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2008/04/03

野澤真一くんは偉かった

東京工業大学すずかけ台キャンパスを
歩く。
ぽかぽかぴかぴかきもちいい。

博士論文の中間発表を聴く。
三宅美博先生の研究室の武藤ゆみ子さんと、
中村清彦先生の研究室の高橋大樹さん。

タップのようなアクションを何回も
繰り返すと、神経回路網にhabituation
やfatigueが起き、文脈づけられた
状態から逸脱しようとする。
そのことをどう考えるか。

強化学習において、正の報酬と
負の報酬の意味は非対称であるという
高橋クンの直観は、正しいもののように
思えた。

NHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』
の本間一成ディレクターと、
カメラの愛甲明正さん、
音声の藤村宗信さんが合流。

いっしょに駒沢公園に向かう。

野澤真一くんは偉かった。

今年の研究室の「チーフ・ハナミ・オフィサー」
(CHO)として、駒沢公園を
選定し、場所の確保、買い出し、その他必要な
ものの準備を、野澤くんがすべて
やってくれた。

桜は満開。

愛甲さん、藤村さんと、
カメラや音声の話をする。


カメラの愛甲明正さんと音声の藤村宗信さん

塩谷賢が来る。
塩谷は、お酒をかーっとくらうと、
そのまま野澤がもってきた毛布を
かぶって眠ってしまった。

誰かが持ってきたおにぎりを、
塩谷クンの前にお供えする。

チーフハナミオフィサーの野澤
くんが、塩谷おしらさまのご機嫌を
うかがう。

「うーん、余は満足であるぞ!」
とおしらさま。


野澤真一くんと、塩谷賢くん。

様々な方がいらっしゃる。

PHPエディターズ・グループの
石井高弘さんと田畑博文さん。
NTT出版の牧野彰久さん。


石井高弘、田畑博史、牧野彰久のそろい踏み。

電通の佐々木厚さん


佐々木厚、関根崇泰、塩谷賢

塩谷が、本間一成さん、柳川透と話し込む。

桑原茂一さん、白洲千代子さんもいらして
下さった!


桑原茂一さん、白洲千代子さんにお酒を
すすめる佐々木厚さん。奥で関根崇泰と田辺史子が
しゃべっている。

大槻あかねさんは、ほぼ日での
連載が始まったとのこと。

http://www.1101.com/a/index.html


楽しい時間が過ぎていった。

ニューヨークで活躍するキュレーターの渡辺真也も来た。

大場葉子、大場旦夫妻もいらっしゃる!

その他、吉村栄一さん、吉井豊クン、
幻冬舎の大島加奈子さん、植田工クン、
吉田菊子さん、岸本由香さん、澤繁実クン、
筑摩書房の伊藤笑子さん、
母の友の高松夕佳さん、長場恵子さん、
などなど。

皆さん、ありがとうございました!

田谷文彦と議論しながら帰る。

EEGのデータ、面白そうじゃ
ないか、田谷クン!

それにしても野澤真一は
偉かった。

お酒を飲まないでいるから、
どうしたんだ、と聞いたら
さまざまな物資を車で持って
きたのだそうだ。

塩谷賢くんがお休みになった
時にかぶっていた毛布も
野澤くんが持ってきた。

寒くなったのでカラオケに移動して、
帰る時になって
「野澤クン、ありがとう!」
と言ったら、野澤が
「いやあ、酒も飲まなかったし、
なんだかもの足りない感じだったけれども、
一曲歌ったら気分がすっきりしました!」
との返事。

野澤、今日君は本当に偉かった。
この勢いと気働きで、spontaneityの
あの論文も、がーっとやってしまおうよ。

脳の中の情報表現を考える際、
現象学的な属性と共に変化する
ものにどうしても目がいく。

それは、情報表現における明示的要素
である。

しかし、情報表現には、明示的要素の
変化の前提になる暗示的要素も
ある。

たとえば、意識の統合された並列性の
前提となる「私」という枠組み。
暗示的要素があってこそ、初めて
明示的要素による情報表現の
共変動が意味を持つのだ。

そしてクオリアの
鮮烈な属性を与えるものも、
明示的要素ではなく、
暗示的要素である。

つまりは暗示的要素を具体的に
書き下さなければならぬ。
([11])

4月 3, 2008 at 08:49 午前 |

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受信: 2008/04/04 7:33:42

コメント

嗅覚のキイワードは、今
香りはリアルな今を、感じる

聴覚、視覚、時には味覚も、
「その時を再現する力」がある

しかし、香りの「その時」の再現は難しい

ふっと、思い浮かんだのは荒井由美さん
嗅覚を再現しているのでは!
エレカシが、カバーしている「翳り行く部屋」も
香りを感じる

なんてことを
朝のコーヒーを飲みながら思う
贅沢な時間

投稿: | 2008/04/04 7:26:22

茂木先生こんばんは。
わたしの
中のクオリア。

脳ないへ、知らないうちに積み重なり、
知らないうちに暗示的要素へと受信路ができていた。


今日は、わたしの中のクオリアを、全身に感受しようと、ここ最近の、脳ないへのアプローチに忠実にと。
とある場所へでかけてゆこう。


明示的要素へと変化する瞬間には、日常を保存してリラックスすることも大切。

まさに。
お花見だったりと、楽しそう。

そして又、次の日にはそのクオリアと、受信路により共変動してゆくわたし。

投稿: | 2008/04/04 1:23:19

「私」という概念が、意識の枠組みとしてある、その「私」の透過性はどのようになっているのでしょうか? その「私」の絶対性はどのように保障されるのでしょうか?常々、「私」とは何かと考えることが多いものですからお聞きしました。

