ブラックホール
Salt Lake Cityは、いわゆるMormonの人たち
(The Church of Jesus Christ
of Latter-day Saints)の聖地である。
そもそも、Salt Lake Cityという街自体が、
Brigham Youngらの開拓者によって
つくられた。
Temple Squareには、さまざまな建物があって、
その入り口をふらふらしていたら
中から声をかけられて案内された。
歩きながら、どのようなことを信じている
のか、穏やかな口調でお話下さった。
私は学生の頃からよくいろいろな
宗教の勧誘を受けたことはあって、
毎回丁寧に聞いたつもりである。
恵比寿の駅でアメリカ人二人に
声をかけられて、近くで話をじっくり
聞いたこともある。
生きる上で気に懸けるべきこと、
たとえば、他人を慈しむこと、
寛容の精神、苦難に耐えるべきこと。
このようなことについては、どんな
宗教であろうとも、収斂して
いくものだから、こちらも
大らかに受け入れることができる。
問題は、この世の成り立ちや、
誰が預言者であるとか、
神の子であるとか、そのような
問題についての認識で、
ここで、今日の科学的世界観と、
理性と、知的良心と、論路的整合性と、
さまざまなものを満たす形で
何かを言うことはとても難しい。
そのようなことについては私は非常に
ガンコだから、結局、何も身につかなかった。
ただ、現代の文明が、いわゆる
生老病死を隠蔽していることだけは
以前から問題とは感じている。
誰だって死ぬのはイヤだし、
老い、衰えるのはさびしい。
しかし、そのような一人称の
悩み、苦しみを、現代の最高の知的成果
と整合性のある形ですくい上げてくれる
そんな体系はない。
そのような巨大なブラックホールが
あるからこそ、現代人の多くは
大いなる虚妄とともにある。
The significance of consciousness, from the point of view of the pure functionality, is then the ability it apparently endows the cortical information processing system with, namely the generation and maintenance of the identities of the units of information. The conventional method of citing the mapping between external objects and neural states is not enough to assure an appropriate dynamics of information to be "bootstrapped from nothing". The "self" accompanied by a universal metacognitive process, is automatically necessitated, since metacognition is the only possible way of identifying informational elements. Metacognitive processes centered on the "self" also provide the mechanism for information processing in an "integrated parallelism", the hallmark of all conscious processes. The unconscious information processing, on the other hand, lacks this crucial property.
Since the integrated parallelism ultimately bears fruit in the actual actions, the origin of consciousness is essentially conditioned by the architecture in which the multiple sensations held by the "self" is finally reflected in the specific actions taken. ([34])
