チームとしての連帯感
よく行くコンビニは、店長らしき
眼鏡をかけた細面の男の人がいて、
しばしば見かける学生バイトのような
人が二三人いる。
最近になって、眼鏡をかけた
おばさまが加わった。
先日飲み物を買いに行くと、
店長や、学生バイトや、おばさまが
たまたま勢揃いしていて、
「おお、オールスターキャストだ!」
とカンドーしてしまった。
人間の記憶における連想という
ものは不思議なもので、
買い物を済ませて
店の駐車場を歩いている流れの中で、
大学院時代にバイトで
塾講師をしていた時のことを
思い出した。
近郊にある大手予備校の
校舎。
校長のSさんは趣味人で、
いろいろと蘊蓄を傾ける
のが好きだった。
Oさんは予備校の先生を
しながら司法試験の勉強をしていた。
小説家志望のAさん、
学生運動をしていたというTさん。
講師室は多士済々で、最年少だった
私は、人生の先輩たちの話を
聞きながら社会についていろいろな
ことを学んでいたのではないかと
思う。
夏期講習の時などは、朝8時から
夜8時くらいまで授業を担当することが
あって、すっかり喉をからしてしまった。
講習時期は大変だったが、
その終わり頃、「打ち上げ」と
称して校長主催の飲み会が
あるのが楽しかった。
講師たちが勢揃いする。
ふだんは全員揃うことはないのだけれども、
その時ばかりは皆で語り合う。
「茂木さんは、将来一体何をするのですか」
Aさんが聞いてくる。
大学院生に、そんな展望など
あるはずがない。
そもそも、博士号を取れるかどうかも
わかっていない。
ボクが、博士論文の中核となる
非対称結合ネットワークの解析に使う
「グラフ変換法」を思いついたのは、
発表会の三ヶ月くらい前だったのだから。
予備校の講師というのは特に専任に
なると給料も良く、
立派な生活をしていたが、
それぞれ、司法試験とか小説とか、
どこかに行こうとしている人たちでも
あったから、
将来どうなるかわからない一介の
大学院生である私と、
そのような「胸のざわざわ感」
を共有していて、だからこその
「チーム」としての連帯感があった
のだろう。
コンビニでいつもはばらばらに
見る人たちが一度にいるのを
見て、昔予備校で抱いた
「チームとしての連帯感」を
思い出した。
Oさんは司法試験に合格したろうか。
それから、Aさんは、今でも大好きな
小説の話をしているのだろうか。
11月にワシントンで開かれる
Society for Neuroscience
(北米神経科学会)のabstractの
締め切りで、
研究室のメンバーと複数の
abstractを書いた。
「再配分ゲーム」「洞察問題解決に
おける閾下ヒントの役割」
「左右視野にまたがる同時性知覚」
「選好にもたらす感情的感染の影響」
「自己の確立における顔認識の機能」
「イミテーションゲームと鏡像変換」
コーヒーを飲みながら夜なべをする。
大学院の時に、バイトをしたり、
論文を読んだり、いかんともし難い
ことについて考えたり、
あの頃の夜なべと同じ、ずしりと
くる感触があった。
私たちは皆、不気味な沈黙を
保つ宇宙の真空の中に浮かぶ
地球号の乗組員であるのだなあ。
肩を寄せ合って生きているのだなあ。
Those engaged in fields of human activities based on the utility of natural languages do not know the ultimate justification of their activity. We are moved by works of art, inspired by the drama, thrilled by a piece of music. We do not know the origins of these experiences either. I was once in Madrid, and admired Picasso's Guernica. The serenity of its presence gave one a strong impression independent of the political and historical significance. I do not know where came all that phenomenal qualities of experience, either.
