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2008/05/17

くるくる回転するぞ。

3日くらい前、
朝目覚める直前に夢を見た。

 「あっ、そうか」
と思った。

 「自分の知らない領域に
チャレンジする時は、とにかく、
遊ぶことが大事なんだ。」

 その命題は、強靱なロジックに
貫かれているように感じた。
 知っている領域ならば、
特定の方法論を適用できる。

 知らぬのならば、とりあえずは
踊るしかない。
 Tanzen, Tanzen, Tanzen!

 「自分の知らない領域に
チャレンジする時は、とにかく、
遊ぶことが大事なんだ。」
 その感覚は、起きた後も
しばらくは続いていて、
 不思議な思いが胸を満たした。

 ソニーコンピュータサイエンス研究所
にて、My Sony Mail Magazineの
取材を受ける。

http://www.sony.jp/mail/mysony/index.html 

撮影も取材も、とてもよく考え抜かれていて
凝っている。

伺うと、読者が120万人いるとのこと。

「とにかくもう、力を込めて
作っているのです。」

さっそく登録する。

私のインタビュー記事も、近日中に
配信される予定。

お楽しみに。

 脳研究グループの会合。
 Society for Neuroscienceに
投稿した余韻が残る。

 皆、全力で頑張ろう!

 脳グループの会合の前に、
何人かでラーメンを食べに行った。

 柳川透が、「最近思うんですけど」
と言う。
 
 「うん、何だ?」

 「反応選択性って、やっぱり役に
立ちますよね。」

 「そうか。」

 「実際に脳の活動を解析する時には、
反応選択性を通してやるしか
ないですよね。」

 「それは、まあ、実験のデータを
解析する時には、そういうことになる
んだけれどもね、でも、結局最終的には
ダメなんじゃないかな」

 私の実質上の処女作
『脳とクオリア』 
(日経サイエンス社 1997年)
はその「反応選択性」に対する
激しい攻撃で始まっている。

 そして、「マッハの原理」に至り、
そして「相互作用同時性の原理」に至るのだ。

 「柳川、お前なあ、
ウン十年後とか、オレが死んだとき、
代表で弔辞を述べて、
「茂木さん、結局反応選択性で良かった
んですね」なんて言うんだろう!」


 「ははは。」

 「てめ〜、そんなこと言ったら、
化けて出るぞ。墓の中でくるくる回転するぞ。」

 「はははは。でも、あちらの世界で
問題が解けるかもしれないですよ。」

 「なんだと〜。」

 みなさん、問題は、生きているうちに
解かないと仕方がありません。

 がんばるしかありません。

 ぼくは、先日の
NHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』
の脳活用術スペシャルで放送されたように、
 柳川透くんのアタマを「よしよし」
となでた。
 
 朝日カルチャーセンターにて、
脳のレクチャー。

 胸がざわざわする時に、
人は変化への胎動を感じる。

 世の中の趨勢とか、
 社会の流れとか、
 そんなこととは無関係に、
 智恵をつくせば必ずざわざわの
回路は見つかる。

 高校の時、私はニーチェを
愛読していて、
 「舞踏」という
概念に心を惹かれた。
 
 この世に定まった意味などない。
 だとしたら、踊り、生命を
燃やすしかない。
 
 世界は美的過程としてのみ是認される。

 そして、その美しさのど真ん中には、
「生命」と書かれているのだ。

Response selectivity is a useful idea, and continues to dominate neuroscience as the de facto central dogma. The selectivity of a single neuron, a group of neurons, or the overall activity pattern of the whole brain is often the only measurable quantity. A lot of things have been clarified with this method of analysis, from functional mapping to the characterization of relevant brain areas.
As a guiding principle for the elucidation of the principles of phenomenal experience, however, response selectivity suffers from a series of serious problems, making it ultimately untenable in the effort to clarify the origin of mentality. These defects can be perceived quite easily if one examines the empirical evidence with logic and clarity. ([47])