5月 2, 2008 at 08:02 午前 | Permalink
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コメント
いつも。読ませていただいています
あくまで、人全盛を無視せずに物事を見られる姿勢に
感動しています
本当にそうですね
核家族がすすみ、日常生活の中で「老い」を知ることこともなく
しんこくな「病」は、白い病院でしか語られなくなりました。
「死」ということにも目前で人が亡くなるということを見ることは
ほとんどないと思います。
シッダルタの四門出遊のエピソードを高校の倫理で聞いたとき
なんで、今まで、老人や、病人や死人を知らなかったのだろうと
おかしく思いましたが、現代はまさしく、老い、病、死から隔離
されていると思います。
しかも、シッダルタのように老病死に驚きさえもしないのかなと思います。 人命軽視と言われますが、老病死という現実に気がつくことが
生きる重みをしる第一歩だと思いました。
投稿: オカモン | 2008/05/07 13:38:55
茂木さん、またまたおこんばんは。
ブラックホール。
これからも考え続けます。それに向き合う力をつけること。問い続けること。それがあたしの選択。だから勉強する。
「誰だって死ぬのはイヤだし、老い、衰えるのはさびしい。しかし、そのような一人称の悩み、苦しみを、現代の最高の知的成果と整合性のある形ですくい上げてくれるそんな体系はない。」
ないですね。
多くの人がすくい上げられなければ意味がないですし。。
生まれてきたからには死ぬ。老いる。病気になる。
補助線をひいたり、抱きしめたりしながら(なかなかうまくできないけれど)事実を覆うことなく見つめる。覚悟の甘さに泣くこともあるでしょう。今できることは今やる。それがどう繋がるかわからなくても。
投稿: 柴田愛 | 2008/05/05 1:26:55
私は、信仰を持っていますが、他の宗教や学問を否定するのではなく、
関連付けて参考にしています。
それらが体系的なものに成りうるのか、他の人からは、なかなか理解されないのかもしれません。
また、必ず宗教には奥義があります。密教のように神秘を教えるものです。
これはもっと理解されないでしょう。
しかし、私はこれからも自分の信仰を軸に、色んなものを学んで行きたいと思っています。
自らの心の内の神秘を深くを見つめながら。
宇宙はビッグバンから始まったのですから…この世に存在するものは遠くても必ずや繋がっていると信じています。
投稿: ももすけ | 2008/05/04 12:21:52
2度目の投稿で失礼します。
小さな頃、両親と共に田舎へと帰省したとき、父方の祖父の葬式に出席することになった。
葬式の意味がまだよくわからなかった頃のこと、祖父(じい)さんが眼を瞑って横たわっている様が何だか不思議であった。
父方のいとこや親戚が遺体の周りに集まり、みんなわあわあ泣いていた光景が、今も印象深く、脳裡に焼き付いている。
今考えると、あの頃は都会でも田舎でも、生老病死はまだまだ完全に隠されていなかったのかもしれない。
投稿: 銀鏡反応 | 2008/05/03 16:36:14
ブラックホールは存在しても、その属性や仕組みがわかれば脅威ではなくなる。
自分の周りの人々と話すときに、相手の脳の中はどうなっているんだろうと考えながら話し始めて以来、私は人間関係が大分、楽になりました。人を傷つける人がいたとしても、よく観察すると相手の頭の中身が見えてくる。そう思えば許してあげられるようになったからです。
老いや死も、それによって人の頭の中がどう変わってゆくのか分かれば、少しでも受け入れ易いものになるように思えます。脳科学を分かりやすく説いていただける事は、私にとっては人生を随分と楽にしてくれました。心の在り処と成り立ちを、理解はできなくとも感じられるようにはなりたいです。
投稿: 清水 雅恵 | 2008/05/03 7:21:15
鎌倉は、「生」と「死」が併存する場所であるように思う。
死者の街ではけっしてなく、かと言って、都会のように忙しなく生き、
薄っぺらい人間関係に陥りがちで、個々が大衆の中に埋没しやすく、
生きる目的や本質よりもとにかく生き抜くことが最重要課題である場所でもない。
生命の躍動感と死の静寂が厳かな雰囲気を醸し出している。
川端康成がかつて言った「末期の眼」は、高校生の頃から、
私の価値・状況判断の一つの基準となっている。
自分がまさに最後の瞬きを終えようとする瞬間をちょっと想像してみる。
その時一体何が、自分の精神に最も平安をもたらしてくれるだろうか??