It is sometimes said that all philosophical writings are just footnotes to Plato (Alfred North Whitehead, in Process and Reality 1929) When the mind-brain problem is eventually solved, all musings and writings in the arts and humanities would become footnotes to the theory of the origin of phenomenal experiences, which still lurks in the darkness of human ignorance, in the brightness of hope for future enlightenments. ([46])
5月 16, 2008 at 07:58 午前 | Permalink
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» ニュートンの言葉 トラックバック 須磨寺ものがたり
まだまだ「耳順」の年齢である私の脳は、
いまだ進化し続けられるのだと、
脳はいくつになっても、
それで完成とはならないそうです。 [続きを読む]
受信: 2008/05/16 10:20:05
» それが日常というもので トラックバック なんでもあり! です 私の日記!!
眠る時、左胸を下にして横になったら 心臓の鼓動がはっきりと伝わってくる。 思わず、1、2、3…と数えてみる。 普通に生活している間は そんなことはしない、考えない。 血流のことなんか思いもよらない。 それが日常というもの。 姿勢の変換や調整は、 あらためて何かを知らせてくれる。 留まることのない生を感じさせてくれる。 その感動で あちらを下に、こちらを上にと転がってみる。 手足を伸ばしてウーンと伸びをひとつ。 たくさんの空気が胸いっぱいに入ってきた。 ... [続きを読む]
受信: 2008/05/17 8:50:53
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コメント
コンビニで働く人々が、プラトン(アリストテレス)の描く洞窟の風景の寓話にオーバーラップした。洞窟の中で影絵に向かい合って座り、身体を椅子に縛られじっと動けずにいる洞窟内の囚人達。無知であることは、先入観の無い自由な好奇心をわたしにもたらす。
投稿: 悪ガキトモコ | 2008/05/17 3:26:00
茂木さん、私もさっきまで、友達と熱く語り合っていました
今ある課題から、将来の夢まで。
仲間っていいですよね、時々、意見の食い違いから、大変なこともあるけど、
すべてが良い経験、私の中に蓄積されていってます。
時が立ちかつては理解不能だった人のことも、理解できるようになったり。
そして、気が付いたら対立してた人とすごく仲良くなってたりして
脳活用法SPで、自分が成長すれば、相手の違う面が見えるっておっしゃってましたが、本当にそうですね。
そう考えると、
地球の仲間も、試行錯誤を繰り返しながら、いつかきっと皆が国境を越えて仲間になれる日が来るんだなあ~と思いました
そういう意味で、自分だけではなく、他人にも、無限の可能性がある。
それならば、お互いの素晴らしい可能性を信じて今を生きることは、皆が幸せになれる、魔法の種だと思いました
いつも素晴らしいヒントありがとうございます

投稿: ももすけ | 2008/05/17 2:40:36
It is a feeling not uncommon amongst artists, that in their greatest works they are revealing eternal truths which have some kind of prior etherial existence...
* "...a famous poet is less of an inventor than a discoverer..."
