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2008/05/28

沸騰バー

プッチーニ・ガラの
打ち合わせのために
オペラ・シティに行き、
ダン・エッティンガーに会った。

話し始めて1分くらいで、
「この人とはとても気が合う!」
とわかった。

ルーマニア生まれの両親の下、
イスラエルで育てられたという
ダン。

「プッチーニが好きだ。なぜならば、
ワグナーに似ているから」

「ワグナーを演奏する時は、モーツァルト
のように。モーツァルトを演奏する時は、
ワグナーのようにやるんだ。二人の音楽の
間には、一般に考えられている以上の
結びつきがあるからね。」

ダンは、先の新国立劇場での
カール・マリア・フォン・ウェーバーの
『魔弾の射手』の指揮を担当した。

学芸大学附属高校2年生の時、
学園祭(「辛夷祭」)で
皆で『魔弾の射手』を
上演し、ぼくは照明を担当した。

総合演出は、何回かこのブログでも
天才、和仁陽だった。

そんなことを思い出しながら、
ダンに、「魔弾の射手はどうだった?」
と聞くと、
「最初は、好きじゃなかったんだ」
と言う。

「指揮をしていても、これはワグナーじゃない、
これはワグナーじゃない、とそればかり
考えていたよ。でも、そのうちに、
独特の魅力に気づき始めたんだ。」

オーケストラのリハーサルを、
最初の30分だけ見学した。

ワグナーの
『トリスタンとイゾルデ』から、
前奏曲と愛の死。

冒頭、チェロの印象的な
旋律。

密かに愛する人を見上げる、
そのまなざしの運動がはっきりと
伝わる。

最初の数小節で、
この作品が歴史に残る一大傑作だという
ことが胸にしみる。

やがて、来る
オーケストラの演奏のみの
「愛の死」。

自然と内側からことばが甦る。

In des Welt-atems Wehenden All
Ertrinken, versunken.
Unbewusst hochste Lust

世界の万有のため息の中に
飲み込まれ、沈み
意識することもない、最高の喜びよ。

http://www.youtube.com/watch?v=RLoHcB8A63M 

http://www.youtube.com/watch?v=Jby6AaCj1K4&feature=related 

ジョージ・バーナード・ショウは、
仕事机の上にいつも
『トリスタン』の総譜と
マルクスの『資本論』を置いていたという。

NHKにて、「プロフェッショナル 仕事の
流儀」の打ち合わせ。

釧路湿原で野生動物専門の
獣医をしている
齊藤慶輔さんのVTRを見ながら、
いろいろとお話しする。

取材を担当したのは、
NHK札幌放送局の
宮川慎也ディレクター。


「住吉美紀さんの向こうに見える宮川慎也さん」

人間世界と野生の関係について
考える。

山口佐知子さん(さっちん)が、
いつにも増してドレッシーな姿で現れた。

柴田周平デスク 「さっちん、今日は一段と」
さっちん 「エヘヘ」

「パパザウルス」の収録。

おにぎりをむすんだ。

スタッフの人たちがいらっしゃる
部屋は、とても眺めがよく、
わきあいあいとした雰囲気が
漂っていた。

編集の天才、小林幸二さんに出会う。

「あっ、茂木さん」
「あっ、小林さん」
「この部屋は何ですか?」
「ここで、小池耕自さんと『沸騰都市』
のドバイの編集ををしていたんですよ。」
「そうか。あの番組、評判ですよねえ。」
「いやあ。」
「この前、メールで、バーのことを
書いていましたよね、小林さん!」
「ええ。ぼくの行きつけのバーなのです。」
「今度行きましょう!」
「沸騰バーだあ!」


小林幸二さん

「中央公論」
「新・森の生活」の原稿を
井之上達矢さんに送る。

さっそくメールをいただいた。

From: 井之上達矢
To: "Ken Mogi"
Subject: 中央公論の井之上です。
Date: Tue, 27 May 2008 20:26:19 +0900

茂木健一郎様


原稿間に合いました!
お忙しい中、
ありがとうございました!

