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2008/09/23

影絵

「自由」とは何かという問題は、
とても難しいことである。

「自由」とは、自分の行為に何らの
制約も加わらないことだと普通は考えられがち
である。

しかし、それは、自由であることの十分
条件ではない。もし、「ランダム」であること
が自由であるならば、それは容易に無意味に
落ちてしまう。

カントは、自分の内なる格率に従う
ことができることが「自由」だと
考えた。

だとすれば、それは、「制約」という
意味ではむしろ不自由にも思える。

しかし、そのような内なる格率に従う
ことこそが「自由」だと、今の私には
確かに思える。

やりたいこと、夢見ていることがある。
世間との交渉の中で、それができるとは限らぬ。

限らぬが、やはり、鋭敏に感じ取っていたい。
感じぬ状態が、「自由」とは思えぬ。
それは、一つの不感症であろう。

札幌から帰る。

フジテレビ「あいのり」のロケーション。
すばらしいセットの中で脳科学の解説をする。
ドライアイスがぶくぶくと煙を吐く。

三菱商事にて、「脳を活かす仕事術」
のお話をさせていただく。
参加者からガッツのオーラが感じられた。
「タイガージェットシン」の話をする。
凶器攻撃と場外乱闘。

帰り道、ふと見上げると、一軒の家の
窓が素敵だった。

小学校の頃、セロハンを使って影絵をつくるのが
好きだった。

内なる格率は、きっとメルヘンと同じところに
故郷を持っている。
それは魂の「影絵」なのだ。

夜の道を歩き、ふと見上げて目に入った光景。

9月 23, 2008 at 09:46 午前 |

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コメント

禽獣はしたいことをする。だが人間はそれをしない。
だからこそ人間は自由なのだ…。
つまりは自律することが、自らに由るということですね。

確率で自分を縛って何が自由かとある種の人は言いますが、
その格率を無視しても何とも思わなくなってしまう
自分になってしまうことが絶望的に恐ろしいと私は思います。
それが私の足がかり、こころがかりなのだとも。

煩悩まみれの自分に発狂するほど苦しむような、
罪悪感にさいなまされて悶絶するほど悩んでしまうような、
例えば親鸞のような人間が、私はとても人間らしく思えます。
人間くさくて好きです。理想と自分との距離に嘆く姿が。
理想主義のいったい何が悪い?

たしか友人のシラーは

「僕が借金取りに追われて助けを求めても、君は
 僕をかくまってはくれないのかい?その道徳律によると。。」

みたいなことを言ってとすねていましたが。
しかしこれくらい厳格な人が倫理界にいてくれてとても頼もしく思いました。
いてくれていい!

投稿: | 2008/09/27 12:33:09

こんにちは。
自由について考えさせられる事は多くあります。
例えば、報道の自由、表現の自由、それらの主張の下になされる行き過ぎた行為。それらは自由ではなく、無軌道ではないかと。
内なる格率が論語にある七十従心の境地に至る事ときが、真に個の自由と言えると思うのです。

投稿: | 2008/09/24 23:43:54

おはようございます。

表現がわからずにたいのですが…

>カントは、自分の内なる格率に従う
ことができることが「自由」だと
考えた。


これって、私が見つけた「私」と概念と同じような気がします。
だから、私が私であるのだから「自由」なんだと思う。

どんな、制約があっても、それを判断するのは「私」であって、
そして、判断してどう行動するのも「私」である限りそれは自由なんだと思います。
ただ、理性部分の感覚としてはそう、認識しないかもしれませんが…。

私が私らしく生きることそれが自由なんじゃないかと思います。

投稿: | 2008/09/24 7:30:26

茂木さん、こんばんは

内なる格率、私もそれはメルヘンと同じところに古里をもつと信じています。

内なる格率は、
とても美しいものではないかと…


内なる格率の中でこそ、私は真に私らしくあり、自由であると。

その自由を得るために、様々なしがらみや、不条理と向き合っているような気さえします。

投稿: | 2008/09/24 1:43:38

私は、自由とは未来に開かれているものと考えていました。
しかし、最近、「過去」のほうがもっとも自由なのではないかと思うようになりました。
「過去」は過ぎ去ってもはや「ない」存在なのではなく、
誰からも制約を受けない自由な存在だからこそ、我々にはそれがもはや「ない」ように感じるのではないかと思います。

内なる格率に従わないことが「自由」ではないにしても、
過去は、格率に従ったことも、従わなかったことも、「自由」な存在に変えていくのだと感じます。

投稿: | 2008/09/24 0:51:49

茂木先生こんばんは。
昨日は過分なお言葉ありがとうございました。
クオリア日記を拝見していると、いろいろな引き出しがオープンになり、
遠い昔の思い出がよみがえったり、瞑想の引き金になったりします。
そんなわけで茂木先生には感謝しています。

>内なる格率は、きっとメルヘンと同じところに故郷を持っている。
>それは魂の「影絵」なのだ。

プラトンの洞窟の比喩のとおり、わたしたちが見ている「現実」は、
すべて真実の「影絵」なのかもしれないと思いました。

両手を使った影絵は、影を見なければ3次元で動く指と手の運動にしか見えません。
2次元に投影してこそ意味が生じてきます。

もし現実がなにかの影絵ならば、現実はそのなにかより次元が1つ低く、
しかもそのなにかを直接見ることができたとしても意味不明になるかもしれません。
あるいは「裸の真実」にたえられないかもしれません。