投稿: s | 2008/05/16 23:49:07
茂木先生、昨日のコメントに対するお言葉、恐縮です。/(^:^)> 宿題提出したら、花マルいただいたみたいにうれしかったです。<(*;*)/
ホワイトヘッドの「西洋哲学はプラトンの脚注にすぎない」(overstatement*か?)という言葉を初めて知ったとき、衝撃を受けると同時に、何か解放された気持ちになりました。茂木先生の引用で改めてこの言葉の「解毒作用」を思い出しました。
科学では、例えばダーウィンの仕事以降たくさんの脚注が書かれ、その代表的なものが、ハーバート・スペンサーの「適者生存」、ドーキンスの「利己的遺伝子」だと思います。どちらにも一理ありますが、overstatementであり、「毒」を含んでいます。これを解毒するのが、ホワイトヘッドの言葉です。この言葉にも毒がありますから、「毒をもって毒を制す」というわけです。
そこで、footnotes to the final theory of the mind-brain problem はどうなるか。多分、これまでのどんな哲学、科学理論にも増して、多くの脚注が書かれるでしょう。この場合、ニュートンの『プリンキピア』に対するラグランジュの『解析力学』のような脚注(?)が書かれれば健康的です。『天体力学』を書いたラプラスは、『解析力学』を見て、あせりまくって自分の本に計算間違いがないかチェックして、やっと胸をなで下ろしたそうですから、健康的で発展的な脚注の力はあなどれません。
問題は、あまた書かれるであろう脚注に、専門家ではない私たちが振り回されずにいられるか、ということです。エポケーという手もありますが、毒味は欠かせませんから、毒に当たったらこわい。そういう意味で、ホワイトヘッドを援用された茂木先生の言葉には、解毒作用があるのでは、と思いました。スペンサーやドーキンスのように社会的に強いインパクトをもった脚注が出たら、とりあえず「footnote、footnote」と唱えてみるつもりです。
茂木先生がゲルニカの前で感じたserenity、これはfootnotesでは扱えない、あるいは解題しようとすると、serenityそのものが解体してしまう、「聖なる領域」に属するものだと思いました。 Final theoryが出ても、偉大な芸術がもたらすものは、footnotesを超えた所にあり、なかでもserenityは滅多に「降臨」しないのかもしれません。
そしてFinal theoryの発見には、sense of wonderとは別次元の、serenity、humility、sense of aweが伴うのでは、と妄想しています。
いつも貴重なご教示に感謝します。
* footnote to 'overstatement'
Two quotations from "Process and Reality"
'The chief error in philosophy is overstatement.'
'Error is the price we pay for progress.'
「誇張は最大の過ちだ」と言っておきながら「過ちは進歩への代償だ」とくる。うーん、ホーさん、アンソニー・ホプキンスみたいな顔して、言うことはジャック・ニコルソンみたい。でも、嫌いじゃない。
投稿: 遠藤芳文 | 2008/05/16 23:23:58
眠いまなこを擦りながら
船長さんは コーヒーを 啜るのでしょうか、
自らの使命と 皆の求めて止まない憧れは
いつしか 真空の闇の中
何色かの光となり 表れるのでしょう
仲間という名の家族と共に進む船の軌跡は
地球号で待つ人々の 灯り そのものです
専門的な言葉の記述に 場違いさを感じつつ
我が子に
こんな事を考えていらっしゃる方も居るのだと
夢見る道の 数多い事を話します
若さの尊さを 忘れないで欲しいものです
そして 親である私たちは
そんな彼らの 夢や憧れを 守るものでありたい
先生の研究室ですもの、
きっと 小さな笑い声が 聞こえてくるのでしょう
お体 大事に為さってくださいね
投稿: hi | 2008/05/16 22:34:15
>We do not know the origins of these experiences either.
自然界には4つの力があるといいます。しかしある芸術作品が私に強い影響を与える時、果たして、その芸術のもっている力は4つの力で記述できうるものであるのか疑問に思います。意識に対する、従来の物理学的記述が、クオリアがなくても成立すると同じように、4つの力の記述では、芸術は力を持ち得ないように感じます。
しかし、芸術は私の心を揺さぶる力を現実にもっています。
