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2008/04/02

一回性のすそ野

朝日新聞で、
朝日小学生新聞の内山幸男さん、
日能研の高木幹夫さんに
お目にかかる。

子どもから大人まで、
日本の学びのあり方を何とかしなければ
ならないという危機感を共有。

ミクロな努力だけでなく、
いかにマクロな視点からの
制度設計をするか。

「学べ、学べ、なおも学べ。」
(ウラジミール・レーニン)

NHKにて、本間一成さんと打ち合わせ。
「脳」スペシャルについて。

NHK放送技術研究所にて、
NHKに今年度入局する方々を
前に一時間お話させていただく。

行き帰り、至るところで
桜が綺麗だった。
手元はずっと仕事をしながらも、
心地よい。

渋谷にて、
『プロフェッショナル 仕事の流儀』
班の花見。

座間味さんが窓から大きく桜が
見える店をとってくださった。


絶景じゃ、とご満悦の河瀬大作さん

音声編集の「いのっち」こと
井上さんが人生の転機を迎え、
皆で送別する。
井上さん、新天地でも
より一層ご活躍ください。


いのっちと有吉伸人さん


山本隆之さん(タカさん)


奥でケイタイを操作する本間一成さん

アンサンブルをもって
対象の性質を論じる統計的
アプローチは機能の解析のある局面に
おいては有効なものの、
意識の起源を説明する究極の
論理とはなり得ない。

意識の全ての性質は、
「今、ここ」の脳のシステムの
属性に基づいて説明されなければ
ならない。

「反応選択性」は、その
概念の中核に統計的なアプローチを
含むため、意識を説明する
第一原理とはなり得ない。

もし、時間的、空間的な非局所性が
関与する場合は、
ライト・コーンの内部の、
因果的にお互いに単連結な
範囲でそれが生み出されなければならない。

つまり、意識の非局所性は、それが
いかに顕著な場合でも、
因果性によって大きく制約されて
いるのだ。
([10])

5歳の頃、近くの空き地にノビルが
生えているのを見て、摘んで家に持ちかえった
ことがあった。

母が油炒めにしてくれた。

誇らしくて、おいしかった。

一度しかなかったことなのに、
鮮明に覚えている。

一回性の出来事は、一瞬にして
消え去る。

一回性のすそ野は淡く強く
潜伏する。

4月 2, 2008 at 08:45 午前 |

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コメント

こんばんは。

一回性の出来事は、一瞬にして消え去る。
一回性のすそ野は淡く強く潜伏する。

これで、過去の時間箱に、安心して鍵をかけることができます。
今、ここから、思い切って前を向くことができます。
ありがとうございます。

投稿: s.kazumi | 2008/04/03 23:08:43

 茂木先生、いかがお過ごしですか?
 本日夜半、霞ヶ関界隈を歩いていたら、可憐な桜貝色の花びらが路上に散り始めていて、踏んでしまうのが痛々しいほど、汚れのない清らかな姿で横たわっていました。
 そして時折微風にあおられて、ほんの少しだけ宙に舞っていて、その上に視線をやると、すでに桜の樹には小さな若葉が芽吹いていました。 いよいよ眩しい新緑の季節がやってきますね。
 恐らく日本人のDNAに組み込まれているのでしょう。誰もが桜が愛おしくなるように・・・。
 ひらひらと散って逝く、儚い命の桜の花を見ていて、ふと「死」を考えてしまいました。
 20代は、他の人と比べて人生を倍速で生きた観があり、もう何もこの世に未練を残すことはないと思いました。それ以来、「生」に対する執着が一切ありません。
 「あなたは末期癌で、余命3カ月」と宣告されても、もちろんその場では動揺するでしょうが、「なぜ私が?」とか、「もっと生きたい」とか、そんな思いにあまり囚われないような気がします。淡々とその事実を受け入れのではないでしょうか。高校時代に出合ったキリスト教の影響なのか、大学時代に知った仏教の教えのせいかのか・・・長生きすることが、人の幸せとは思いませんから・・・。

 〝願わくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月の頃〟(西行)

 ちなみに旧暦の如月ですから、桜の咲くちょうど今頃でしょうか?

投稿: K.M | 2008/04/03 0:34:43

去年の初夏のこと。

ある土曜日の午後、都内某所を歩いていたら、目の前に空き地があった。空き地の奥まったほうには、野生の黄菖蒲(キショウブ)が沢山生えていて、それが緑1色の世界の中で、ひときわに、鮮やかに、目に焼きついた。

足下をふと見ると、そこには、おお…! 丈のとても低い木の葉に、羽化したてのオレンジ色をした天道虫(並テントウ)や、トゲトゲの蛹、そして幼虫達がいくつもいて、瑞々しいメタモルフォーゼのさまを見せていた。

新しく生まれ代わるという、小さな生命のその営みが、とても神秘で、かついとおしいものに見えた。

あの天道虫たちの姿と、黄菖蒲の群生は、もう2度と見れはしない。

それらの姿は、私の脳裡に、今も“オレンジと鮮やかな黄色”を伴いて、今もくっきりと、残っている。

投稿: 銀鏡反応 | 2008/04/02 21:37:07

意識の非局在性で問題となっている「意識」は、
三人称的に扱えば、その存在が「有る」か「無い」か問うことができるものですが、一人称的な立場で、当の自分の意識があるかないかを疑うことは、すでに「在る」ものは「有る」のか「無い」のかと言っているように感じます。

この「在る」は、「有る」「無し」の「有る」とは違うと思います。意識の非局在性が問題となるとき、
その「在る」と「有る」が混同される事にも重大な問題があると思うのです。

クオリアが「私のクオリア」「私のもっているクオリア」等と言われるとき、そのクオリアは「有る」「無し」の「有る」として捉えられているクオリアにすり替わっていると思います。

鏡の中の私がクオリアを持ってい"無"ければ
意識に表象されている私や他人もクオリアなんてもっていません。
そもそも、哲学的ゾンビなのではないでしょうか?
哲学的ゾンビの問題、または認知科学等の抱えている問題は
「在る」と「有る」の混同であると感じています。

投稿: 金田恭俊 | 2008/04/02 16:02:45

今日も言葉達を噛み砕きながら読んでいます。

分からないモノについては調べ、何個か候補の意味を頭に置き、再び読む。
そうしたことにより、前には見えなかった言葉達が見えてくる。

字間を通して感じられる(触れられる)クオリアが、“そう”であっても、しっかりと『おとしこみ』しなければ、そのクオリアが本来のモノなのか分からない。これに尽きる!と。

公開収録には行かれませんがテレビの放送、楽しみにしています!

投稿: 奏。 | 2008/04/02 13:29:42

こんにちわ

「反応選択性」は、記憶や認識などの無意識・機械的な要素だと思います。
「ライトコーン」まで考えると、素粒子より小さい時空間が考えられ、現宇宙から平行宇宙に分かれる時に、意識が発生するとも考えられるのではないでしょうか?


ところで、地元の桜は、咲きかけです。(^^)

投稿: 反応選択性のクオリアby片上泰助(^^) | 2008/04/02 11:37:17

 野蒜の事をうちの方では"ののひろ"といいますが、私も同じ様な経験があります。
 土手から引き抜いたその先に、どっさり房の様に球根がついていたのを見たとき、うれしかったなあ。
 うちの母は、味噌炒めにしてくれました。

 >誇らしくて、おいしかった

 まったく。

投稿: 大栗 勝 | 2008/04/02 9:36:32

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