今回の
「自由意志と因果律決定論は両立するか」
というテーマは、
これまでの著書でも言及されておりますが、
まだまだ
掘り下げることができそうですね。
茂木さんの書きっぷりを見ても、
他のテーマ以上に
「紙幅が許せばいくらでも感」が強かったように思います。

「選択の自由(と私たちが認識しているもの)」の背後にある
「人間原理(というより宇宙原理?)」が、
実は、
「選択の自由」のど真ん中を串刺しにしている、
という指摘は、
この原稿では
さらっと書かれていましたが、
かなり“恐ろしい”ことですよね。

「私たちは自由意志を持っている」と感じることは、
私たちが人間らしく生きるために必要であるが、
「そう私たちに感じさせている何か」
もしくは
「そう私たちに感じさせている原理」
があると。

ただ
そこを見つめないと
「現代」に行き詰まり感からは
解放されないということでしょうか。

無駄だ、という意味ではない、
「現代版神学論争」を
乗り越えるべき時なのかもしれませんね。

次に「神が死ぬ」のはいつなのでしょうか。

スケールの大きな
原稿本当にありがとうございました!!


中央公論新社
雑誌編集局「中央公論」編集部

井之上 達矢

One pragmatic way to look at the mind-brain problem is through the coding of information. The fact that the physical and psychological time do not coincide is a testimony of the coding principle adapted by the brain. In the generation of each quale, there is a non-trivial mapping from the physical space-time onto the psychological space-time, through which the coding of information by neural activities is realized.
One crucial difference here from the conventional coding of information in computers is that there is no look-up table to refer to. Even if there is to be a look-up table, that needs to be embedded in the dynamics of the neural network itself, not as a separate entity as in the case of digital computers developed by humans.
The failure of the present day computers to handle semantics successfully is attributable to the lack of a coding scheme as is adapted by the human brain. Understanding how the mind relates to the brain thus becomes a central issue in understanding information coding in the cortex and devising practical applications of its principles. [57OOC]

5月 28, 2008 at 08:33 午前 |

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受信: 2008/05/29 9:03:12

コメント

>「選択の自由」のど真ん中を串刺しにしている「人間原理」

この言葉に、しばらく頭がしびれていました。
ポール・ディヴィス『宇宙に隣人はいるのか』の最後に、「宇宙の自己認識」という言葉が出てきました。これは人間原理の別表現だと思います。宇宙の一部である人間が、その過剰な「選択の自由」を駆使して、生存とは関係のない探求に乗り出し、ついに人間原理に到達して驚愕する。宇宙は人間の出現を通して、自己認識のプロセスを実行しているのか…。すると、「選択の自由」のど真ん中を串刺しにしているのは、「宇宙の自己認識」でもあったのかと。人間原理によって、数ある自然定数の数値は予言されないが、少なくとも人間は、宇宙の中で疎外された存在ではない、「選択の自由」は宇宙によって保証されている、と感じたのでした。

投稿: 遠藤芳文 | 2008/06/03 1:36:03

「選択の自由」のど真ん中を串刺しにしているというのは「色々な社会的脅迫からの解放という部分で自らが選択する自由というという言葉に縛られ、かえって自分を不自由させている」と 僕は解釈しています。
「現代版神学論争」は社会的脅迫からの解放という自由の選択を求めすぎ、「これが自由だ」とか「これが正しい」というような概念を強く持つ事によってうまれる他者との摩擦 と 僕は解釈しました。
「現代版神学論争」の事を否定する人いましたが、「真の神学論争」が素晴らしいものなら「真」ってなんですか?
キャッチコピーとしては素晴らしいですが、そういう所を乗り越えるべき時と言っているはずです。

投稿: yatoo! | 2008/06/01 18:21:02

The distinction of past, present, and future is illusion; however persistent.
-----A.E

投稿: s | 2008/05/31 22:14:46

ご無沙汰しております。
PCが壊れてしまって当分はPC無しの生活ですが、
久しぶりにプログを読んで脳科学と哲学の世界にふれれて、
うれしかったです。

>「選択の自由(と私たちが認識しているもの)」の背後にある
「人間原理(というより宇宙原理?)」が、
実は、
「選択の自由」のど真ん中を串刺しにしている、

そうなんですよね。
私の場合は、客観ではないので「認識」ではなく「実感」と
言う言葉になってしまうのですが、科学がこのことを証明
できているとすれば、どんな実験をしたのか気になります。

しかし、これを感じてから、自分と言うものが掴めなくなってしまったのは、
困りものです。でも、それさえも「自分」なのですが・・・。
「ふるまい」を自分とした時もあったのですが・・・。
ちょっと無理がありました。

茂木先生は、どう処理して生きていらっしゃるのでしょうか?