しかし、その力を認めたとき、私の心を揺さぶる芸術の力の作用が、芸術のいかなる物理的特性に反作用することがあるのでしょうか。
芸術に対する感動は、クオリアと同じで、一人称的な現象です。私たちの感動が、芸術そのものに反作用するのであれば、芸術は感動を与えるたびに、変容するものとなってしまいます。芸術による感動はまさに、私秘的に、芸術作品を変容させます。
私の感動がまさに、私にとっての芸術作品の価値を変容していくように思います。
そのように考えると、芸術はなるほど(古典的な)物理的特性をもっていることは間違いないけれども、その(古典的な)物理的特性が私達の心を揺さぶるとは思えません。
しかしながら、ある芸術作品に対する「私のクオリア」が私に影響を及ぼすとは一体いかなることでしょうか。「私のクオリア」がなぜまたさらに「私」に影響を及ぼすことが可能なのでしょうか。
そのように考えると、「私のクオリアである芸術作品」が「私のクオリアである「私」」に影響しているとしないと筋が通らないようにも感じます。
しかし、そのような考えの行き着く先は、「クオリア」は「クオリア」であるという無意味な主張でしかありません。
この無意味な戯論から離れ、かつそれを、記述するためには、いかなる方法に依るべきでしょうか?「私」という言葉は固定されたものではなく流れ移ろいゆくものと捉えなおした時、何か問題が解決したような感じがしますが、ことの本質は、なぜ流れ移ろいゆくものから、「私」が常に生じているのかというところにあると思います。
「私」は流れ移ろいよく常でないものであるにもかかわらず、常に私です。
この矛盾を紐解くことが大切だと感じました。
投稿: 金田恭俊 | 2008/05/16 21:45:11
若い頃のそういう「胸のざわざわ感」
予備校に通ってた一年間は、どうにも所在無く
自分が社会の枠の中からはみだしているような、
不安な気持ちで過ごしていましたねぇ。
仕事もして結婚もして、恋もしないだろう今後は
もうそんな気持ちになることはないのでしょうか?
なんかちょっと寂しいような・・・
投稿: こばやし | 2008/05/16 17:53:50
相対性理論の話をテレビで見た(少しだけ…部分的にです)。
雑誌にその特集が出るようだから是非とも買わなくては!(^ ^)
他の人の心は未知の部分もある。でも自分の心も未知の部分があって。
常に問いかけ、何を求めているのか、しっかり考えていかないと。。
投稿: 奏。 | 2008/05/16 16:22:22
>「茂木さんは、将来一体何をするのですか」
Aさんが聞いてくる。
これは難しい質問ですね、予言者でなければ、答えられません・・・。正確には、「将来、何をしたいですか」と、言う質問と思いますが・・・。
ところで、私たちの地球号はどこへ行くのでしょう。(^^)
投稿: 将来のクオリアby片上泰助(^^) | 2008/05/16 13:50:22
こんにちは。朝、茂木さんのブログを拝見して<今日も茂木さんは元気◎>と確認してから仕事を始めます。
茂木さんはいつも温かい空気を醸し出しているみたいで愛が伝わってきます。イメージで言うと、茂木さんの脳はキラキラしている感じです。
あ、この流れだとラヴレターになってしまう・・。
そうではなくて、
チーム地球の私達は自分が今ここに存在するという奇跡をあらためて感じなくちゃ。片寄せあって・・そうですね。私たちは争うために生まれてきたんじゃないですよね。
投稿: 直 | 2008/05/16 13:33:44
SfN登録お疲れ様です。今年はDCなので場所的にうちのメンバーには人気がないのですが、私は参加すべく、やはりぎりぎり昨日エントリーしました(笑)。一昨日、池上さんのところに出かけて「時間の記憶」についてディスカッションしたところです。またいつか、そんなお話でもできれば。
投稿: 仙台通信 | 2008/05/16 12:09:32
茂木先生と同じ地球号の乗組員として、光栄です。
なんて、柔軟でまた哲学的な思考を持っていらっしゃるのだろう?
青春時代の1ページ、そこには存在し得ない私ですが、
リアルにそのシーンを想像し得る不思議さ。
予備校生達は茂木先生の情熱を浴びながら、彼らもまた「胸のざわざわ感」をかき消す為に、必死に勉学にとりくんでいたのでしょう。
そして予備校の講師である先生方も、「将来の確固たる道筋」が見えないからこそ、産まれ出た「チームとしての連帯感」。
「家族」も似ている感じがします。
だからこそ、今一瞬を大切にしたいと思います。
「夜なべ」御身体に差し支えるので、程々になさって下さいませ。
投稿: 玉露 | 2008/05/16 11:44:22