少なくとも、物(の多さ)や見栄・エゴから派生するその他諸々ではないが、
まだ未熟な私には、明確な答えはない。
私の両親は方や敬虔なカトリック教徒で、方や同じく敬虔な日本神道の信者だが、
同じ屋根の下に暮らし、道徳的観念においては共通理解をしているところが多い。
尤も、神の性格・数、この世の根源、生誕の秘密、奇跡、ヒトの性質、生活習慣など
では食い違うことも多いが・・・
ただ、科学も存在意義は説明できないし、もっともらしいことは多い反面、
この世を真に理解しているとも言い難く、時には仮説を真実と混同し、
要素的理解と総合的理解にはまだまだ溝があるのに、わずかな物から世界全体を
説明しようとする論理の飛躍もあり、極めて人間的な営み(文化)の一側面でしかない
ようにも思う(とか言っておきながら科学者を志しているが)。
この世をどう捉えるかは人の自由であり、それは尊重されるべきだと思うが、
究極的に何を信じるかについて、今のところ私には「最」良といえるものを
特定できない。
投稿: ひろぽん | 2008/05/03 1:10:01
宗教やそれへの信仰の問題は、さまざまや偏見や先入観も絡む場合があって、論じるのに一筋縄では行かない。
その上、宗教ごとのセオリー(教義)によって“救世者”とか“神の子”などの概念が、当然乍ら其々違うし、また、それらを信ずる、信じないという問題も、大変にデリケートなものだから、取り扱いには本当に気をつけなければならない。
すくなくとも私個人にとって「宗教」、言いかえれば「人間のための宗教性」とは何か、と考える時、真っ先に思い浮かぶのは、生きていく上で襲いかかるあらゆる試練や自身の弱さを乗り越え、人として何処までも成長しつづけることを促すもの、また、誰にでもあるという「希望の底力」というものを何処までも信じ抜く上で、一人の人を大切にし、誠意を尽くして友誼を結ぶことを教えるもの、そして、自分も他人も共に不幸を克服し、幸福をつかんでいくことを教えるもの、この3点である。
いまの社会が宗教もしくは宗教性について語ろうとしないことと、現代文明が生老病死をおおいかくしているというのは、何故か表裏一体にみえる。
宗教というのは生老病死にまつわる苦しみ、悲しみについて懸命に考え、乗り越えていこうとする哲学の実践で、その苦しみや悲しみを直視していくことを教えるものの筈だと、いつも思う。
投稿: 銀鏡反応 | 2008/05/02 23:27:12
茂木さん、スゴいです。
…聞いてもらえるという信頼(?)と、色々なお話の引き出しがある。。
茂木さんにお話をすれば聞いてもらえる…そんな安心感と大らかな雰囲気があるから素敵な人たちとの出会いもあるのかなと感じた(^ ^)
投稿: 奏。 | 2008/05/02 17:26:16
こんにちわ
私は、七五三にも行ったし、仏教のお墓に入る事になっているし、結婚は、教会で式をあげるだろう、典型的な日本人です。
宗教の勧誘を受けた時、私は、「日本で、生まれたら七五三、結婚は教会、亡くなれば仏教でお経なのか知っていますか?」と、よく言う。
勧誘の人は、「おかしな話ですね」と、よく言う。
私は、「神道の考え方の一つに『皆の健康を願う』と言う考え方があります。」
勧誘の人は、勝ち誇ったようにこちらを見る。
そこで私は、「皆の健康を願わない宗教は、どうですか?」と答える。
勧誘の人は、驚いた顔をして、色々言い始める。
私は、「まあ、いいではないですか?」と、言ってその場をさる。
私は、神道の考えの柔軟性に感謝しております。(^^)
投稿: 宗教のクオリアby片上泰助(^^) | 2008/05/02 15:43:12
"Science and religion are two windows that people look through, trying to understand the big universe outside, trying to understand why we are here. The two windows give diffinrent views, but they look out at the same universe. Both views are one-sided, neither is complete. Both leave out essential features of the real world. And both are worthy of respect."(Freeman Dyson) 今日の日記を拝見して、思い出した文章です。
投稿: (マ)ゴグ | 2008/05/02 15:41:12
「プロフェッショナル 脳活用法スペシャル」大変おもしろく見せていただきました。こちら
http://app.blog.livedoor.jp/officesherpa/tb.cgi/51336962
で、紹介させていただきました。
〉しかし、そのような一人称の
〉悩み、苦しみを、現代の最高の知的成果
〉と整合性のある形ですくい上げてくれる
〉そんな体系はない。
そうですね。どういう形の体系になるのでしょうか…。
「生老病死」…、若い人には、それ以前に
「人を愛する」ということからも
逃げている人が少なくないような
気がします。
投稿: しょうだ | 2008/05/02 14:36:28