しかし意味を知ったり見たりすることができなくても、
美や真実を感じたり、希望を抱いたり、喜びに浸ったりすることはできます。

今朝、明るい日差しのなかを飛ぶアオスジアゲハを見ました。
朝陽を浴びている網戸で15㎝位のカマキリが甲羅干し(?)をしていました。
夕陽であかね色に染まったおしゃれな雲を見ました。
夕闇とともに始まる秋の虫たちの合唱。そして心地よい微風。

これらもすべて影絵なのでしょうか。

でも、これらに美と生命の躍動を感じ、
ささやかながら今生きていることの喜びを味わったことも事実です。

多分、影絵の背後に魂を感じたからです。

投稿: | 2008/09/24 0:02:13

何時だったか私も"自由゙という事について、友達と話しをした。(何故この話しになったんだっけ…?経緯は、忘れました…)


何でもして良い(ある意味では放任に近い)事が、自由だとは思えない。
ある程度の規制や枠はあるけれど、その中で探せる自由の方が意味のある事だと思う。

と、当時の私は言った。今もやはり同じ事を思う。

当時の友達は、違った事を言い、「じゃあ、この時は?」など具体的な例で聞き、私は色々な考え方があり面白いと感じた。


そして今。
当時の私、今の私が゙自由"と聞き、いきついた考えについて…何故この考えに行き着いたのかを考えてみたが、よく分からなかった。

投稿: | 2008/09/23 23:46:07

拝啓 茂木健一郎先生

初めてコメントさせていただきます。いつも楽しく、興味深く先生の出る番組を拝見しています。

ブログでの先生の感覚、言葉、考えが深くて温かく、自分のなかにスッと来て、色々と考えることがでるので好きです。

私も先生に習って、毎日アウトプットの為ブログを更新しようと思っています。

季節の変わり目、体調管理の難しい時期です。どうぞお身体に気をつけて。

投稿: | 2008/09/23 22:14:27

なにげなく使っている 自由 ということばに考えさせられました。

自由という言葉は 「他に由らず 自らに由る」という
仏教の言葉だと聞いたことがあります。

そういう意味では、茂木さんの言われるような意味が

自由ということばにあるのですね。

ありがとうございました。

投稿: オカモン | 2008/09/23 21:57:47

『自由』という言葉ほど恐いものはない。『自由』を履き違えると、戦争をも引き起こすことさえ容易であるからだ。

私にとって『自由』とは、人として守るべきルール(規律)を前提に、そこから導き出される己の“信念”こそが『自由』だと私は考える。

投稿: | 2008/09/23 21:43:57

こんにちわ

個人レベルの自由は、その人の能力になってきますが、社会的自由は、社会的責任とコインの裏と表のようにあるのではないでしょうか?


写真の左下のほうに、自由の女神が写っているみたいです。(^^)

投稿: | 2008/09/23 16:32:46

茂木さん、こんにちは。大阪の空は爽やかな秋晴れ。とっても気持ちのよいお天気です。「自由」について、その通りですね。茂木さんの熱い心に参りました!自由とは、ランダムではない。普段、何気なく使っている言葉の意味を改めて考えてみますとなかなか、そう単純な解釈ではない・・・と思いました。それから「夢」、茂木さんは何を夢みていらっしゃるのでしょう?!その夢は、メルヘンチックなのかな?!何かを感じることは大切。不感症には私もなりたくないです。(笑)上のお写真、窓越しに写っているシルエット、何だか温かくて癒されるような光景ですね。茂木さんの心の内にある何かを少しだけ感じられたように思います。素敵ですよ、茂木さん。

投稿: | 2008/09/23 11:44:02

きょうの日記のお写真、何とも謎めいた雰囲気ですね。

むかしよく障子をスクリーンにして“手影絵遊び”をよくしたことを思い出した。キツネ、犬、鶏、ヤカン…いろいろな形を手で作りながら影を映し出していく、その光景が実に不思議でならなかった。


…“自らの内なる「格率」に随う”こと、それは自らの中に己をつねに「律する」ものを持つ、ということに違いない。

子供の頃、自由の本当の「意味」について書かれた本を読んだことがある。

それには『(アトランダムに)やりたい放題のことをやるのが『自由』と思われているが、それは『放縦』というものであり、本当の『自由』には(常に)責任が伴うものなのだ』とあった。

自己の行動に責任を持つこと、それはとりもなおさず、己を律することなのに他ならない。それが「自由」の本義なのであると、その本は教えていた。

人として生きて居るということは、さまざまな形の『制約』というものに囲まれて生きるということで、時折、あぁ~、ままならないなぁ…と思うことが多々ある。

自分の中で、本当にこれだけはやりたいこと、挑みたいこと、夢に描いていることなど、数えきれないくらいある。

もっとそれらをやれる時間があったなら…と思ったりする。

日常の生活の中で、年老いて死ぬまでに、それがどれだけ出来るのか。全部出来るのか。

逆にいえば、自らを律するという“自由の「本義」”を貫く難しさもそこにあるのかもしれない。

それでも、人生でどれだけ『制約』があっても、夢への志向性だけは見失なわず、玉のように後生大事に、それを持っていたい。

仮令、生きているうちにそれらが、全部出来なくても…!

投稿: 銀鏡反応 | 2008/09/23 11:26:22

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