投稿: Nezuko S | 2008/04/04 0:38:22

こんばんは。
野澤さんの気働きに拍手。
そして、おしらさまは最高です。
鎮座するお姿にも横になられるお姿にも後光が差しています。
一杯お酌などして差し上げたかったです(笑)。
地元は桜、まだです。あと少し。早く咲きますように。

投稿: | 2008/04/03 23:12:43

今日(04/03)、職場の近くにある公園(港区・南桜公園)の染井吉野が、もう葉桜になり始めていた。折りからのヌクヌクな空気が、爛漫と咲いていた桜を吹雪に変えて、公園の地面に降らせていた。

駒沢公園でのお花見…本当に皆様が楽しんでいる、という雰囲気がひしひし伝わってきます。爛漫と咲く花の下で、楽しく宴を繰り広げるさまが…。

皆様の様子を見ていて、私は何故か、ちょっぴり羨ましくなってしまった(失礼)。

桜吹雪が舞い流れていく今日この頃、埃と花粉と黄砂に塗れた世間では、今宵この時も、数多の情報が、現実世界といわず、仮想世界といわず、光の早さで流れている。

それらの情報を脳に入れて、自在に、好きなように組み合わせて、どんな形でもよいから、おのれの手で新しい、よきものに創りかえる。あるいは内面の秘めた思いを、何らかの形にして外に放出していく。

表現すると言う事は、何かを生み出す、創り出すこと…創造と深く繋がっていなくてはならない筈だと思う。

投稿: 銀鏡反応 | 2008/04/03 20:20:50

茂木さん、おこんばんは。
いま夕陽を見ていました。夕方の気配はいつも一瞬、あたしをさみしいようなコドモじみたキモチにさせます。
昨夜、部屋の小そうじをしました(もともと興味の対象が外に向かっていると多少の散らかりは気にならないのですが)あまりに落ち着かないので、ふと部屋を見渡すと…×。即、片付けました。気がつけばようやくこの一月を振り返れるようになっていました。個人的でささやかなことではありますが、頑張ったなと!茂木さんの著書や日記(皆さまのコメントも)、仕事、仕事関係の人、家族、友人の存在があたしを生かしてくれた。ありがとう☆

投稿: | 2008/04/03 18:23:27

>たとえば、意識の統合された並列性の
>前提となる「私」という枠組み。

その前提となる「私」という枠組みと。
その前提と共に明示的要素として現れてくる「私」

「私」というものを考えたとき、
「私」には暗示的要素と明示的要素の二つの特性があるという思いに至ります。
しかし、ここで更に問いが生じます。
暗示的要素としての「私」と明示的要素としての「私」がなぜ、ともに同じ「私」という言葉で表現されているのか。それらは何故同じであらねばならないのか。いったいその要素を統一しているのは何であろうか。

更にそれは、言葉が明示的要素しか表現できないツールであるならば、どうして「暗示的要素」を言葉で表現することが可能なのであろうかという問いでもあります。

「語り得ぬもの」をまさに、「語り得ぬもの」として語ることができる「私」
という矛盾を、無矛盾にもしくは、矛盾のまま受け入れることができたとき、

私達は「語り得ぬ」暗示的要素を語ることができると、私は信じています。
しかしそれは捨て置かれるために語られ、書き下されるべきだと思います。
そして、それを聞き、それを読む者もそれを、そこに捨てておかねばなりません。

道路の案内標識を道路から引っこ抜いて目的地に到着しようとする人がおかしいように、
道路の案内標識をみつめただけで、目的地に到着したと思う人がおかしいように。

投稿: | 2008/04/03 14:58:38

こんにちわ

暗示的要素及び無意識的機械的要素がなければ、景色を見ても、色がバラバラに付いているだけに見えるでしょう。たとえば、インコが、しゃべっても、意味を理解していない。確かに、音声のクオリアがあるが、音声の意味のクオリアはない、と、考えられる。

最後の全景の写真の端の子供の髪の毛が立っています。なんでだろう?(^^)

投稿: | 2008/04/03 13:52:11

情報表現での明示的要素と暗示的要素。


『おとしこみ』が出来ないなかでは、情報表現が必要となる。
何もしなければ、“そこ”にあっても本当に“ある”か“ない”か、分からない。また以前は分かっていたとしても、(情報表現というツールを軽視すると)“あったもの”も分からなくなってしまう。

だからこそ情報表現と『おとしこみ』どちらも大切なのだ。と、いう事のように本日の日記を読ませて頂き、感じた。

投稿: | 2008/04/03 11:49:18

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