5月 17, 2008 at 08:48 午前 |

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受信: 2008/05/19 0:46:32

コメント

茂木先生 こんにちは♪
知らない領域にチャレンジする時には遊ぶことが大切なんですね!知らない領域なんて大袈裟なことではないのですけど毎日の生活の中で疑問に思ったり改善出来ないかな?と思うことは 一応やって見ます。ただ、ほんと他の人から見たらバカバカしいことでお風呂で楽に頭を洗える方法とか 坂道を下りる時膝に負担がかからない方法とか!頭を洗うのはお風呂場に寝て洗う方法です。たしかに楽ですが家のお風呂場は狭く駄目でした。坂道は後ろ向きに下りる方法で 楽で膝の負担はほんと少ないのですが、掴まる所と下の道が平でないと駄目ですね!
いつも後ろ向きだとフラミンゴの足が思い浮かびます(笑)なんだか、どうでもいいことですけど毎日の生活は楽しめます!それと どうしてそれはそうなっているんだろう?と疑問を持つことは 脳にもいいことではないかな!?と思いますけれど…
それとお墓の中で ぐるぐる回るのは狭いからですね?私は閉所恐怖症気味なので 家の墓地の敷地の地面に穴を掘って細かくしてもらい埋葬してもらいたいと思っています。地面にとけて どこでもいけるからです。自由で広いからです。生きている今 楽しんでいろんなことにチャレンジしていきたい

投稿: 平井礼子 | 2008/05/19 14:47:37

A greatly exciting moment came to my mind when the thoughts below ran through my mind then I understood the flaw of response selectivity and the significance of Mach's principle in perception.

...there is a fundamental flaw in this line of argument, which becomes apparent when one tries to answer the following question. “When a neuron selectivity responsive to a feature A fires, how does the brain (or the subject) know that it is selectively responsive to feature A?” That is to say, response selectivity seems to assume that the relationship between external object and mental phenomenon has been already established, as “It’s already something out there in the environment.”

投稿: s | 2008/05/19 7:02:55

こんばんは。

>この世に定まった意味などない。
この言葉のもとに、絶対的な価値を持つものなど存在しない、という認識が導かれます。良い悪いとか正誤とか長短とか優劣などは、とかく「正」と「負」のように直線上の数値化された意味のように捉えられがちですが、それらはあくまでも相対的なものに過ぎないという認識が浮かび上がってきます。確かに、生きていく為の手段やテクニックとしては、不器用よりも器用の方が、鈍いよりも鋭い方が有利ではあるけども、それも単なる一側面に過ぎないのかな、と。
少し飛躍してしまいますが、『万物は、ただ変化する』、そして、ダーウィンの言葉『背景に法則が潜み、詳細は偶有性に支配される』、そのことを見落としてはいけないような予感がします。
ただ、一心に生命を育もうとする精神。最終的には、これが美的過程の中に貫かれてさえいればよいのではないかという思いに辿りつきます。(間違った考え方だったらすみません)
「この世に定まった意味などない。」矛盾やしがらみや不安の中を生きる者にとって拠り所となる言葉だと思いました。着地できる安心を感じます。ありがとうございます。


>「てめ〜、そんなこと言ったら、
 化けて出るぞ。墓の中でくるくる回転するぞ。」
  ↑ひぃーっ!コワイよぉ~
  でも、お墓の中で暴れるのはやめてください(笑)。
                 ・・・スミマセン。

投稿: s.kazumi | 2008/05/18 21:40:21

今日は。 
何時も勉強させて頂いております。
先日の事ですが、私はふっと、脳について考えていました。
人間は、ある年齢(もしや赤ちゃん)から視覚に入ったものは、
全て脳に記憶されているのではないか? と考えていました。何故、そう思ったかと言うと、
ある時、全く忘れていた記憶が、何かの拍子に甦ったのです。
もうそれがなんだったかも忘れてしまったのですが・・。
けれども、kim peek さんの脳のお話を伺って、その膨大な記憶力の凄さ・・・と聞き、
案外、それは正しいのではないか? と自分勝手に思いました。
脳梁がある普通の人は、左脳と右脳で、比較し不要な記憶と判断されたものは削除されていき・・。
その削除は、アポトーシスと関係があるのでは?・・なんて素人判断ですが考えたのです。
専門的な事は分からないので思いつきです。馬鹿馬鹿しいと思われたらすみません・・。

投稿: Hanamura | 2008/05/18 17:01:44

こんにちわ

反応選択性ですが、別の猿が何かを食べていると、自分が行動していないのに、食べる時のニューロンが反応するらしいですが、人間の場合「食べる」「うまい」と言う言葉を聞くと、食べる時のニューロンが反応するのではないでしょうか?。また、その反応選択性ニューロンが言葉のメタ的意味のネットワークを作っているのではないでしょうか?


