚みたいなものなのだろうと思いました。

恋愛・・・と思うと、納得します。
熱く 胸ときめいて たまらなく欲しい 止まらない、自我を忘れるような その時は、とても気持ちが良いものだと思います。

投稿: 穂 | 2008/10/15 15:04:19

茂木さん、こんにちは。「メスグロヒョウモンの日」を読ませていただきました。とっても美しいタッチで書かれており、小説を読んでいるようです。少し前に茂木さんは、「蝶から学んだことがある。」とおっしゃっていたと思うのですが、「蝶」を通して人生までも語ってしまわれる茂木さんはひょっとしてロマンティスト?!なのでしょうか。「生きて死ぬ私」を読んでみたくなりました。「流通しないもの」・・・誰にも言わないで、自分の心の中だけにあるものというのは、真に大切なものだったり、大きな存在だったりするのだと思います。よく「墓場まで・・・」という言葉を言われますが、何にせよ、その様な思いを抱いているものがあるというのは、素敵なことだと思います。人で言うならそれは「信頼という絆」だったり、物であればそれは正に「宝物」なのではないでしょうか?かけがえのない物や存在とは、ひとりの人生の中に、そう多くはないのかもしれない。と考えると、今ある物や存在を温めていき、大事にしていきたいものだと思いました。
茂木さんは「墓場まで持っていきたい著書がある。」とおっしゃっていましたね。正にそれは「かけがえのないもの!宝物!」なのでしょう。
私も自分の人生において、「宝」と思える何かをまだまだ増やし続けたいと思っています。茂木さんはご多忙のご様子ですがお身体にお気をつけて、また、ゆったりと日記を書ける時間が戻ってこられますようにお祈りしています。では・・・。

投稿: 茂木さんの崇拝者より | 2008/10/15 15:02:53

子供の頃、私は蜘蛛に引かれて林によく探しに行きました。
夏休みの宿題に、当時はやった昆虫採集を提出した男の子達が数人。

一人はとにかくアブラゼミ、クマゼミ、ミンミンゼミを2,3匹あるものもあり、
私の大好きな蜘蛛数種類を1匹ずつ、
そして、こともあろうか、腸が数匹、ゴキブリ数匹。
カナブン。カミキリ虫。

軽いめまいと怒りを覚えました。
冷静に考えて、とにかく、同じものは入れる必要がない!
ごきぶりは何故?!(←そりゃ、こんちゅうですが・・・)
そして手軽に集められるものばかり。。

何より、蜘蛛と蝶は生きていて捕まえたのか?

やはり、昆虫採集には知性が出るんだと、小学3年生で
学びました。でも、どうして、少年達はその美しい生き物を
捕まえたくなるのか。。。

あ、私は蜘蛛と、ばったと、トンボは素手で捕まえますが、
単に運動神経を確かめるだけです。後は、そのまま自然に
返してあげます。

真っ黒に焼けた腕に突然舞い降りた蝉に、木と間違えられ、
「あ!」というまもなく、ぶすっと口を刺された経験があるのは
私だけでしょうか?・・・痛かったです。蝉もびっくりして、
慌てて飛んでいきました。お仕置きだったのでしょうか?

投稿: ラテン人 | 2008/10/15 11:37:05

茂木健一郎さま

書籍、茂木健一郎さまの書籍に対する気持ちと似た感覚は、そういえば

カルロス・クライバーさまがウイーン国立と来日の、ばらの騎手

切符販売前の販促パンフレットに
もし、これを逃したら、一生後悔する、少し手を伸ばせば届くのに
こういう主旨で記憶しています、
実は、切符が高額で
どうしよ?
でも、事実、カルロス・クライバーさまがウイーン国立と来日、その時しか、でしたので。購入して良かったです、あの時の公演、素晴らしかった。

茂木健一郎さまの書籍に対しても、後悔しないよう、もっと早く拝読していれば!
ただ、短期間で茂木健一郎さまの書籍、私、購入スピードが拝読するスピード以上なので

ちなみに茂木健一郎さまの書籍は逃げない!書店に参れば、一等地に!
来月に、つづきは書籍を購入した際に拝読させて頂きます。

投稿: HIDEKI TOKYO | 2008/10/15 11:32:14

茂木さん、こんにちは

お仕事、凄くお忙しいのですね
お体にはお気をつけて

沖縄はまだまだ30度行きますよ~
てぃだのあったかいパワー
茂木さんまで届きますように

投稿: ももすけ | 2008/10/15 11:17:24

毎日が「メスグロヒョウモンの日」である可能性があるはずが、眼前の雑務に囚われて無感覚に過ごしてしまうと、見落としてしまうでしょうね。感じることを大切にしたいです

投稿: さやか | 2008/10/15 10:55:50

茂木さん、おはようございます。
『生きて死ぬ私』
さっそく注文します。ピン!ときました。
読んだ瞬間、探していたものに出会ったんだとすぐわかりました。

投稿: 柴田愛 | 2008/10/15 6:57:23

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