PS 音楽発表会の歌が決まりました。
「まりととのさま」と「夏は来ぬ」
です。
♪ てんてんてんまり
てんてまり
てんてんてまりの手がそれて~♪
なんちゃって、PCの壊れた私みたいですね。^^
ではでは 

投稿: あすか | 2008/05/29 13:17:42

>psychological time
昔、会社の同僚に、「相対性理論って、あい・たいする性の理論だろ!?」と言われて目が点になったことを思い出しました。たしかに恋仲の男女の間では、時間はあっという間に流れ、別れの話となると、同じ時間が異様に長く感じられる心理的時間は不思議です。

物理的時間というのも、「くせもの」です。たとえば体操選手の演技を見ているとき、脳の中でどんなことが起きているのか、イギリスの理論物理学者、Julian Barbourは、The End Of Timeという本の中で

"My idea is that when we think we are seeing actual motin, the brain is interpreting all the simultaneously encoded images and, so to speak, playing them as a movie."

と書いています。目の前の「現実」が、脳の中で「映画」として処理されているとすると、それで心理的時間が早送りになったり、スローモーションになったりするのか、などとわかったような気がするのが不思議です。

投稿: 遠藤芳文 | 2008/05/29 1:10:03

「神学論争」と言う言葉は、不毛な議論の代名詞としてほぼ間違いなく否定的に日本では使われるが、それは神学者や神学部生に対し非常に失礼なことではないかと思う。

真の神学論争は、本当に重要な問題を含む、歴史上の人間の知のフロンティアとかかわる深遠な問題なはず。しかし、神学に対して変な印象を持ったり、何の役に立たないと馬鹿にする人間が多い。これは、宗教全般に対しても言えるのではないか。

細かいところだけれど、こういったことが積み重なってその人間の思想は形成されていく。

僕は、こういう小さなところに違和感をすごく感じる。

投稿: なおき | 2008/05/29 0:52:15

こんにちわ

>「自由意志と因果律決定論は両立するか」
 
自由意志が何処までなのか難しいですね。頭を無意識にポリポリかく場合、クシャミをする場合、それは自由意志なのか、難しい・・・。(^^)

投稿: クシャミのクオリアby片上泰助(^^) | 2008/05/29 0:22:57

家事の合間のほんのひと時、you tubeの画面に釘付けになり、聴きなれた旋律のはずなのに、まるで今初めて聞いたように体中がしびれるような衝撃が走り、涙が止まらなくなってしまいました。放心状態から日常に戻るのにさらに十数分。こういう体験をする時、脳は一体どんな反応をしているのですか。ドイツに暮らして10年余り、こんなに心を揺さぶるようなフレーズ、
In des Welt-atems Wehenden All...に接したのは久しぶりです。

投稿: (マ)ゴグ | 2008/05/28 17:24:47

選択の自由の背後にある人間原理が、実は選択の自由を串刺しにしている。。

難しいです。頭にハテナマーク沢山浮かんでいます。でも…この感じなんでしょう。。
喉に小骨がつっかえているような…


気になりますが、整理できないこの言葉。
もどかしいです。

投稿: 奏。 | 2008/05/28 14:02:38

「das Andere(現にあるのとちがったもの)」
Th.W.Adornoが好んで使用した言葉です。現状に対するユートピア的な可能性に後ずさりしてしまう、不安感を伴う原理を受け入れることに於ける抵抗感を、音楽社会学の中にも見つけることができました。

投稿: Nezuko S | 2008/05/28 11:21:51

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