あちらの世界では問題が解けているか・・・不思議だ・・・。こちらの世界で問題を解かなくては(^^)


投稿: こちらの世界のクオリアby片上泰助(^^) | 2008/05/18 0:34:48

こんばんは。

18日。
横浜美術館での対談、家具とデザイン。

興味深いテーマなだけに、とても残念です。


きのう
仕事の帰りみち。

降りはじめた雨にであう。
潤った夜の外気は
少しほこりっぽくて、なんだか切なく
そして少し温かいなと思う。


懐かしい。
その空気が、今の私と同化するように
心地よく、つかの間を無防備でいられたクオリア。

少し、
クールダウンした頃、家につく。

おつかれさまです。
ちょっぴり、お疲れかなあとお見受けしました。
お忙しいかと思いますが、お体ご慈愛くださいませ。

投稿: 美容師 | 2008/05/18 0:32:12

先生、お元気そう
安心しました。

投稿: hi | 2008/05/17 20:22:20

茂木博士、昨夜の朝カル、本当にお疲れ様でした。

映像で見せていただいた偉大なるSavantたちの才能と行動に、自分の中の熱いものに強い光が、灯された思いだった。

講義で仰っていたように「障害」こそはまさに「ユニークさ」の証明なのに違いない!


今日のこの日記を読みながら、人生は“舞踏”しながら、「新しい知らない何か」に挑んでいかなくてはならない時が来るものなのかもしれないと思っている。

…この先、何が待ち構えているかもわからないし、明日死ぬかもしれない。

けれども、そんな人生、自分自身にとって未知なる世界に出遭ったら、多少の不安はあるけれど、遊ぶように、楽しむように、躍るように挑んでいくしかないんじゃないか。

苦しみつつも、またそれを楽しみと捉え、その謎に前向きに挑んでいく。私はまだまだ「どこかのほほんとしている」けれど、舞踏家が魂を燃やして舞台で躍るように、命を燃やしてそうしていきたいものだ…!

ところで、茂木さん!

まだまだ脳科学には疎い私ですが「マッハの原理」や「相互作用同時性の原理」のほうが、きっと正しいという気がするのです。

どうか、絶対に、ご証明、がんばってください!

(乱筆何卒お許し下さい。)


投稿: 銀鏡反応 | 2008/05/17 19:43:47

おじゃまします。
茂木先生のブログはつい最近まで知らなかった領域でした。
毎日のぞくたびに、ドキドキ感と新しい発見があることに驚いています。
そうか、知らない領域にアクセスするためには「遊び」、あるいは「舞踏」が大切だったんですね。
でも私は、踊りは苦手です。マサイの人たちのように屈託なく踊りたいのですが、踊っている自分の姿を想像すると、恥ずかしさやためらいが先だって…(この辺が私の限界なんですよね)。
ということで、今日は本の世界で遊ぶことにしました。以前買ったままになっていたショーヴェ洞窟の大型写真集(Chauvet Cave)です。
圧倒的な迫力で、気がついたら胸がドキドキしているのです。サスペンス映画のクライマックスに近づいた時みたいな感じ。
3万年前の人々が描いたと言われる壁画。壁の起伏を利用して描かれた動物の、うなり声を挙げて走っているような躍動感。どれを見ても脳を引っかき回される。
見終わったときは、遊園地のコーヒーカップに乗ったときのめまい感。
気がついたら脳みそが踊っていたのでした。

今日も茂木先生のおかげで、楽しませて頂きました。
ありがとうございます。

投稿: 遠藤芳文 | 2008/05/17 18:23:36

茂木さん、こんにちは。

「生命」と茂木さんが書かれるとき、この間の「On the Origin of Species by Means of Natural Selection」の「view of life」っていう言葉を思いました。

ナンチャンがラストに「総合知ある変人たれ!」とかなんとか叫んでいて、今のスカの時代は、これで行くしかないんだろな、と思いました。

「舞踏」とは、ニーチェに由来する概念でしたか。村上春樹さんの「ダンス ダンス ダンス」をふと思い出しました。「とにかく躍り続けるしかないんだ」というフレーズには当時、かなり影響された記憶があります。

当時はバブル絶頂期で、東京にいた当方は、物理的にもディスコに毎日のようにでかけていて、日比谷ラジオシティと六本木リージェンシーを日替わりで通っていた感じですね。(「踊る」ってそんなことじゃないでしょうよ、なのですが。)「ダンシング・クィーン」(’77年)に代表される80年代ディスコもそのころまでがよくて、お立ち台にケバいお姉さんが扇をひらひらさせて踊り出したときには、もう、おれらの時代は終わったんだなと寂しくネクタイを外しながら退場することにしたのでした。

村上さんの本の中にはいろいろな概念が入っていて、細かい分析は専門家に任せるとして、当時のニューアカデミズムからも逃れることはできていなかったようにも思われます。

当方もアサダなんとかさんの本とかにも御多分に洩れず影響され、デリダだのドゥルーズだのガタリだのと聞きかじりの概念をもてあそんでいたころがありましったっけ。

エスタブリッシュ的なものに対して単純に反抗して火炎瓶を投げても意味がないんだ、ずらすんだ、中から揺さぶるんだというような「新しい」感覚自体はいろいろな場面で「道具」として活用させてもらったような気もしていますけど。

10年くらい前にニューヨーク大学のアラン・ソーカル教授さんが、当時、ポストモダンをもてはやしていた連中を完全にコケにした論文を発表して、このハヤリは大体、終わったようなものですが、その後、立ち直ってきている人は出てきているのでしょうかね。出てきていたとしても茂木さんの「思考の補助線」を前にどうするんですかね。

平均寿命的には、人間、100年も生きられないわけで、かつ、もう、恐らくその半分以上は費やしてしまっていて、なんて考えるとハカナイものですよね。幼いときに布団の綿毛を見つめながら夢見ていたことを生きているうちに、ですね、茂木さん(自戒の念も込めまして)。

「勉強法」ー大学受験時代に茂木さんも「でる単」(別名「シケ単」)をやっていたんですね。共通一次世代でもあり、素朴に共感できます。五者択一のマークシート(時によってオレンジやブルーやグリーンなどいろいろな色があったような)と格闘しながら、つまらんものをやらされているなという感覚はどこかにあったですよね。当時のエスタブリッシュ側の提供するマズシサみたいなものが感じられて。

ただ、題材としては、小林秀雄の「考えるヒント」や加藤周一の論考などが出ていて面白いなと思った「瞬間」はありましたけど。

30歳代前半に、あるヤクショの人事担当者として採用試験面接官などをやっていた時期があるんですが(まさにエスタブリッシュ側!)、緊張している受験生に質問しながら、我ながらツマラン質問をしているなと思っていたこともありました。就職大氷河期と言われた時代で、ほとんど落とすためのような試験だったことを思い出します。当時の受験生、ゴメンナサイ。今になってクニは「再チャレンジ枠」なんて始めていますけど、だったら、当時から採用してあげりゃよかったじゃないかと思ったりします(当方もクニの一員だったわけですから大きなことは言えないんですが。)。

ゴールデンウィーク中、「ラ・フォル・ジュルネ」がこちら石川でも行われていてルネ・マルタンさんがローカル番組に登場されていました。子どもを連れてでかけたかったのですが、身辺些事のため行けなくて残念でした。

秋には、クレーメルが来県して、地元のオケとのジョントがあるようなので、そっちに子どもと行くことにします。そして、帰りには第七ギョーザを、あちち、と言ってタレを1,2滴こぼしながら(あれって必ずこぼれませんか)ホワイトギョーザを食べてきます。

「It(music) was just there. Invented or registered as a language of emotion. As a matter of life. It is exactly here.」(Gidon Kremer)

「life」と「music」。どう考えても無縁ではないですよね。

ますます御多忙のことと思いますが、御自愛ください。


投稿: 砂山鉄夫 | 2008/05/17 17:47:33

茂木さんと柳川さんのお話。温かいです。
ささくれを作りかけた心の中に、ポっと温かい光を頂きました。
自身で、ポンポンとやりながら。今日も一日がんばれる。


踊ろう!踊ろう!踊ろう!回れ!回れ!回れ!
ほら!一緒にしよ!
さあ、いこう!(^ ^)

こんな感じを受けました。

人生という舞台で、どうやって踊っていくか。
これも選択。

心の声を聞いて、踊ろう!楽しい事も苦しい事も全て。それが踊りの深みや良い味になって、見終わった時に感慨深いものとなるハズだから。。

投稿: 奏。 | 2008/05/17 11:55:13

>As a guiding principle for the elucidation of the principles of phenomenal experience, however, response selectivity suffers from a series of serious problems, making it ultimately untenable in the effort to clarify the origin of mentality.

反応選択性では解決できない心の起源の問題に直面したとき、ある人は二元論の立場にたち科学的な記述は無意味であるとし、またある人はそれは科学で説明できるとします。しかしそのような立場間の議論はいずれも無意味のように感じます。
物と心がたとえ二つにわかれた特性であるとしても、互いに相互に関係していることが明白である以上、それは一つに統一され記述できることができると感じました。

投稿: 金田恭俊 | 2008/05/17 10:20:54

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